「殺しの烙印」を見て



まず、特徴から述べさせていただく。全体としてこの映画のショットはすべて短く、せりふも少ない。モンタージュの好例だろう。
 テーマとしては、ランクづけでナンバー3の殺し屋・花田の心の動きを軸に、ナンバー1の座を求めて、死に向かっていく男の悲哀を描いている。音楽も、悲哀に満ちた曲がほぼ全編に使われ、作品の主題を的確に表現している。
花田は当初、死も恐れない、怖いもの知らずの男のように描かれる。実際、前半部の彼は、自分の仕事にプロとしての誇りを感じており、大胆不敵な男として描かれている。その大胆さで、見事にナンバー2を焼き殺すが、その時、元ランク入りしていた仲間が、対照的に、死におびえながら、殺されていく。
このシーンでは「おれが春日だあ!」と何度も叫んで、「第三の男」のように、トンネルの中で残響音が鳴り響く。途端にショットが切り替わり、男に胸を撃たれ(刺され?)、死ぬ。このシーンあたりから観客はこの映画全体にまん延する死のイメージに取りつかれる。
この仕事の帰りに、美佐子に出会うわけだ。そのシーンもわざわざ雨の中をオープンカーで濡れながら走る。車には鳥の死骸がかけてあって、「死ぬことが私の夢」という美佐子の謎に満ちた人間性を、効果的に演出している。
 このあと、美佐子の依頼を受けて、花田は初めて殺しに失敗する。しかも、プロでありながら、全く関係のない人を殺してしまう。花田のプライドは崩れる。美佐子と視線を合わせられずに大きな階段で会話するシーンでは、花田が階段の脇に、美佐子は階段の上に(美佐子は始めは画面には見えない)いて、それぞれの心理状態をうまく表現している。花田はプロにあるまじき大失敗をおかして、落胆し、美佐子はそれを上からぐさりとえぐるようにののしる。
 花田は女房の真美と、なんどもセックスを重ねる。私は当初なぜここまで多く、ラブシーンを描くのか、不思議に思った。しかし、後で、真美が組織の命令で花田を撃つことから、二人は肉体関係だけの間柄であることがわかる。つまり、彼らの間にはなんら愛情はなく、あくまで「けだもの」同士にすぎないということを監督は強調したかったのだろう。
 真美に撃たれながらも、奇跡的に一命をとりとめた花田は、美佐子の元へと行く。以前から美佐子の魅力に取りつかれていた花田は、美佐子の肉体を奪おうと、躍起になる。しかし、つかみ所のない美佐子の性格と、無数の昆虫の標本や鳥の死骸と言った死を暗示させるオブジェの数々に、花田は参ってしまう。おまけに美佐子は花田の命を狙っている。このあたりのシーンは特にショットが短く、二人のやり取りがリズミカルに展開する。
花田が出ていこうとすると、美佐子はライフルを突きつける。花田は事前にライフルに泥を詰めていたので、「暴発するぞ」、とやめさせる。このシーンで、
美佐子「あたしはどうせ死骸なの」
花田「バカヤロー」
という会話がある。
この「死骸」というのがこの映画のキーワードである。鳥や虫と同様に、自分も、殺されて死骸になると思っていた自分をはじめて、否定してくれた花田に対し、美佐子は恋心を抱く。
美佐子を殺した組織との対決のシーンは、後半部の盛り上がりで、車の下にかくれての銃撃戦など、大胆なアクションシーンが連発する。海岸線の日差しの中で、上半身裸になった花田は、太陽がいっぱいのアラン・ドロンを意識しているようにも思われる。
それから、ナンバー1との奇妙な生活が始まる。二人で昼食を食べに行き、ナンバー1にトイレで逃げられた花田は、間違って開けたトイレにいた人物を見て、真美を思い出す。不安に駆られるような音楽が流れ、花田は一転して死を意識し始める。
その後、ナンバー1に常に行動を観察されるようになり、夜も眠れなくなる。花田は初めて殺し屋に命を狙われることになったのだが、殺すことに関してはプロだった花田も、逆に殺し屋に狙われることには慣れていない。ナンバー1のじらしてから殺すという宮本武蔵のようなやり方は、余計に花田をいらだたせる。死を意識した花田の表情をカメラが何度もアップでとらえる。
 しかし、花田は自分がナンバー1になることを考えるようになり、俄然やる気を出す。ここで、飛んできた風船を子供のようにほうり投げるという、異様に明るいシーンがはさまれる。はりつめていた緊迫感を開放してうかれる花田の心理状態をうまく表現している。
 ラストのボクシングジムでの決闘だが、約束の時間を経過してから、攻撃してくるナンバー1のやり方から、ナンバー1も死を恐れていることがわかる。花田は「おれがナンバー1だ」と撃たれながら叫ぶ。相打ちになる。やってきた美佐子も誤って花田が射殺してしまう。暗いショットが何度も続いて、銃声ばかりが鳴り響く、乾いたシーンである。
 この映画に登場する男達は、ランクを追いかけたり、女や飯に目がなかったりと、かなり子供っぽく幼稚に描かれている。しかし、鈴木清順は彼らの生き方を批判しているのではなく、むしろ暖かい目で見つめている。おそらく、こういったアウトローたちが、生きていけなくなった現代社会(高度経済成長に入ろうとする日本)を、冷たく寂しいものとして批判したかったのだろう。当時の社会情勢は、皮肉にもこの映画を作ったことで鈴木清順が日活に解雇されたことからも、よくわかる。正直に言うと、私はこの映画の前半部を見て、監督はふざけているものと思った。しかし、後半部、とくにラストシーンから、監督の伝えたかったものが、ぼんやりとつかめてきた。鈴木清順の映画は、これが初めてだが、荒唐無稽なストーリーと映像に、しっかり自分の考えをもりこむ素晴らしい監督である。この映画は現在、ケーブルテレビの日活のチャンネル、「チャンネルNECO」でも放映されている。少しは、花田達がすみやすい世の中になったのかもしれない。

このレポートは評価はB+でした。(;_;)「レポートとして立つものが無い」そうです。

奮起して二回目のレポートを書きました!「81/2」

戻る