101 臼に布を入れて打つ

――搗き臼のもう一つの使い方――

 

 臼と杵で構成される搗き臼は弥生時代の稲作とともに伝来したと推定され、穀類の脱穀・製粉・精白あるいは餅つきに使用されると辞典等では説明されている。また一般にもそう理解されている。しかしこの臼には、その中に布を入れて打つという使い方があることについて、管見において記述のあるものはなく、ほとんど知られていない。

 

1、     晒しと洗濯に使う臼と杵

 晒しとは『広辞苑』では「さらして白くした綿布または麻布」のことで、またその工程を「晒し」という場合もある。もう一方の洗濯とはその名の通り汚れを落とし、濯いで綺麗にすることである。晒しと洗濯は言葉が違うが、往古では内容にそれほど大きな違いはないものと考えられる。

 晒しや洗濯の具体的な様子が分かる歴史資料は、戦国時代〜江戸時代初めの各本『洛中洛外図』や近世に刊行された本の挿図、浮世絵に出てくる。そこには晒しや洗濯の一工程として、臼の中に布を入れて打つ様子が描かれている。

 図1−1(山岡家本『洛中洛外図』)では、二人の女性が川原に臼を据え、竪杵を片手で持って搗いている。そして臼から布がはみ出し、その横で綺麗になった反物の布を広げて晒す作業風景が描かれている。晒し工程の部分場面であり、臼の中に布を入れていることが分かる。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno1

 図1−2(守護家本)は、川辺で臼に布を入れて女性二人が両手で竪杵を持って搗き、一方で河のなかで反物を洗う姿を描く。これも晒し工程の一部なのであろうか。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno2

 図1−3(八坂神社本)では二人の女性が川の横で臼に入れた布を搗いており、そして周囲には布が乱れた状況で置かれている。

 以上の絵画資料によって、戦国時代頃の時期に晒しや洗濯の際には臼に布を入れて打つ工程があったことは明らかである。またそれに使用する臼の形状がくびれ臼で、杵が竪杵であることに注目される。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno3

 図1−4(薮本家本)では同じく臼に布を入れているが、打つのが3人の男性で、持っているのは横杵である。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno4

また図1−5の『京童』という風俗本(1658年刊)の中の挿図では川の横で女性4人が横杵で打ち、近くでは女性二人が川辺で洗濯している。以上は、臼はくびれ臼であるが、横杵の出現が確認できる資料である。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno5

 図1−6は1690年刊『人倫訓蒙図彙』にある「布曝(ぬのさらし)」の図。説明では「さらしのはじめは宇治槙嶋なり。京にては五条川原にあり。今は奈良をもつて第一とす」とある。干した布に灰汁を掛ける作業場面とともに、臼と杵を描く。臼はそれまでと違って胴臼で、また杵は横杵である。胴臼の出現が確認できよう。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno6

 図1−7は魚屋北渓の浮世絵で、時期はこれまでより百年以上飛んで19世紀前半。「玉川布晒しの図」と題されている。一人の女性が臼に入れた布を竪杵で搗き、もう一人の女性が布を干す場面である。臼は胴臼だが、杵は竪杵である。この時期になっても竪杵が使用されていたという資料になろう。http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno7

 

2、奈良晒しと近江晒し

 「奈良晒し」は奈良を中心として生産された高級麻織物で、中世に始まり、江戸時代中頃に最盛期を迎えた。「近江晒し」(または「野洲晒し」)は奈良晒しの技術が滋賀県の野洲に伝わったものである。どちらも当時としては大規模な施設を有し、十人あるいは数十人の奉公人や賃稼ぎ人を雇い入れて製造し、またマニュファクチュア経営の一つとされている。

 その製造の内容は織り上がった生布を集めて晒し加工するものであるが、それをもう少し詳述すると、「灰汁をかけながら十日余り日光に晒し、大釜に入れて灰汁で焚き日光に晒すこと数回、最後に木臼でつき、水で洗ったうえ張り干して晒し上げたが、晴天数十日を要したという」(註 )かなり手間をかけて製造されるものである。そしてこの製造工程の一つに、臼の中に布を入れて打つそれがある。

 図2−1、2,3は奈良晒し製造を描いた当時の絵である。布を大きく広げて灰汁をかけながら晒し、釜で煮て、臼に入れて横杵で打ち、川で洗い、横に引っ張って掛けて干し、折りたたんで積み上げるという一連の工程が一つの絵のなかに描かれる。晒しの製造工程が非常に分かりやすい絵画資料である。かなりの重労働のようで、働く人がすべて男性である。それはまさに晒し製造工場と言ってよいほどの様相を呈している。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno8

