第11「能勢の歴史」町民講座講演(続)

荘園は私有財産制の第一歩

 荘園は先ほど申しましたように私有財産制の第一歩と言えるものです。それは土地の排他的権利を保証するものです。しかしそれまで「公地公民制」といって、すべての土地・人民は国家、すなわち天皇の所有物であるという制度から、この土地は自分のものであって他の誰のものでもない、という私有財産制度への変化は定着するまで長い年月が必要でした。

 ある荘園を所有したとしましょう。ここは自分のものだと安心してはいけません。ある日突然、この土地は本来私のものであることを証明する文書が出てきた、お前たちは出て行け、今後年貢は私に納めるように、と主張する者が現れます。そうなれば、お前の文書は偽造だ、いやお前の方こそ捏造だ、と争うことになって、幕府で裁判をすることになります。能勢の長町庄という小さな荘園でも、領有権や境界争いやらで、こんな裁判沙汰が、文献資料を見ると百年ほどの間に5件以上はあったことが確認できます。

 このようにお互いに私有財産を守るために闘う、そのためには所有の正当性を証する文書をしっかり保存しておかなくてはならないし、自分の財産を侵害しようとする者に対する対抗手段を常に準備しておかなくてはなりません。幕府は裁判で判決するだけで、それ以上のことはしてくれません。私有財産を実際に守るのは自分以外にはない、という時代だったのです。

 このような状況に終止符を打ったのが、豊臣秀吉の「太閤検地」です。この検地において、個々の土地・田畑を詳しく調べ、その所有者と年貢量を決めました。そしてこの検地でもって所有権を確定させ、これより以前に遡って所有権を争うことは受け付けない、としたわけです。つまり、この土地は元々私のものだから返せ、という主張はできなくなり、所有権は公文書である「検地帳」によって保証されることになったのです。逆に検地帳に基づいて年貢を納めることは、公権力によって自分の土地の所有権が守られるという意味になりました。

 これはかなり近代的な制度で、アジアでは日本以外になかったものです。お隣の朝鮮では、日本の植民地時代に土地調査事業として初めてなされたもので、それ以前の李朝時代にはありませんでした。また中国ではつい数年前に不十分ながらようやくできたという話です。しかし日本は四百年も昔に、太閤さんによって成し遂げられたのです。

 そして太閤さんが人民の刀や鉄砲を取り上げた「刀狩り」は、もはや戦国の世ではないと言うからだけでなく、国家が土地所有権を保証するので各人民が土地を守るための武器を持つ必要がなくなった、という政策なのです。そして太閤さんの権力が強大で、土地所有権の保証が信頼できると感じたからこそ、人民はほとんど抵抗もなく「刀狩り」に応じたのです。 

 歴史の概説書なんかで、太閤検地は人民収奪を強化するもので、刀狩りは人民の闘争を抑圧するもの、といった解説が見られますが、そのような観点では何故人民が太閤さんに抵抗せずに従ったのかを説明することは出来ません。戦国時代では人民は一揆などで領主をさんざん困らせる程の力があったのですが、その人民が抵抗なく従ったというのは、それなりの理由があったからと言えます。

 

中世の経済発展

 ところで中世は経済が大いに発展した時代でもあります。それより前の古代では、先ほど申しましたように社会主義みたいなものですから、物資の生産や移動は国家の管理下に行なわれるものでした。生産物は、祖や調・贄などの租税、もしくは献上・下賜・贈与といった形で移動したのであって、商品としての移動は非常に少なかった、というのが古代です。従って商業は未発達でした。朝廷は中国に倣って和銅開珎などの皇朝十二銭といった貨幣を発行しますが、商業が未熟な段階なので貨幣経済社会にはなりえませんでした。貨幣は、都周辺のごく一部地域のみで流通したに過ぎないと考えられています。

 しかし中世になって経済が活発になったということは、国家が直接関わらない経済が活発になったということです。現代風に言えば、民間経済あるいは市場経済の発展です。生産はそれまでは租税を納めるためと家族を養うためだったのですが、それ以外に「売る」ことを目的に生産することが増えてきていわゆる「産業」が発生し、同時に「商業」も発生・発展していきます。産業・商業といっても最初のうちは片手間の暇なときにやっていた程度でしょうが、どんどん発達していきます。貴族や寺社は、それまでは必要なものはお抱えの職人やあるいは自分の領民に作らせたりしてきたのですが、だんだんと市場で購入して調達するようになります。職人たちは自立して、生産した商品を市場で売ってお金に替えて、生活の糧を購入して暮らすというスタイルになるわけです。このような社会になると、貨幣すなわち「お金」が大量に必要となってきます。

