13闇市における「第三国人」神話

 在日朝鮮人問題で、日本人の対朝鮮人意識を形成した大きな要因で、従って非常に重要なことであるにもかかわらず、なかなか触れられないものが二つある。一つは戦後の闇市における在日朝鮮人(当時は「第三国人」と呼ばれた)の振る舞いであり、もう一つは朝鮮高校生と日本の高校生との抗争である。どちらも朝鮮人が自らの民族性を示した上での「行動」であり、「被害」を受けた日本人は「泣き寝入り」し、朝鮮人への悪感情だけが心に深く残ったというものである。日本人でこそこそながら朝鮮人差別発言する人が多いが、彼らは年寄りでは闇市における体験、若い人では朝鮮高校生との具体的な体験を有しており、体験に基づくだけあってその差別意識には強固なものがある。民族差別問題に取り組む者ならこの二つは絶対に避けてはならないことであると思う。

 

闇市における在日朝鮮人のイメージ

 闇市については六〇歳以上の人はたいていご存知であろう。闇市における在日朝鮮人の振舞いは、日本人の側から見ると次のようになる。

 

「ヤミというと第三国人のことを書かなければならない。敗戦のために在日朝鮮人は優位な立場に置かれた。外国人であっても本来なら日本の法の下にあるのだが、日本の官憲の弱みにつけこんで、治外法権に近かった模様である。」

(『戦後世相辞典』 奥山益郎)

 

「朝鮮人は、すべてのやみ市市場活動の中核をなし、またかれらの無法な行動は今日の日本のすべての商取引や社会生活に影響を及ぼしている。かれらは警察をはばからず、輸出入禁止の取引を誇示し、またなんらの税金もはらっていない。‥‥事実、大阪・神戸においてはすべての露店・飲食店は朝鮮人・台湾人の手中に帰したといわれている。」

(四六年八月 国会における椎熊議員の発言)

 

「第三国人の一部には、治外法権があるかのような優越感をいだかせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した‥‥覚醒剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場という感があった。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。」

(『朝日新聞記者の証言5』朝日ソノラマ)

 

「その当時(終戦直後の神戸の闇市)は第三国人に支配されていまして、主に台湾人、韓国人ね。」

(『ビッグマン八三年一月号』のダイエー中内社長の発言)

 

これ以外にも闇市における「第三国人」の振舞いについての日本人側の発言は少なくないが、ほとんどが否定的な姿を語っている。一方、こういった発言や「第三国人」観に対する反発もある。

 

「『闇市』などの新興部門のハデに映る景気をねたんでか、『闇市』で威張っている『第三国人』というような戦前の差別意識を裏返した新しい型の戦後の差別感情が、のちの国会における椎熊発言などによって公然と増幅されるようになり、‥‥現在もこの種のデマがまかり通っている。

(金容権『在日朝鮮人の歴史』彩流社)

 

「敗戦によってもほとんど変わることのない日本人の朝鮮人に対する考え方は、敗戦による混乱の中で、たくましく活気にあふれた在日朝鮮人の活動に対する反感を生み、非難、中傷を生んでいった。」

(内海愛子「『第三国人』ということば」 『朝鮮人差別とことば』所収)

 

と闇市における在日朝鮮人の「活動」を積極的に肯定し、これに対する日本人の悪感情は、事実に基づかない「神話」によるもので、戦前から引き続く差別意識だ、というものである。

 民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)は「第三国人」に関するダイエー中内社長発言に、民族差別だと闘争を組んだことがあった。近頃の昭和史、戦後史の本を読むと、闇市における「第三国人」の「活躍」について触れるものがほとんどない。民闘連のこういった闘争がそれを避けさせているのだとしたら、歴史事実の隠蔽であり、由々しき事態と言うほかない。

 

闇市における在日朝鮮人の実像

私は、在日一世から少なからず身の上話を聞いてきたが、闇市に直接体験した人の話は一つだけであった。それはあるオモニ(朝鮮語でお母さんの意)の話である。梅田の闇市でドブロク屋を三軒もやって、毎日風呂敷いっぱいの金を持って帰るほど大儲けをした、ドブロクには米粒が入っていて、酔えるし腹ふくれるし、裁判官やってる人も飲みにきたものや、しかし儲けて帰ってきても、ぎょうさんの人がちょっと行こうと誘いにくる、主人はたかってくる人にみんな使ってしまい、金は残らなんだ、あんまりたくさんの人がたかってきて、主人がぽっぽとおごってやるもんで、腹が立って腹が立って店やめてしもうた、という話であった。