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno9

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno10

 図2−4は近江晒しの絵である。しかし川の流れのなかで男性が臼に布を入れて打つ姿であり、このようなことが実際にあったものか疑問である。聞いた話を絵にしたものかと思われる。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno11

 晒し生産は明治以降衰退し、近江晒しは今や姿を消している。しかし奈良晒しは奈良の東部山間でかろうじて残っている。県の無形文化財に指定されて技術の保存が図られていることは幸いで、地元の教育委員会より解説書が発行されている。

 奈良晒しや近江晒し製造で使われる臼と杵の形状に注目してみると、上記の江戸時代の絵画資料では胴臼と横杵であり、現在まで奈良で保存されているそれも変わらない。

 

3、     何のために臼と杵を使うか

 臼と杵の目的について、註7の文献では「さらし液を均等にする」と説明されている。古来汚れを落とす或いは漂白のための洗剤は灰汁(木灰汁や藁灰汁など)であり、これがさらし液である。灰汁を布に均等に染み込ませるために、臼に布を入れて打つのである。

 現代に置き換えて言えば、洗濯機に洗剤を入れて掻き回す作業に相当することになる。

 

4、     臼と杵の変化

 ここで晒しと洗濯に使用する道具である臼と杵の形状の変化について、以上の資料から明らかにできることを述べたい。

 戦国時代ではくびれ臼と竪杵であった。江戸時代初期までに横杵が出現し、次の前期に胴臼が出現する。中期になって本格的に大量生産される奈良晒しや近江晒しでは胴臼と横杵が使用されている。しかし一方では竪杵は後期でも使われており、竪杵と横杵は同時並存した時期が長かったと思われる。なお現在残っている晒し製造道具では胴臼と横杵である。

 この変化が遺存品や出土品などの現物からも証明されるものかどうか、あるいは穀類の脱穀・製粉・精白、餅つきという従来の説明通りに使う臼と杵では違うのかどうか。このような疑問が出てこようが、浅学につき明らかにできなかった。

 

5、     海外の事例

 日本以外で臼に布を入れて打つ例を探してみると。朝鮮総督府勧業模範場『朝鮮の在来農具』(1925年発行)に、精穀と製粉用具として「ちょるく」(臼)、(ちょるくこんい)(杵)が報告されている。図3−1が当時の実測図で、臼はくびれ臼、杵は竪杵である。日本のこれまでの資料より素朴でシンプルな印象を受ける。その説明のなかに、もう一つの使用法として「或ハ又洗濯物ヲ入レ杵ニテ打チ洗濯用ニモ使用セラル」とある。しかし洗濯用にどのような使い方をしたのかの記述がないのが残念である。おそらく日本の晒し・洗濯と同様に、往古の洗剤である灰汁と布を入れて打ったものと思われる。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno12

 図3−2は国立民族学博物館にあった中国湖南省の少数民族トン族の竪杵。展示では「染めた布地のつや出しに用いる」と説明されている。これには疑問があったので同館に質問したところ、展示責任者であった大丸名誉教授より「購入した際のリストに『布槌』とあったのを『木槌』と名付けてこのような説明を添えたもので、実際はどのように使っていたのか実見していない」というお答えをいただいた。竪杵であるから臼があるはずで、しかも「布槌」であるから布を打っていたことは間違いないだろう。これも日本同様に、臼に灰汁と布を入れて竪杵で搗くものと推測する。

http://www.asahi-net.or.jp/~rq2h-tjmt/usuninuno13

 

6、     まとめ

 搗き臼と杵は「穀物の脱穀・製粉・精白または餅つきなどに使う」とされているが、他に布を打つという使い方があることは明らかにできたと考える。しかし管見において、考古学、民俗学、民具学等の各事典でこのような使用法に触れているものはなかった。臼と杵にはこのようなもう一つの使い方があることに注意が必要であろう。

 

(註)

1)以下の山岡家本、守護家本、八坂神社本、薮本家本の洛中洛外図は、京都国立博物館編『洛中洛外図』(角川書店 1966)所収。

2)『日本名所風俗図会』(角川書店)所収。

3)朝倉治彦校注 平凡社東洋文庫519

4)木村博一「ならさらし」(吉川弘文館『国史大事典10』平成元年)

5)図2−1は『南都布さらし乃記』(寛政元年 1789)、図2−2は『大和名所図会』(寛政三年 1791)、図2−3は『日本山海名物図会』(宝暦四年 1754

6)『近江名所図会 巻之四』(文化十一年 1814

7)『ならさらし』(月ヶ瀬村教育委員会 1984

8)慶友社より1991年復刊。

9)実測図は筆者作成。

 

ホームページに戻る