第5題 「歴史の発展段階説」考

 時間的に言えば人類の発生から現在に至る2〜300万年、あるいは中国や中東・エジプト等に文明が発生してから数千年、地理的に言えばアジア・アフリカ・欧米等全世界、要するに古今東西、人類は様々な内容の社会を体験してきた。

 この全人類史(あるいは世界史)における各社会を比較して、これはあれより発展した段階にある、と位置付けるのが「発展段階説」であり、ヘーゲルやマルクス・エンゲルスにその典型がある。しかしそれは西欧中心に発展したと考えるもので、今の日本ではアジアを蔑視するものだと批判する主張が目に引く。

 私は「西欧中心の発展段階説」が正しさを有していると思っている。前述の批判は承知の上で、敢えて「発展段階説」を擁護したい。

 

国家の比較

 例えば法治という点で国家の段階を考えてみよう。A国は法治国家で、「法」の下にすべての人は平等であるという「法の支配」が貫徹している。支配的な立場の人も当然法を守らねばならず、むしろ上に立つ人こそ率先して法を守らなかったら、下々の人民に法を守らせることはできない、と考える国家である。

 一方B国は非法治国家で、法というものは支配者が人民を統治するためのものであり、だからこそ人民は法を守らねばならない。しかし最高支配者(皇帝、王、大統領、書記長など)は自分を支配する者がいないのだから法を守るということはありえない。この国では国家内における地位によって法を守る義務の度合いが違ってくる。

 A国とB国とではどちらが進んでいる(あるいは発展している)段階の国家と言えるか。

 

 次に司法の独立という点で国家を考えてみよう。C国は司法が独立しており、法や政策は司法によってチェックをうける。支配者は裁判になっても大丈夫かどうかを常に気にかけながら国家を運営することになる。

 一方D国では支配者の意向のままに司法があり、法や政策をチェックする裁判というのは想定されていない。そのチェックは支配者の死後あるいは失脚後しかありえない。

 C国とD国とではどちらが進んでいる段階の国家と言えるか。

 

 国家と人民との関係について考えてみよう。E国では人民が国家に対して自立しており、国家を相手に裁判で訴えて争うことができる。

 一方F国では全く自立しておらず、国家からここに王宮を造るから出て行け、あるいはお前の娘は美人だから差し出せ、と言われればそのまま従うしかなく、国家に対して争うどころか異議申し立てすらおよそ想像もつかない。

 E国とF国とではどちらが進んだ段階の国家と言えるか。

 

 貨幣制度という点で考えてみよう。G国は貨幣制度があり、貨幣を媒介にして物の売買が行なわれ、また人民は租税を現金で払う。

 一方H国は貨幣制度がなく、物の売買は物々交換であり、また人民は米や布といった現物および労務提供で租税を払う。

 G国とH国とではどちらが進んだ国家と言えるか。

 

 人民の所得という点で考えてみよう。I国は金持ちと貧民の間に中産階級が形成されている。貧民でも家族みんながまじめに働き、質素な生活をすればそれなりの財産を持つことが可能であり、中産階級入りすることができる。

 一方J国ではごく少数の金持ちと圧倒的多数の貧民に分かれ、貧民はいくら働いても相も変わらず貧乏である。

 I国とJ国とではどちらが進んだ国家と言えるか。

 

 このように現在様々に存在し、あるいは過去に存在した国家を、以上だけでなく他にも色々な点から考えてみよう。古今東西のすべての国家の比較をして、それをトータルに考えていくと、これまで人類が体験した国家で最も進んだ国家のあり方、つまり最高段階にある国家がどういうものかが明らかとなる。

 

国家の最高段階

 それは現在先進諸国と呼ばれている国々で、具体的にはサミットに当初より結集している欧米および日本である。

 日本が最高段階とは納得いかないと思う人もあろう。しかし「このことについて日本は先進国では最低だ」「これで日本は先進国と言えるでしょうか」というような意見が、何の批判もされずに世間に受け入れられているのである。つまり日本はまだまだ不十分だが先進国のレベルに達していると一般に考えられているのである。

 「脱亜入欧や欧米に追いつけ追い越せは、アジア蔑視だ」と主張する人もいるが、そんな人も我が日本を欧米と比較することに異議を唱えない。つまり先進国入りしていることを認めている。日本の後進性を指摘するマスコミなんかも、日本の数字を欧米諸国の数字と比較するのが通例で、アジア諸国の数字と比較することは少ない。それはそうだろう、国家のあり方だけでなく、経済・所得・社会資本・人権・福祉・学問・科学技術などにおいて他のアジア諸国と比べれば、その差は歴然としている。

