92 「同化教育」考

 

私の家が朝鮮人だからといって、民族教育してもらわなくても結構です。民族教育はわが家でやります。ほかの日本の子供と同様に、差別することなく教育してもらいたい。

(ある在日保護者の言葉)

 

 日本の学校の教師で在日朝鮮人問題に関心のある人は多い。朝鮮文化研究会といったクラブをつくったりして努力している。しかし在日朝鮮人子女が入学してきたとき、何とか自分の思いを保護者に伝えようとすると、返ってくる答えが上記である。

 在日の父母の立場から言えば、学校に民族教育を期待するのなら最初から民族学校に入れる、日本の学校に入れる以上は国籍等関係なく平等に扱ってほしい、というものである。しかし朝鮮問題に理解のある教師は日本人と同様に扱うことはその子の民族性を否定する同化教育であり、戦前の内鮮一体化を旨とする皇民化教育と同じものとして否定されるべきだと思っているから、父母の思惑とは違ってしまう。

 実際には教師は、すべての生徒を平等に扱うよう努力するだろう。日本語が不十分だとか低学力だとか身体にハンディがあるとかでその子を特別扱いするのはいいが、国籍・民族が違うというだけで他の生徒と違う扱いをするというのは許されるものではない。そして授業は日本語でするしかなく、日本の文化や国語、歴史、地理を教えていく。それを「同化教育」だというのなら、その通りである。

 結局学校の教師は生徒たちと具体的に接するとき、朝鮮人も他の日本人同様に生徒として同等に扱うという「同化教育」をするしかない。実際問題、朝鮮語のできない教師が同じく朝鮮語のできない朝鮮人生徒にいったい何ができよう。民族性の涵養は、本人および父母が主体的な判断でもってやるしかないものだ。学校および教師には「同化教育」の範囲のなかで本人や父母の判断を尊重していくことが求められるのであり、彼らにそれ以上のことを期待することはできないことなのである。

 

(追記)

自費出版『「民族差別と闘う」には疑問がある』(1993年)の一節の再録。

 

 ところで拙論第52題では、在日の民族教育について次のように論じました。

 

「ある公立学校の校長先生が在日に「民族教育を受けたいのだったら民族学校に行きなさい。日本の学校では民族教育はできない。朝鮮人は朝鮮に帰るべきだ。」と発言して、これが「暴言」と批判されていた。校長先生の発言は20年前(1970年代)までは暴言でも何でもない、ごく当然の発言であった。その当時「在日の子弟を民族学校の門に連れて行く、日本の学校の先生に出来ることはそれだけだ。」という主張は、在日の側からも革新といわれた日本人の側からも大きく叫ばれたことであった。(ちなみに保守の意見は、反日教育する民族学校の存在は許されないというものであった。)」

 

 日本の学校は日本語で授業を行ない、日本の文化、歴史を教えていきます。つまり日本人としての教育を施すのが日本の学校です。これを基礎にして他の多くの国の民族・文化の理解を深めていくものです。在日外国人はこれを承知の上で自分の子女を日本の学校に入れます。

しかし一部の教師や在日保護者たちは、日本の学校でも在日の民族教育をすべきだと考え、それを実践する活動をしています。このごろは「多民族共生」という言葉を使うようです。しかし本稿にある通り、日本の公教育においては課外ならいいことなのですが、正課として取り組むべきものではないでしょう。

在日が民族教育を求めるのなら、民族学校に行くか、祖国に留学するかを選択すべきものです。

 

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