97題 「ガマ」の研究序説

ガマの概要

1、棚田とガマ

 大阪府豊能郡能勢町長谷地区は町内の南西端に位置し、周囲を険しい山並で取り囲まれ、中央を東流する長谷川に沿ってわずかに平坦地がある。水田のほとんどは山腹の急峻な谷に広がり、棚田として他とは違った景観を呈している。

 この棚田には「ガマ」と呼ばれる特異な水利施設の存在が、以前より知られていた。これは山腹を流れる水脈に石組みを構築するもので、その上に盛土して水田をつくり、棚田を造成している。この石組みは横穴式で、棚田の各所の石垣擁壁にその入り口を見ることができる。この横穴式の石組みが「ガマ」と称される。そして棚田は、このガマを利用して灌漑を行なっているのである。

 棚田は前述のように山腹の谷に広がる。ガマの分布する谷は、“山田の谷”“宮の谷”“中西”“溝谷”“土井谷”の五つで、これらの谷に造成された棚田にガマが構築されている。1984年度の調査(後述)では、棚田の総面積17.4haに217ヶ所のガマが確認されている。

 その中でも分布密度の高い谷は“中西”と“宮の谷”である。“中西”では比高差172m、平均勾配1/5.8、面積5haの棚田に140ヶ所のガマがある。また“宮の谷”では比高差98m、平均勾配1/4.3、面積0.4haの棚田に21ヶ所のガマがある。

 ガマは棚田の灌漑だけでなく、洪水調節機能も合わせ持つ。すなわち大雨の時にこのガマに水を集めて素早く下に流し去るのである。ガマは急峻な棚田が長年にわたって崩れることなく維持されてきた大きな要因の一つとなっている。

http://tanadahe.exblog.jp/m2004-09-01#387233

http://www.acres.or.jp/Acres20030602/tanada/100selectmap/oosaka.html

 

2、ガマの構造

 最も標準的で典型的なガマの構造を模式的に図化したものが下記の図である。

http://osaka-midori.jp/nouen/tana-in-gama.html

 ガマは落とし口、水溝(横穴式の暗渠)、ガマ口で構成される。上の落とし口に入った水は、水田下の水溝を通ってガマ口に出て、次に下段のガマの落とし口に入って水溝→ガマ口と繰り返しながら連続して流れる。落とし口をベニヤ板もしくは土嚢で塞ぐと、水田に水を供給することができる。

 これは標準的・典型的な例であって、すべてのガマがこうであるわけではない。落とし口の不明なもの、水が流れないで機能を失ったもの、ガマ口を土管に置き換えたもの、ガマ全体が改修されてヒューム管に替わっているものなどがある。

 また落とし口と水溝最奥部とは離れている場合が多く、その間は集石暗渠(いわゆる盲暗渠)となっていたり、単なる集石であったり、時には近年に改修されてパイプ管が敷設されていることもある。

 ガマに利用される石は長谷地区に多い自然の転石である。ガマは人が動かせる程度の転石を集めて組み上げ、構築されたものである。

 なお転石でも巨大なものは棚田の水田面に露頭することがあり、人力で除去できないので耕作の支障となっている。

 

【ガマ口の写真】

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/gama1

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/gama2

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/gama3

 

3、既往の調査

 ガマの最初で本格的な研究は、鳥越憲三郎氏によるものである。主に文献資料や民俗学的な観点からの研究であるが、ガマそのものの実測調査も行なっており、総合的な研究と言える。その成果は(註1)の文献で発表されている。ガマの評価については、この研究の発表後は基本的にその見解に負っているといっても過言ではない。

 ガマはその文化遺産としての重要性から、1984年度に大阪府農林水産部が分布調査を実施した。また1989年度にガマの構造を見るために同部が大阪府教育委員会の協力を得て、“宮の谷”bWのガマの発掘調査を実施した。以上の調査成果は内部資料として当初公表されなかったが、後に(註2)、(註3)の文献のなかでそれぞれ公表されている。

 1991年度になって長谷では圃場整備事業が計画され、ガマが影響を受けることになった。そのため同事業に先立ち大阪府教育委員会が発掘調査を実施することになり、“山田の谷”bS、5、8のガマが調査された。(註2)の文献にその概要が報告されている。

 

4、ガマの時期

 ガマがいつ頃構築されたかについては、鳥越氏によれば、

 

「何時の時代につくられたかについては、文献の上からも、また口碑としても明らかではない。しかし、ガマをもつ耕地すべてが文禄検地帳に記載されており、耕地を設定してから後に構築されたものではないところから推して、少なくとも文禄以前につくられたものだということだけは断言できる」

「ガマのあるところはすべて文禄古検の耕地に限られている。ガマの構築が耕地をつくって後につくられたものではないことから考えて、ガマは文禄以前に構築されたものと見てもよかろう。文書によるガマの考証は、文禄以前に遡ることを得ないが、その起源はそれよりも更に古く、相当早くからこの地に発生したものであることだけは推測できる。」(註1)

 

と、文禄三年(1594)の太閤検地以前のものと推論されている。

 1990年2月に実施された“宮の谷”のガマの調査では、江戸時代前半かと考えられる伊万里焼の破片の出土が報告されている。報告者は

 

「これがガマ構築の時期を示すどうかは、にわかに決め難いが、ガマが相当古い歴史をもつ事は確実である。」(註2)

 

と慎重である。

 1991年の“山田の谷”のガマの調査では、

 

「上段集石部分の掘り込み部分は鎌倉時代の遺物包含層(瓦器、土師器、白磁等が出土)を掘り込んだものであり、また、掘り込み面上層からは近世の陶磁器片が出土する事から、構築時期がある程度限定できる。」

「今回の調査によると、鎌倉時代にまで遡らせることは不可能であるが、少なくとも室町時代の範囲内に絞り込むことは可能である。」(註3)

 

と報告されている。

 ところで、棚田の擁壁である石垣は、水田と水田の間をほぼ垂直の段差とすることによって水田面積を広げることになり、収穫量の増大につながるものである。ガマも石垣も同様に石を組むものであるから、一体として構築して棚田を造成したものと考えることは可能である。石井進氏は、全国的に棚田を概観して、

 

「戦国・織豊時代、全国に急速に広まった石垣造りの築城法に伴い飛躍的進歩をとげた石垣積みの技術が、『徳川の平和』と一国一城令の影響で軍事技術から生産・産業技術に転換したことが、石垣の畦が普及した背景にあったと考えれば、その時期はいくら早くともやはり江戸時代に入って以後となろう。」(註4)

 

と論述されている。この見解を取り入れるならば、ガマは中世ではなく近世に入ってから構築されたことが考えられる。

 ガマの時期については、更なる調査と研究が望まれるところである。

 

註1:鳥越憲三郎『摂津西能勢のガマの研究』1958

註2:大阪府教育委員会『岐尼地区遺跡群発掘調査概要・U』1992

註3:大阪府教育委員会『岐尼地区遺跡群発掘調査概要・V』1993

註4:石井進「棚田への招待」(第一法規『月刊文化財 平成9年1月』所収)

 

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