77題 差別問題の重苦しさ

差別問題の重苦しさ

差別問題は実に重苦しく、自分の意見を自由に言うことがなかなか難しい。

 この重苦しさは何だろうと考えていたが、次のような文章に出会って考えさせられた。

 

「(同和対策事業などで)なぜ自分たちだけが特別の者として扱われるのかと論議してきた。初めは、部落解放のためなのだとお互いに確認し合ってきたはずである。でも、論議は続かなかった。‥‥

 これについてひとつの言説があった。「世間や社会がこれまで差別してきたツケを払ったということに過ぎないわけですよ。ツケを払って、これでチャラにしてや、ということにした」というのである。分かりやすい説明である。‥‥
 部落差別の「ツケ」を受け取る権利を持つ者は、ツケを払う義務のある者の前で、どのような態度をとるだろうか。借金は返せば済むものだが、「これまで差別してきたツケ」は、そうはいかない。「ツケ」の大きさは、求める者が決めるのだから、恣意的でしかも無限なのである。このようにして、ツケを受け取る者、ツケを払う者の二項対立は固定化してしまう。つまり問答無用なのである。‥‥

 ツケを受け取る者、ツケを払う者を二分することは、この上もなく重苦しい人と人の関係を創り出す。部落解放運動は社会運動として多くの人を引きつけてきた。しかし、一旦その中に入ってみると、何とも重苦しい関係に縛られる。その重苦しさの原因は、容易に解き明かせないものであるが、ひとつの契機は、このツケを受け取る権利を持つ者、払う義務を負う者という固定化した二分割である。この重苦しさの中で多くの人が苦しみ抜き挫折した。‥‥」

  石原英雄「市民としての感覚から」(『こぺる136』2004年7月号所収)

 

 これは部落問題だけでなく韓国・朝鮮問題にも共通することだ。差別問題の重苦しさは一体何かを考える上で、なるほどと参考になる。

このようなことが活発に議論されるようになることを望んでいるのだが、残念ながら現実には難しい。

 

ある女生徒の言動

水平社博物館館長の守安氏がかつて書いたエッセイに考えさせられるエピソードがあった。部落問題をやっておられる方には有名なものらしい。一般には知られていないので、紹介したい。

 

 「次は私の妻の体験である。私の妻も高校の教員をしている。‥妻が部落解放奨学生の宿泊リーダー研修会に参加のした時の出来事である。第一日めの夕刻、妻と同部屋の女生徒(妻とは別の高校)が生徒だけの打ち合わせ集合時間に遅れているので(その女生徒が鏡を覗き込んでいたからなのだが)、妻が「集合時間に遅れるよ。あなた鏡を見るのが好きなのね」と言ったという。その女生徒が部屋で何度も鏡を見ていたから、妻はそう言ったという。夕食後、妻は廊下で十数名の奨学生に「『化粧ばかりしている』と言っただろう」と詰問され、その後、夜中の2時頃まで指弾されたという。その日、高校生の間で話し合われた内容は、管理教育についてであった。「鏡云々」が「化粧」に変わり、管理教育粉砕、「この子の苦しみが、先生に分かるのか」、「昼間の先輩の講演の時も寝ていたやろ」となった訳である。妻は誠心誠意、奨学生の怒りと批判に答えたという。「この子の苦しみ」とは部落差別を受けている、ということである。確かに、その当時も、今もそうだが、家庭や学校での「苦しみ」を校則違反(服装違反・頭髪違反)という形で表現する生徒たちはいた。その気持ちが解らないではない。しかし、この場は少なくとも部落解放奨学生のリーダー研修会であり、差別されているから校則違反も許されるべきだとすれば、それはあまりにも低次元の話ではないか。思い出せば言いたいことは山ほどあるが、私自身の感情は抑えることにする。

 問題は次の朝の出来事である。朝食後、当該の女生徒が突然、私の妻のところにやって来て、「先生、ごめんな。うち、先生の苦しみが分からんかってん」と言ったという。妻はアッケにとられたという。しばらく事情が飲み込めなかったらしい。要するに、他の参加していた教員の誰かあるいは妻の学校の生徒が、妻が部落出身であることを告げたのである。妻は、これは一体何だ、と思ったという。昨夜妻は、管理教育の権化と目され、集中砲火を受ける中で、それを敢えて正面から受け止め対応したという。そして口が裂けても、昨夜の話し合いの中では「私も同じ部落民よ」とは言わないと心に決めていたという。それを言っちゃおしまいよ、と考えたという。怒りと批判の対象ですら、同じ部落民と分かれば、皆兄弟姉妹、こんなものが部落民の優しさと温もりか。一体、これは何だ。体全体から力が抜け、怒りよりも悲しみに包まれたという。」

 『国立歴史民俗博物館研究報告第99集』(2003年3月)318〜319頁より、再引用。

 

