フェリーニ、アイロニーと自己実現  一つの81/2試論


宮井秀人

 「81/2」は、「フェリーニがあらゆる人間に対してアイロニーをぶつけた野心的作品」である。
 まず、この映画が、「映画を作れない映画監督を映画化した映画」ということ自体が、極めてアイロニーである。特に、主人公グイドは、大人でありながら、子供であり、詩人の魂を持ちながら、極めて俗人である。また、少年時代の入浴シーンで出てくる呪文「ASA NISIMASA」は、種村季弘によれば、「ANIMA」(「すべての男性がもともとうちに抱いている女性像」)を意味する。つまり、グイドは男であり女であるという側面をも示唆している。
 フェリーニは、「81/2」で、大人であり、職業人であり、男でありといった、あらゆる定義から解放された、自由な人間を造形しようとした。(冒頭のグイドが車から飛んでいくシーンなどは、もっとも象徴的だ。)あえていえば、グイドは、道化に一番近い。
 そのグイドを束縛しようとする人々として、プロデューサーを始め、妻のルイザ、愛人のカルラ、評論家、マスコミなどなどさまざまな人物が目まぐるしく登場する。プロデューサーは金や映画の完成のこと、女優たちは自分たちの役のこと、評論家はその映画が芸術であるかどうかということ、女達は自分が愛されているのかどうかということ、それぞれが、まったく違った、エゴでグイドを悩まし、混乱に導く。フェリーニ自身、こういう経験があったのだろうか。この映画の中では、毒々しいぐらい彼らのエゴがしつこく皮肉られている。
 しかし、その束縛は、不思議に同時に解放でもある。フェリーニ映画の原点とされる『道』でのジュリエッタ・マシーナが、卑しい白痴であると同時に聖女であるように、鎖にしばられるアンソニー・クインは、拘束であり、解放であるように、淀川長治が「道」について、「残酷」で「暖かい」と評価するように(注1)、フェリーニは元来、映画に類型を与えず、多様なニュアンスをもたせる監督だったというべきなのかもしれない。
 にもかかわらず、多くの映画評論家たちは、やれ「巨女憧憬」だの「母性の欠乏」だの「自伝的映画」だの、この作品の中でのフェリーニを、「型」にはめようとした(注2)。監督自らのコメント(注3)からも分かるように、フェリーニのようにセンスで映画を撮るひとは、巨女憧憬だの、自伝的映画だの細かいことに、全く関心がない。そういった批評は、どれもこれも、あとから他人が付け加えたことで、彼の映画の一面を語っているに過ぎず、本質(ここでは仮に「多様性」と呼ぶことにする)をとらえてはいないのである。クラウディアもサラギーナもルイザも、単なる道具立てで、グイドがフェリーニと同じ監督という職業であるということも、まったく設定上の都合に過ぎない。(何せ、当初の予定ではグイドの仕事を弁護士にしようかとも考えていたほどだから。)(注4
 また、フェリーニにとって「81/2」は、リセット(=死と再生 なんとアイロニカルか)的な役割を果たしたことがわかる。つまり、もう一度、原点の「多様性」に帰って、新たな方法で映画を作りだすことができたのだ。フェリーニのコメントやグイドのせりふ(注5)から、映画を作ることは自己実現であることが読み取れる。フェリーニにとって映画は自分の原点である「多様性」を表現するための手段である。そのため、彼は過去のことを思いだしたり(ぶどう酒の風呂に入る)、現状を見つめ直したり(ルイザとの夫婦仲)、空想にふけったり(ハーレム)、あらゆる手段を用いて作品の構想を捻出しようとする。自分の過去を振り返ろうとするのは芸術家が行き詰まったときに、よくやる手だが、たいていうまくいかない。現状を見つめ直せば、もっと残酷で、空想にふければ現実とのギャップが大きすぎて、余計にショックが大きい。そして何よりも、有名映画監督であるグイドを取り巻く、あらゆるエゴから来る妨害。混とんとした状況を、整理しきれなくなって、ついにリセットするため、ピストルの引き金を引く。
とたんに、頭の中が真っ白になって、グイドは目が覚めたように映画撮影に乗り出す。
おそらく実感したのだろう。
もっと自由に映画を作ればよいのだということを。
もっと自分を素直に表現すればよいのだということを。
 ここに到達するまで、フェリーニが費やしたエネルギーは計り知れない。しかし、この映画を作ったことで得た満足感や功績も計り知れないのだ。事実、この「81/2」以降は、カラーの作品になり、きらびやかな色彩や奇抜な美術でフェリーニのイメージを映像化し、そのためにはチネチッタの様な大掛かりなものまで作り上げた。フェリーニはますます自由になったのだ。
「インテルビスタ」(1987)では「81/2」(1963)のころの時代を懐かしむシーンが随所にあるが、20年以上たってもその時の満足感は消えないのだ。
「81/2」はフェリーニの新たなステップを踏むうえで、フェリーニの「多様性」を貫くための強固な土台になったのである。
 フェリーニが巨匠と言われるゆえんは、この「多様性」を最後まで表現し続けたからであり、そのための「81/2」が存在したからである。また、人間という人間を、『市場での競争の担い手』(=『機能』)ととしてしか理解しないかのように見える昨今の風潮のもとで、グイドやフェリーニのような『人間そのもの』、『実体としての人間』との出会いは、それ自体強い衝撃力を持つ。

