第10題「能勢の歴史」町民講座

 「中世の能勢郡をさぐる」ということで、お話させていただきます。今は豊能郡となっていますが、これは明治29年に能勢郡と豊島郡(豊中や池田・箕面)とを合わせて「豊能郡」としたわけで、それ以前は今の豊能町と能勢町地域は「能勢郡」です。この能勢郡の中世、時代でいうと、鎌倉時代・南北朝・室町時代ですが、どのような遺跡があり、これまでの調査でどれ位この時代のことが明らかになってきたのか、というお話になります。その前に中世とは一体どのような社会であったのか、どのような歴史的経過で「中世」となったのか、古代からの歴史を簡単におさらいしたいと思います。

 

国家のはじまり

 日本の国家の統一は諸説がありますが、確実なところは、5世紀の雄略天皇の時代までには国家の統一が成し遂げられたということです。当時は「日本」ではなく「倭」という国号で、「天皇」ではなく「大王(おおきみ)」でしたが、この時代は東は埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に、古墳の主が「ワカタキロ大王」すなわち雄略天皇に仕えてきたとあります。また西は熊本県の江田船山古墳から、おなじくワカタキロ大王に仕えたという銘文のある鉄刀が出土しています。そしてまた、中国の宋書倭国伝という当時の歴史書には、この雄略天皇と考えられる倭王武が、中国の皇帝に「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、海を渡りて北を平らぐること九十五国」という上表文を奉じています。少なくとも5世紀までには、九州から東北地方南部までの日本列島上に、大王を中心に強大な統一国家が樹立されていたことは間違いないところです。

 それではそれは一体どのような国家体制であったのでしょうか。それは各地方に土着の豪族がいて、それぞれの地域の人民と土地を支配している、そして豪族の長だけが大王に仕えるという体制です。大王は豪族の長たちに対して、墓(大きな前方後円墳)を造るからこれだけの人足と職人を集めろとか、あるいは戦争に行くからこれだけの軍隊を組織してやってこいとか命令します。分かりやすく言えば、大王は豪族の長と親分子分の関係をつくるだけで、それぞれの豪族がその地域でどのような支配をしているのか、どんな土地でどんな人々がいるのかは関知しないことです。だから大王は、その周囲に豪族たちを常住させることはないし、また治安・徴税といった行政事務はおこないません。従って大王の周りに官僚組織はなく、大王の身の回りを世話する人ばかりです。

 

奈良時代

 それから300年ほど経った8世紀は、奈良に都が置かれた時代です。この時代になると社会が大きく変わります。大王は神のような存在となり、「天皇」と称されます。かつて豪族だったものは天皇の宮殿の周辺に集中して居住することとなり、それまで支配してきた人民や土地から切り離されます。そして人民や土地は豪族のものではなくなって、すべて天皇(すなわち国家)のものとなりました。いわゆる「公地公民制」というものです。国内の全ての富・土地・人民の肉体にいたるまで、天皇=国家の所有となったわけです。

 すべての人民、すべての土地を自分の所有物として把握・管理し、それに基づいて租庸調という税金を取ろうとするのですから、戸籍や徴税台帳である計帳を作るだけでも大変な作業です。その実務を担うために膨大な数の官僚が組織され、国家機構を形成します。

 そして「班田収受」といって、男子の正丁は6歳になると2反、女子はその3分の2を口分田として支給し、死んだら国に返すという制度を全国的に実施します。この制度は実際に施行するとなると、建て前通りにいかないことは、すぐに分かります。土地は一定のもので、そう増やしたりできないものです。しかし人民の方の人口はかなり大きな変化があります。6歳になれば所定の土地を与え、死ねば返すという班田収受は、6歳になる人と死ぬ人との数がいつも一致していなければなりませんが、それはありえません。すぐにアンバランスとなって破綻してしまいます。また土地といっても、日当たりや水はけ、用水などによって良い土地もあれば悪い土地もある。また人民といっても働き者もおれば農業に向かない人もいるだろうし、家庭の事情ということもあるでしょう。こういったそれぞれの特殊性や個性を無視して一律平等に班田収受をおこなうと、人民はやる気を喪失させることでしょう。しかし土地や人民はすべて天皇=国家のものであるという公地公民制の建て前からすれば、こうならざるを得ません。私はこれを「古代社会主義」と言っているのですが、すぐに行き詰まるものです。

 