 闇市について色々調べていって、私は次のような感想を持つ。闇市は確かに駅近くの公共用地などを勝手に占拠したもので、そこで儲けた人は税金を納めないなどの法に触れる行為はあったが、この時代は戦後の混乱期の真っ最中で、すべての人が食うために何でもせざるを得なかった時代である。多くの人々は配給だけでは生きてはいけず、当時としては闇市は必要なものだったのであり、その不法性については一方的に責められるものでは決してない。しかし闇市における在日朝鮮人の存在は大きく、特に朝連(朝鮮人連盟━総連の前身)はヤクザや警察と力で対決し、時には米軍のMPを拉致することもあった。また朝連と民団との派手な抗争も何度も繰り返された。在日朝鮮人たちは、買い出し列車に乗る日本人を引きずり降ろしたり、日本人を「三等国民」と露骨に蔑んだりした。このような人は全在日朝鮮人のなかでもごく一部であったろうが、自己の民族性を示した上でのこのような振舞いが、日本人の心に悪感情をもたらせたのである。

 かつて民団の団長であった権逸氏はその『回顧録』のなかで、「顧みると、当時のこのような行動は、長い間抑圧されてきた者の自然発生的な反発感からでたものであり、敗戦で萎縮した日本人の胸に、朝鮮人に対する憎悪感を植えつける要因になったのではないだろうか。」(『マルコポーロ9211月号』による)

と述べている。このような反省的な発言は朝鮮人では私の知る限りこの人だけである。

 闇市は当時の日本の商業部門で大きな位置を占めていたのに、在日たちはそこで得た利益を資本蓄積にまわさなかった。前述のオモニの話のように、闇市における在日の多くは儲けたけれど、貯蓄することなく、ましてや合法的な商店を開こうとする気もなく、浪費したとしか言いようがない。結局、在日は闇市の終焉とともに日本の商業・流通界から脱落した。

 

笑って振り返る関係を!

 ところで話は変わるが、ラジオで落語家の月亭可朝と中華料理家の程一彦氏との対談を聞いたことがある。

 

「だってそれまでチャンコロと言われてバカにされていたでしょ。それが急に連合国民のバッジをもらったら、電車はすべてタダ、靴磨きしてもタダ、何しても警察は言わないとなった。小学生ぐらい(程氏は1935年生まれ)だったが、毎晩お母さんが泣くぐらいゴンタしてた」

「梅田の闇市で、ほんまに生意気なガキがおって、あんまり腹が立ったから、後ろから石を投げたったことがある」

「それは私かも知れませんねえ、わはははは」

 

 程氏は戦後の梅田の闇市で悪ガキとして相当ならした人だったそうだが、在日朝鮮人も過去のことを日本人と笑いながらしゃべれるようになってほしいと思ったものだ。

 

 

(追記)

 この論考は、自費出版『「民族差別と闘う」には疑問がある』(199312月)のなかの一節の再録です。

 趣旨は現在も有効というか、通用すると思うのですが、引用した文章の出典が昔に調べたものなので、資料のコピーを紛失しており、今のところ検証できません。ちゃんと保存すべきであったと反省しています。

 東京都の石原知事が「三国人」発言をしたことで、問題になっています。「三国人」が旧植民地出身の朝鮮人や台湾人を指していたのは、戦後から1952年(昭和27年)までの占領期のことです。当時は彼らの傍若無人な振舞いに対して「三国人どもめ!」といった発言がかなりあったようです。

それから50年近くたった現在、そのようなことを言う人は絶えて久しくなりました。三国人とは朝鮮人・台湾人を侮蔑する差別語だ、と言っても、ほとんどの日本人は理解できないことだろうし、運動団体に関係ない多くの朝鮮人や台湾人もピンとこないものと思います。

石原知事は旧植民地出身者を念頭において発言したものでないことが明らかなことです。しかし今時に昔の用語で、しかもそれが差別語だ主張する人たちがいるなかで、この発言は適切ではないと思います。「三国人」を使わなくても、彼の考えは十分に伝わるはずのものでしょう。といってあまり大きな騒ぎして知事を指弾するほどのことでもないと思います。

 

 

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