酒場から見た日本社会(『静大だより』第137号・1999年7月)
 学生たちにも公言しているし、自分のホームページにも宣言してあるくらいだから、隠すことはない。私の趣味は、酒である。
 もちろん飲むのが好きで、これが基本であることは間違いない。私の酒遍歴は、日本酒から始まった。全国各地に、土地の風土に根ざした美酒のあることを知り、こうした酒を集めた居酒屋を訪ねてはあれこれ飲むようになったのは、大学院生時代のことである。各地の酒を集めて売る、良心的な酒屋を訪ねては一本ずつ買い求め、家で飲むことも多かった。学会発表の準備や論文執筆に追われながら、寝る前のひとときに飲む美酒は、まさに至福の味だった。その後、ワイン、ウイスキー、ビールと、「超」のつく高級ワインを除いては、たいがいの酒を試したつもりである。
 飲むだけではない。酒に関する本を買い集めては読むのが、もう一つの楽しみである。通勤途中や飲んで帰った夜など、難しい本は読めるものではない。こんな時を利用して読み続けた本は、ゆうに一〇〇冊を越える。何冊かは、新聞の書評欄で紹介したりもした。変人扱いされるかもしれないが、酒を飲みながら酒の本を読むなどという時間も、私にとってはまた、至福のひとときなのである。
 就職して経済的余裕が出来てからは、外で飲むことが多くなった。いろんな場所の、さまざまな居酒屋を巡り歩くうちに、もう一つの楽しみが加わった。それは、居酒屋を通して日本の社会を知ることである。こうして居酒屋巡りは、私にとって社会学のフィールドワークと化しつつある。
 たとえば東京のはずれに、私の愛する立ち飲み屋がある。文字通り、客は立ったまま酒を飲み、肴に箸を伸ばす。いかほどかの金をカウンターに放置しておけば、店の人が注文した分だけ取っていく。値段は信じられないほど安い。ビールの大瓶が三六〇円、肴は一一〇円均一である。店の開くのは、朝九時。そんな時間に客が来るのかと思うかもしれないが、開店間もなく満員になる。客の大部分は、夜勤明けの工員たちである。考えてみれば当然のことだが、彼らにとってこの時間は、我々にとってのアフターファイブに他ならない。都市には彼らのための店が、ちゃんと用意されているのである。ネクタイを締めた客など、ほとんど来ることのないこの店は、ブルーカラー労働者の聖域である。
 やはり東京のはずれに、昼過ぎに店を開くやきとん屋がある。やきとんとは、豚の内臓類の串焼きである。値段は格安、しかも旨い。ここでビールグラスを傾けながら周囲の客の話に耳を傾けると、こんな話が聞こえてきたりする。
「いくらだった?」
「一万五千。」
「オレは一万三千だよ。」
「最近、二万越える仕事なんて、ないな。」
「いや、潜水の仕事ならあるよ。おっかないけどな。」
彼らは、日雇いのとび職であるらしい。数字はもちろん、日給である。日雇労働者としては、高給の部類だろう。しかし、仕事が毎日あるとは限らない。不況の今、仕事は激減しているはずだ。そして、体が唯一の頼みである。年を取ったり病気になったりすると、生活の保障はない。ホームレスになる場合もあろう。こうした日雇い男性の大部分は、独身である。キャリアウーマンの未婚化が進んでいるというが、その対極には、こうした男性たちがいるのだ。
 同じ立ち飲みでも、都心部はだいぶ様子が違う。たとえば東京駅にほど近いオフィス街にある店。客のほとんどは、スーツにネクタイ姿のサラリーマンである。彼らは、仕事が終わってもまっすぐ帰るわけではなく、かといってちゃんとしたテーブルとメニューのある店ではなく、この店へやって来る。ほとんどの客は仲間と一緒ではなく、一人でグラスを傾けている。ここから彼らは、十分な小遣いをもっていないこと、そしてすぐには家庭に帰りたくないことがわかる。彼らには、会社以外の居場所がないのである。家庭や地域のことをすべて妻に任せ、仕事に没頭するうちに居場所を失った男たち。しかも住宅ローンの負担は重く、余裕はない。定年退職後に、用もないのにスーツを着て都心に出かけ、公園のベンチやこうした立ち飲み屋で酒を飲むのを楽しみにしている男性も多いと聞く。会社人間の悲しい末路というべきか。
 他にも、発見は多い。大規模チェーンの居酒屋では、正社員とパート労働者の関係を目撃することがある。安居酒屋でたまたま知り合った相手が風俗産業の役員で、業界の裏事情をいろいろ教えてもらったこともある。バブル経済の絶頂期、中小企業の経営者と知り合って、銀座にある座っただけで何万円取られるかわからないクラブに同行し、その雰囲気を垣間見たこともある。こんなことから、私の専門の社会階級・労働研究のアイデアが生まれたりもする。
 社会のすべては、社会科学のフィールドだ。学問とは、日常から隔絶したものではない。君たちの目撃するすべての出来事は、探求の材料なのである。

 ただし、居酒屋で居合わせた人々が、いつも「いい人」とは限らない。初心者は、ご注意あれ(笑)。

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