以上


注1) 淀川長治氏は「道」について「孤独がこんなに残酷に、逃げ回っても追っか
けて私を掴んで話さなかった映画。そのくせ、なんという暖かさ。妙な映画で・・
・・・私はまったく見とれた。初めてのこのフェルリイニにとまどいした。」と述べている。
注2) 「81/2」のパンフレットには、このような型にはまった批評が数多く見られる。
注3) フェリーニはこの映画について「一体どこから、どこまでが私個人にかかわる話で、それがどこでどう一つの作られたタイプ---私に固有のイメージがやがてあるタイプに結晶したもの---の描写につながっていったのかは、私自身にもはっきりしないのである。第一、このような区別は私の興味を引かないし、強いて区別をつけたくもなければ、その必要をも私は認めない。自伝的映画を作ったという非難が私にむけられているが、私としては答えるすべを知らない。私に分かっている唯一のことは、この映画の中で、私は一人の演出家の生活を語ろうとし、そして、その彼には精神の領域においてトラブルがあり、ある種の錯乱状態に落ち込んでいるということだけなのである。」
と述べている。
注4) ちなみに、フェリーニは、後に「インテルビスタ」で、自らの映画を、類型的な言葉でではなく、素直な感覚でとらえて欲しいということを面白おかしく表現している。例えば、日本人の記者がフェリーニに取るに足らない質問ばかりするシーンがあったり、アシスタントがフェリーニのために太った女性ばかりを集めてくるこっけいなシーンがあったりする。
注5) フェリーニは「81/2」を作ったことに対して
「この映画は私に大いに役立ったと誠意をもって言うことができる。今、私には何でも可能なのだ、ということが感じられる。何故ならば、この映画の経験によって私は、ものを見るうえで、また人を愛するうえでの、新しい方法を獲得したからである。今まで私がやってきたことをもう一度始めからやり始め、今までの私の映画を全部作り直すことさえ可能だろうという気がする。」
と言っている。
この映画の終わりで、グイドは、
「これがありのままの自分だ。自分がなりたいと願った姿ではない。だが、そんなことも平気だ。実を言えば、自分がまだ分からないんだ、それを探し求め、まだ発見していない。これでこそ、僕は生きている自分をかんずる。そして、君の目に少しの恥ずかしさもなく見入ることができるのだ。人生は祭りだ!一緒に生きよう!ルイザ、君にも他の人にも僕にはこれしか言えない。このままの僕を受け入れてくれ。お互いを見いだすにはこの方法しかないのだよ。」
と言う。

参考文献
アートシアター 「81/2」 日本アート・シアター・ギルド発行
「怪物のユートピア」 種村季弘
「道化の宇宙」 山口昌男
週間「ザ・ムービー」1963年号 ディアゴスティーニ


このレポートは返却してもらっていないので、点数は分かりませんが、映画論の授業そのものの成績は「優」が来ました。

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