 これは差別問題に取り組む教育や運動が何を目指そうとし、どんな結果をもたらしたのかを考えるのに貴重な材料である。この女生徒はその結果であろう。彼女を決して冷笑してはならない。

 

解放運動の成果

 奈良で解放同盟の書記長、委員長を歴任した山下力氏が自分の半生記を書いた『被差別部落のわが半生』(平凡社新書 2004年11月)という本を出版された。そのなかに次のような記述があり、考えさせられた。

 

15兆円

「特措法は結局三十三年間に『社会的、経済的、文化的に同和地区の生活水準の向上を図り、一般地区との格差(実態的差別)をなくす』ことと『地区住民に対する差別的偏見(心理的差別)を根絶する』ことを目的として、総額十五兆円の予算を消化し、二〇〇二年三月にその役割を終止した。

‥‥もし『答申』の言うところが正しければ、ここで差別を再生産してきた悪循環に終止符が打たれているはずであった。しかし、三十三年間の歳月と十五兆円という巨額な公的資金を投入した壮大な部落解放の試みは、残念ながらその途上で蹉跌したと言わざるを得ない。」97〜98頁)(蹉跌〔さてつ〕とは躓きあるいは失敗という意味)

 

同和対策に投入された公費が実に15兆円である。国民の納めた税金からこれだけの金額を出させたことが解放運動の成果であった。しかし結論は「蹉跌」である。運動団体がよく言う「厳しい差別がまだ多く残っている」がそうであろう。気の遠くなるような巨額の公費を投入させても解決しなかったと活動家自身が言うことに複雑な感情を抱く。

 

糾弾

「『差別糾弾闘争を行政闘争に転化・発展させよう』という倒錯したスローガンのもとに『被差別の立場』や『被害者意識』を誇張・拡大してモノやカネを引き出してきたわが同盟の『第二期』の運動」82頁)

「すべての責任を行政に転嫁しすべての怒りを行政に集中していくのである。そして行政にはさまざまな要求を突き付け、差別者には、われわれが正しいとする部落問題意識を繰り返し丁寧にわかるまで教えていくという結論に達するように仕向ける。行政は具体的な施策で応え、差別者は研修会を設定しわれわれの『指導』を受ける、というのが『糾弾』のパターンだった。」105頁)

「私たちは差別的な言動に直面するたびに、『差別はいついかなる理由をもってしても絶対に正当化されない最大の社会悪であり、人間の尊厳を侵す犯罪である』と想定し、厳しく追及してきた。そして『あるべからざる犯罪行為』を犯した当事者に対して、「正しい知識」と「正しい認識」を注入するために、耳にタコが出来るまで繰り返し繰り返し教育と啓発を行ってきた。

しかし実際のところ、ほとんどが『馬の耳に念仏』の類だった。当事者が『認識』したのは、『二度と軽率なミスはしないでおこう』とか『部落(問題)のことは避けて通るのが賢明だ。これから気をつけよう』ということぐらいではないのか。」108頁)

 

糾弾とは、当事者の口をこじ開けて「正しい認識」という石を詰め込み、行政からはさらなる同和施策=公金を引き出すものである。そしてこれが解放運動の成果であった。

しかし詰め込まれた人や責任転嫁されて怒りを集中された行政担当者の精神状況はどのようであったのか。それを思うと、これまた複雑な感情が出てくる。

 

同和教育

「いわゆる『同和教育』に、いろんな問題があったのも確かである。例えば、なるべく早く部落民としての自覚と部落差別の歴史を教える必要があるということで、小・中学校で週一回部落の子だけを集めて『補充学級』をやる。これに対して、『部落の子だけ特別扱いして、何でや』という反発が起きる。

 また中学校では『補充学級』のある日は、部落外の子も含めてクラブ活動は一斉にやらないことにした。部落の子が参加できないクラブ活動は差別的だからやめよ、とわれわれ運動体が言ったわけだが、これに対する反発も大きかった。」127頁)

 

「補充学級」は部落の子だけを集めて行なう放課後の補習というのが実態であった。同和教育とは一部(部落民)の利益のために行なう教育で、他の多数(非部落民)はそのために蒙る不利益を我慢せねばならないというものなのである。そしてこれが解放運動の成果であった。

この学校および教師たち、そして運動団体を見る周囲の目の厳しさが想像できる。

 

重苦しさと憂鬱

山下氏はこの本で解放運動をかなり正直に語っており、また決して暗いものではない。そしてこれまでの運動に一部であるが疑問を呈しているところに共感を覚える。それでも私には差別問題の重苦しさと憂鬱を改めて強く感じさせられたのである。

ところでこの本の中にある朝鮮関係の記述には間違いがかなり見られる。これは残念と言うしかない。

 

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