女たちへ----女性解放の最大の敵は、普通のオジサンである(『静岡の文化』1993年春号)
 私は静岡大学で、「女性学」の授業を担当しています。女性学といってもご存知の方は少ないかもしれません。1960年代、女性解放運動の高揚した時期に生まれた新しい研究分野で、簡単に言えば、いま女性がどのように抑圧されているか、またなぜ抑圧されるのかを明らかにし、さらにどうすれば女性が抑圧から解放されるかを考える学問です。近年は日本でも、社会的な注目を集めるようになりました。
 女性学という名称のせいか、あるいは私が男であるからか、いろいろと誤解されることも少なくありません。いちばん単純な誤解は、女のことを研究しているというのだから、よほど女好きなんだろう、という誤解です。ワイセツな笑みをうかべて、「女性学って、何を研究するんですか?」と質問してきた同僚は一人や二人ではありません。大学教師の教養水準も知れたものです。あいつは女性解放論者だから、セクハラだのポルノだのについてもいろいろ不穏当な意見があるんだろうと目を付け、やたらと論争を挑んでくる同僚や男子学生もいます。おあいにくさま、私はダテに女性学をやっているわけではありません。そのへんのオジサン(大部分の男性大学教師の女性差別問題についての認識レベルは、日本の平均的オジサンと同じです)や学生に思いつく程度の反論など、先刻承知です。
 しかし女性学に関心をもつ女性たち、女性差別をなくそうとしている多くの女性たちがまず最初に出会う、またもっとも手ごわい障害は、こうした周囲の男性たち(いや、しばしば女性たちも)の無理解なのです。参考になるかもしれませんので、具体的な例を2つほど紹介しましょう。
 その1。学園祭の近づいたある日、一人の女子学生が私のところにやってきました。今度の学園祭でミス静大コンテストをやるので、審査員になってください、というのです。これには驚きました。あのね、君。いまどきミス・コンなんてはやらないし、第一、それは女性差別だよ、やめときなさい。彼女は不服そうに帰っていきました。後で考えたのですが、もしかすると彼女は、ミス・コンをやろうという男子学生たちに表立った反論ができず、次善の策として私を担ぎ出し、せめて「良心的ミス・コン」にしようとしていたのかもしれません。ちょっと冷たすぎたかなと、あとで少し反省しました。
 どうも、静岡はミス・コンに寛容な土地のようですね。各地でミス○○というのが行われているし、確か各大学の「ミス」を集めた催しも行われていました。それに反対運動が起ったという話も聞きません(もし起っていたら、ごめんなさい)。あのミス・コンというのは、要するに女の品評会ですよ。そして「ミス」なるものを担ぎだして催しをやったり地域をアピールしようというのは、ヌード写真で人の目を引きつけて物を売りつけようというのと同じ発想です。「美しさ」というのが人間の評価基準の一つとしてあるのは否定できませんが、これだけで女性を判断しようというのは、偏差値だけで子どもの価値を測ろうというのと同じです。いや、生まれつきの部分が多いだけ、偏差値よりはるかに悪質です。しかも「美しさ」と言っても、それは男が勝手に定義したものでしょう。女性が自分で希望して参加したのだからいいじゃないか、という人もいるかもしれません。しかしミス・コンがあることによって、実は参加者以外の人たちも「美しさ」の基準を押しつけられることになるのです。それは偏差値競争を拒否した子どもたちが、「できない子」「おちこぼれ」にされるのと同じです。そういえばウーマン・リブの活動家たちもよく、「コワイ女」「もてない女のヒガミ」などとからかわれましたね。
 その2。ある日、同僚の一人が、「女性を差別するのはいけないが、区別はあっていいんじゃないですか」と私に論争を挑んできました。この言葉、いままで何回聞かされたことでしょう。ほう、区別といいますが男と女を何で区別するんですか。さすがにここで、男と女は生まれつき知能・能力が違う、などと言い出す人は少なくなりました。念のため言っておけば、男と女に生まれつきの能力の違いがあるという仮説は、今日ではほとんど否定されています。空間的能力(いわゆる方向オンチかどうかということ。男のほうが優れているという説があります)とか、言語能力(言葉を使う能力。女性のほうが優れているという説があります)については多少の違いがあるともいわれますが、それでも男女の違いによる部分はせいぜい1%から数%、残りの95%以上は個人差です。
 次にたいていの男性たちが言い出すのは、体力が違う、女性には生理や妊娠がある、ということです。しかし今どき、男と女の体力の違いが問題になるような職業がどれだけありますか。それに仕事に必要な体力というのは、腕相撲や短距離競争に必要な体力とは訳が違うのです。実際、男性より女性のほうが寿命が長いではありませんか。生理や妊娠があるから区別が必要だと言うのは、確かにその通りです。ですから、女性には生理休暇や出産休暇が認められなければなりません。しかし、これを理由に女性は家庭にいろとか、重要な仕事をさせないというのは差別です。というのは、生理や妊娠は仕事の能力には関係ないことだからです。また休暇を取るから重要な仕事を任せられないというのは、休暇をとった男性社員を左遷するというのと同じで、労働者の権利の侵害です。
 女性差別をなくすというのは、簡単にできることではありません。制度を変えることは必要ですが、普通の男たち、つまりオジサンたちの発する、あらゆる非常識で不真面目な言説、からかいや嘲笑、詭弁とレッテル張り、これらと戦わなければならないのです。男である私などはせいぜい側面援助しかできないのですが(笑)、健闘を祈ります。

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