いじめ----競争社会のウラ構造(『静岡新聞』1994年6月23日)
 最近、「いじめ」に関する出来事が相次ぎました。
 他の犯罪や事故などの多くと違って、「いじめ」という現象には、ほとんどすべての人々を不安にさせる性質があります。なぜでしょうか。理由は二つあります。第一にどの子どもにも、いじめに関与し、あるいはその被害者になる可能性があるということ。第二に、いじめというものが、いわば日本社会の体質のようなものとして広く行き渡っているということです。
 障害をもった子どもや容姿・服装に特徴のある子どもなど、学校の中で「異質」と見られがちな子どもは、確かにいじめの対象になりやすいようです。つまり、差別意識に起因するいじめというわけです。しかしそれ以上に多いのは、特に理由もなくいじめられるケースです。一見親しそうに見える生徒たちの集団の中の誰かが、なぜかいじめの標的にされたり、偶然起こったささいな出来事からいじめが始まったり。標的が順繰りに変わっていくこともあるそうです。そう、どの子にもいじめられる可能性はあるのです。
 また、多くの子どもたちがいじめに加担しています。いじめに批判的な態度を取ったことを理由にいじめられる場合もあるのですから、標的にされるのを避けるため、子どもたちはいじめに加担し、あるいは傍観することになります。当然、子どもたちはいじめがあったことを教師や親に伝えようとはしません。いじめが発覚しにくい理由の一つはこれです。多数の傍観者たち、いわば「観客」の厚い壁に守られて、いじめはエスカレートしていくことになります。
 しかし考えてみれば、「いじめ」というのは、大人の世界にも普通にみられることなのではないでしょうか。あなただって今、いじめられているかもしれないし、いじめに加担しているかもしれません。
 裁判にも持ち込まれた実際の出来事です。大手企業に勤めるある会社員は、残業の一部を断ったことをきっかけに、上司から執拗な「いじめ」を受け始めました。ささいな事で怒鳴りつけ、始末書や反省書を書かせる。他の社員も一緒になり、各種の親睦行事から締め出し、朝晩の挨拶もしない。おそらく上司の言う通りにしないと、自分も標的にされると考えたからでしょう。
 こうした「いじめ」は、企業社会に蔓延しています。リストラ対象とされた中高年社員たちの多くは、慣れない職場や閑職に追いやられ、人間関係を断ち切られ、退職を強いられていきます。絶望してホームレスと化していく人々もいるといいます。女性社員に対するいじめも、よく耳にします。早く退職させて新卒を採用したほうが、賃金コストを節約できるからです。セクハラの場合でも、性的な働きかけそのものだけではなく、働きかけを拒否した場合のさまざまな「いじめ」が深刻な問題となる場合が多いのです。
 こうして考えて見ると、現代日本社会が巨大な「いじめ社会」のように思えてきます。
 試験の成績で序列化され、それぞれのレールへと振り分けられていく子どもたちが、その精神的重圧から「いじめ」を開始するというのは十分ありそうなことです。不満はここにはけ口を見いだし、学校には向けられずに済みます。こうして子どもたちは何とか受験競争を乗り切っていくのですが、その先にあるのは、社員の間のし烈な競争と構造的な「いじめ」によって利益を上げていく企業社会です。オモテの仕組みとしての競争、ウラの仕組みとしての「いじめ」。この二つによって日本の教育と企業は貫かれている、といえば言い過ぎでしょうか。
 「いじめ」に倒れていった子どもたちは、日本の社会に警笛を鳴らしているのです。

雑文のコーナー
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