 いわゆる「アジア停滞論」に対して、アジアも発展してきた歴史があるという反論がよくなされている。確かにアジア諸国中にここ30年の間に急速に発展して、今や先進国入りしようかという国々が現れている。こういった国々は、欧米や日本を目標に国作りに励んできたことは明らかである。これらの国の政治指導者は、わがアジアが人類の発展段階から見て遅れていると自覚しているからこそ、先進国を目指して努力をし、それが実ってきたのである。従ってアジアの発展の歴史の向かう方向が、現在の欧米や日本という先進諸国であったということだ。逆にこの方向に背を向けたアジア諸国、具体的には文化大革命下の中国、ポルポト支配下のカンボジア、そして金日成親子の支配してきた北朝鮮などは、無惨な姿をさらけ出した。

 つまりは欧米および日本という現在の先進諸国の国家段階が、数千年の文明(国家)の歴史の最高到達点だということである。従ってこれまでの人類の歴史は、この段階に至る過程と総括できる。

 かつてマルクスが「アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式」という発展段階を示したのは、当時の世界の最高段階であった西欧の資本主義に至るまでの過程を、段階的に設定したものである。従って彼の説が西欧中心となるのは当然といえよう。

 

高い段階と低い段階

 ところでこの欧米および日本よりもさらに進んだ段階の国家・社会を「社会主義」と主張し、行動してきた人達がかつては多かったし、今もいる。しかし1989年の東欧、1991年のソ連崩壊をもって、20世紀の社会主義国家は非常に遅れた段階にあることが明らかとなった。社会主義の理念である「私有財産の否定」は、結局のところ中世の封建制どころか、それ以前の古代の公地公民制に他ならなかったのである。

 20世紀の歴史は、資本主義の行き着く先は社会主義ではなく、社会主義の行き着く先が資本主義であることを証明した。社会主義運動は、低い段階の国家社会を目指すもので、従って歴史を逆に動かす反動であったと言うほかない。

 それでは高い段階の社会に属する人々は幸福で、低い段階の人々は不幸かといえば、そういうことはない。発展段階とその段階に属する人々の幸・不幸とは関係あるものではない。ましてや優劣ではない。それぞれの段階は、歴史的につまり自然にその段階の社会に至ったのであり、それぞれの段階において人々は幸福であった。ニューギニアや南米・アフリカなどで今なお原始社会を維持している人々は、その生活に満足して幸福であるのであって、その社会が劣っているとは決して言えるものではない。むしろ彼らにとって社会の発展(=文明化)は、おそらく汚染・堕落と同義であろう。

 しかし次のことは言い切れる。高い発展段階を体験した人々が、低い段階に無理やり後退させられたら、それは不幸である。しかもそれが20世紀の社会主義のように、これこそ人類の「進歩」「解放」であり、「民主」「革新」「革命」であるというイデオロギー的確信でもって強制されたら、それが実際には反動であるだけに、全くもって苦痛なのである。苦痛のなかで生きざるを得なかった人々に、文化の創造は困難である。社会主義国において後世に残るような高い文化遺産は、前代からの伝統的文化を除いては、ほとんどなかったと言ってよいだろう。

 社会主義に関する限りは、資本主義と比べて優劣関係にあるのは明らかだ。戦後の日本の人民が社会主義を選択しなかったことは、賢明であった。

 

さらに高い段階

 ところで現在の先進諸国よりさらに進んだ段階の国家社会が、将来に実現するだろうことは考えられるが、それは今のところ空想に属する。その空想を敢えて言ってみよう。

 今西欧ではEU統合の道が歩まれている。まず手始めに通貨の統合である。通貨発行という国家の主権の一部をそれぞれが削り合って統合しようというのだから、もし成功すれば次に経済全般の統合、さらには政治の統合へと進むだろう。

 ここまで進めば婚姻等の人的交流も活発になり、各民族の自己認識(アイデンティティ)が変化することになろう。すなわち、私はドイツ人です、フランス人です、という認識より先に、私はEU人ですという認識が強くなる。それは旧ソ連のように強制されたものではないから、各民族は被害者意識を持つこともなく、自然にEU人ですという自己認識となっていく。

 政治と経済、および国民の民族としての自己認識は国家の基盤であるが、それらを統合するということは、マルクス言うところの「国家の死滅」への道となるのかも知れない。しかしこんな目出度い道はおそらくあり得ない。

 

   ホームページに戻る

   第6題に行く