荘園のはじまり

 そこでこの矛盾を何とかしようとしたのが、「墾田永年私財法」です。これは、新たに水田や畑を開墾した者は、それを自分のものにしてよろしいという法律です。これは私有財産制の第一歩と言えるものです。しかし開墾は田畑だけでなく溜池や堰を造り、用水路を通し、排水路を設けるというもので、かなり大規模な工事です。農工具すら持っていない人民たちでは不可能です。そこで東大寺や興福寺といったような有力な寺社や有力貴族が貧窮した人民を集めてこれを始めます。するとこれがどんどんエスカレートしていって、新たに開墾した田畑だけでなく、すでにある田畑まで取り込んでいきます。これが荘園のはじまりです。

 貴族や寺社は領主となって荘園を経営していきます。それまで租税を徴収してきた国司なんかが、こっちにもこれまで通り租税を納めろと介入してくるのですが、それを排除する「不輸不入の権」を獲得していきます。国司なんかに税を納めなくてもよい、国司らの立ち入りを認めないという権利です。この権利がほしいために、有力な貴族・寺社に荘園を寄付・寄進することが盛んになってきます。このような荘園が13世紀、鎌倉時代には国内で荘園のないところはない位に数が増えます。数え方にもよりますが、六千以上です。

このように荘園でいっぱいの社会となり、国家機関までもが各機構ごとに荘園領主化して自らの経済的基盤としてしまい、それまでのような官僚体制ではなくなります。国家の役割は儀式を行なうことぐらいになります。治安を守るべき国家の力、今で言うと警察になりますが、当初は荘園の現地経営者か警備員のような存在であった武士が警察を担当するようになり、やがて国家の実質的権力を握るまでになりました。

これが中世です。

 

能勢の荘園

 この能勢にも荘園がたくさん生まれます。余野には箕面の勝尾寺領の「余野牧」、高山には同じく勝尾寺領の「高山庄」、木代には石清水八幡宮領の「木代庄」、能勢町の方では倉垣に春日社領の「倉垣庄」、田尻には妙法院領の「田尻庄」、山辺には最勝光院領の「山辺庄」、地黄には典薬寮領の「地黄御園」‥‥といった具合に、今の地名と変わらない荘園名が出てきます。

 能勢町の野間のところに「長町庄」というのがあります。他の荘園は現在の地区名と一致するのですが、「長町」というのはおそらく聞いたことのない地名でしょう。実はこの荘園は最近になってようやく見つかったもので、ほとんどの人が知らなかったものです。郷土史を研究されている方でも、数年前にお亡くなりになった森本先生がかろうじてご存知だったものです。

 この荘園は京都の地蔵院というお寺のものでした。嵐山の南に苔寺がありますが、その苔寺の少し南に地蔵院が今でもあります。今は小さな寺ですが、600年ほど前は非常に大きな寺でした。この寺が長町庄の領主で、これに関する古文書が京大博物館に所蔵されています。長町庄関係は10通ほどですが、これを検討することによって長町庄が能勢町の野間・倉垣にあったことが分かってまいりました。そしてここ3年間の遺跡発掘調査で13世紀と1415世紀の二つの大きな屋敷跡が発見されたのですが、これが長町庄の屋敷であることがほぼ分かってきたのです。

 野間で発見されたこの二つの屋敷跡が、地蔵院文書にある長町庄のものであることが何故わかったか、ということですが、この屋敷跡の東に接する土地の小字名が「長町」なのです。長町庄は小字名としてその名を留めていたわけです。

 そしてこの屋敷跡から出土した遺物は、考古学の研究から13世紀と1415世紀のものと判明し、正に地蔵院文書にある時期と一致するのです。この時期に野間において大きな屋敷を構えるのは長町庄しかありえず、これが長町庄の屋敷跡であることは間違いないところと考えております。

 この屋敷跡はいわゆる「方形居館」というもので、昔でいう半町、今の単位では約50m四方の敷地の周りを、幅10mの堀あるいは水路で囲まれるものです。屋敷内には何棟もの家屋が建ち並びますが、そのうちの1棟は極めて珍しいものです。柱の太さが40p、人間の身体ほどもあり、この柱を立てるために径2m、深さ1m以上の穴を掘って、底に礎石を据えるものでした。

 中世の建物の柱というのは、径数十pの穴に径20pほどの柱を立てるものがほとんどなのですが、この屋敷の建物の柱ははるかに大きいもので、今調べているのですが、他に例を見ません。ひょっとしたら、日本一かも知れません。

(つづく)

 

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