地方で学ぶ若者が財産----東大は進学の頂点か(『北國新聞』1993年8月23日)
 石川県で最近、東京大学合格者の数が富山県に比べて少ないことが話題になっているという。これを知ったとき、私は不吉な感じを禁じえなかった。同じようなきっかけから、高校が受験準備教育一色に塗り替えられていった例がいくつもあるからである。
 例えば熊本県では十年前、細川知事(当時)の「熊本県は東大合格者が少ない」という発言をきっかけに受験準備教育の強化が始まった。今では多くの高校で、早朝や放課後に最大三時間の課外授業が行われるほか、深夜にわたる夜学や夏休みの合宿なども行われている。同様の動きは九州各県や東北地方の一部などに広がっているが、進学実績が顕著に向上したという例は今のところ一つもない。
 東大合格者数を各県の教育成果、ひいては将来性の指標と見なす考えはかなり根強いが、ここには、(一)東大合格者数はその県の教育水準のバロメーターである、(二)東大合格者を多数出した県はその後、経済的・政治的に優位に立つことができる、という二つの仮定がある。これらの仮定はいずれも疑わしい。
 まず第一の仮定だが、一学年が一八〇万人にも達する高校教育の成果を、そのわずか〇・二%にすぎない東大合格者によって代表させることなどできるはずはない。進学という側面に限ってみても、東大合格者数が進学実績を代表しているとはいえない。例えば、滋賀県からの東大合格者は毎年五名前後で全国でも最低の部類だが、京都大学合格者は六〇名前後と石川・富山の合計にほぼ等しく、全体としての大学進学率も高い。滋賀県の高校生は、東大よりも京大を選好しているのである。こうした傾向は多かれ少なかれ関西各県に共通のことであり、北大や東北大についても同様の傾向が見られる。石川県の場合には、地方大学として有数のブランドイメージをもつ金沢大学の存在を無視できないだろう。
 さらに、エリート優先の教育が、かえって進学率を低下させる場合もある。各地で行われているのは、公立高校の入試制度改変によるエリート校作りだが、エリート校ができれば底辺校もできる。東大合格者は何人か増えても、他方では学校への不適応や退学が増加し、全体としての進学率も低下する傾向がある。これに対して特定のエリート校を作らず、総合選抜制度などによって高校間格差を小さくしている県は、いずれも進学率が高い。
 第二の仮定はさらに疑問が大きい。地方出身で東京の大学を卒業した人の六五%は東京都内に就職する。要するに、東京の大学は地方から人材を吸い上げているのだ。東大卒業者の場合、この比率がさらに高いことは確実であり、彼ら・彼女らが出身地の将来を担うことはない。いずれ政界や官界の中枢に入り込んで有利な働きをしてくれることを期待する向きもあるかもしれないが、これは縁故主義的な政治を前提とするものであり、政治改革の流れに反する。そもそも、東大卒業者が有能であるとの証拠はどこにもない。根拠のない東大信仰は有害無益である。
 石川県は現状でも、地方県としては多くの東大合格者を出している。これ以上に東大合格者を増やしたいなら、最も有効な方法は金沢大学、とくに医学部志望の生徒に、東大を受験するよう早い時期から強力に指導することだ。しかしその結果、石川県の医療や教育、産業は衰退していくだろう。むしろ石川県が誇るべきは、地方県としては例外的に大きい県内大学定員と、そこで学び、地元に就職していく多数の若者たちの存在である。
 合格者数ランキングは郷党意識に支えられた「もう一つの甲子園」だ、と評したのは教育社会学者の天野郁夫氏である。高校野球を観戦するように眺めている程度ならまだ良いが、受験準備教育の強化によって生徒や教師たちの心身を荒廃させ、揚げ句の果てに貴重な人材を東京に引き渡すようなことはやめたほうがよいだろう。

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