 貨幣経済が確立すると、お金というものはまことに便利なものです。どこか遠くへ旅行するにも、お金さえあれば食料や衣服を手に入れることができます。逆にそれ以前の社会では、食料・衣服だけでなく鍋釜、薪炭まで持参して旅行しなくてはならないのですから、そのことを考えるとお金というのは本当に有難いものです。

 ところで韓国の全羅道新安沖の海底から、20年程前に沈没船が発見されました。これは日本の京都の東福寺が発注した貿易船で、1323年に沈没したものです。後醍醐天皇の建武の新政から10年ぐらい前のことです。この船には中国からの輸入品が満載されていたのですが、そのなかに28トン(約800万枚)の銭が出てきました。中世は東福寺だけでなく天竜寺、建仁寺などの多くの寺社が中国に貿易船を出しており、この船もその一つです。その一つからこれだけの大量の銭を運んでいたということは、日本には全体として想像を絶するくらいの大量の銭が入っていたわけです。またそれくらい中世の日本は経済が活発であったといことです。

 ところが中世の日本は、幕府も朝廷も貨幣を作りませんでしたので、流通していたお金はほとんどが中国の唐や宋といった国の銭です。貨幣経済社会になっているのに、なぜ独自の貨幣を作らなかったのかは、いま一つその理由は分かっていないようです。

 

能勢の貨幣経済社会

 能勢でも貨幣経済が押し寄せてきました。能勢から亀岡に行くすぐ手前の吉野という地区で、2・3年ほど前に中世の遺跡の発掘調査が行なわれたのですが、その時に銭の入った大甕が発見されました。銭は1213枚だったのですが、この甕は1万数千枚は入る容量がありましたから、底に少し残っていたという程度です。

 しかしこれには非常に面白い事実がありました。1213枚のうち、紐で通されていたもの、これを緡(さし)と言いますが、この緡が九つありました。紐も銭の穴にきれいに残っていました。一緡というのは当時百文として通用していたのですが、実はこの百文、一文銭100枚ではなく、97枚しかなかったのです。

これは当時一文銭97枚を紐で通したものを百文としよう、という慣習があったからなのです。中世の文献資料から、97枚を百文としていたのではないかと考えられていたのですが、正にそれが証明されたのです。

百枚未満の銭を紐で通したものを百文として通用する慣習を「省百」あるいは「短百」といい、中国では各時代・各地域によって98枚であったり、96枚、80枚、時には50枚で百文というのがあったそうです。日本では中世では97枚で百文、江戸時代になると銭形平次でお馴染みの寛永通宝ですが、96枚で百文となります。当時はこれを「九六銭」(くろくせん)と呼んでいました。このような不合理な慣習は明治になって廃止されました。

ところで能勢の吉野で発見された銭甕はどういうところで見つかったかというと、14世紀つまり南北朝か室町時代初め頃の遺跡で、当時の建物群や作業場から約40m離れて、人の活動の痕跡の薄い所で発見されました。みんながいる建物から離れて、ちょっと淋しい所に埋められたようです。こういう所に一家の当主は甕を埋めて、銭を出し入れしていたようです。銀行のない時代ですから、お金はこうやって保管していたのです。やがて当主が亡くなって、遺された家族はどこに銭甕を埋めたのか知らされず、分からなくなってしまったものと想像されます。それが600年たって遺跡の発掘調査によって発見されたということになります。

 

おわりに

 最近の調査の成果から中世の能勢をお話してみたのですが、その当時のごく一部を垣間見たにすぎません。しかしこの能勢も日本の歴史の大きなうねりと同じように動いてきた、そしてそれは貧弱ではなく豊かな内容を持つものである、ということはご理解いただけたのではないかと思っております。そしてこれからの調査・研究の進展によって、豊かな郷土の歴史がますます明らかになっていくものと期待しております。

1997年2月20日講演原稿に加筆)

 

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