書評 J・ウェスターガード著『イギリス階級論』(渡辺雅男訳・青木書店)
Review Essay : J.Westergaard,Class in Britain since 1979 : Facts,Theories and Ideologies

橋本健二(Kenji Hashimoto,静岡大学教養部助教授)

(本書評論文に対するウェスターガード氏自身の回答は、「一橋論叢」第113巻第2号(1995)にあります
はじめに
一 階級構造の実証的分析の方法
二 「即自的階級」と「対自的階級」
三 階級的分断と非階級的分断の関係
四 日本における階級研究の課題



はじめに

 本書は、現代イギリスを代表する社会学者の一人であるとともに階級研究の第一人者でもあるジョン・H・ウェスターガード氏が、一九九二年一二月、一橋大学で三回にわたって行った連続講義を中心に、関連して行われた討論の記録、そして訳者の渡辺雅雄氏による詳細な解説を収めたものである。
 何よりも感銘深いのは、本書の主要部分をなすウェスターガード氏の講義である。現代イギリスにおける階級構造の実態を、さまざまなデータを縦横に駆使しながら明らかにする。階級理論に対して批判的な現代のさまざまな理論潮流に対し、理論と実証の両面から的確に批判を加える。その毅然とした研究姿勢は、「階級論およびその関連領域……の研究成果は、学問の進歩のためにイギリスが行ってきた主要な国際的貢献となっている」(三五頁)という力強い言葉によく示されている。まさに間然するところのない名講義というほかはない。
 ついで行われた討論では九人がコメントに立ち、一人一人に対してウェスターガード氏が応答している。コメンターはいずれも的確に論点を提示しているし、ウェスターガード氏も正面からこれに答えている。五〇頁以上にもわたるその討論記録は、現代における階級理論と階級分析についての主要な論争点の多くをカバーし、知的好奇心を多いに刺激する。また訳者解説は、ウェスターガード氏の研究業績やその学説史上の位置、さらに日本における階級研究の現状と課題について広範かつ簡潔に概観しており、それ自体で階級研究への一定の貢献をなす ものである。
 実のところ、このような本を「書評」するのは大変に難しい。ウェスターガード氏の講義に対しては、すでに九人のコメンターと訳者の渡辺氏が多面的に論じており、基本的な論点はほぼ出し尽くされている。したがって、内容を要約した上で個々の論点について賛意や疑問を表明するといった、ありきたりの書評で済ますことはできない。そのような書評を読むくらいならば、渡辺氏の解説を読む方がよいのは明らかだからである。
 したがって、ここで私は、階級研究の現代的課題に関わって本書で提示されているいくつかの論争点について私自身の考えを提出し、ウェスターガード氏と九人のコメンター、そして渡辺氏の間で繰り広げられている議論に自ら参加するという形で、「書評」の責務を果たすこととしたい。論ずべき問題は数多い。今回はその中から、一、階級構造の実証的分析の方法、二、「即自的階級」と「対自的階級」、三、階級的分断と他の社会的分断の関係、四、日本における階級研究の課題、の四点を取り上げることにしよう。

一 階級構造の実証的分析の方法

 講義の冒頭部分、一九七九年のサッチャー首相就任以降のイギリスにおける階級格差の拡大傾向について述べた部分は、まさにウェスターガード氏の独擅場である。主に官庁統計に依拠しながら、所得の配分と資産の配分における不平等が拡大したことを疑問の余地のない形で明らかにする。さらにこうした不平等の趨勢を一九四〇年代からの五〇年間にわたって追跡した結論として、イギリスにおける階級的不平等の趨勢を三つの時期に区分する。それが、1.労働党政権の下で、階級的不平等がある程度是正された時期である一九四〇年代、2.政府・産業界・労働組合のコーポラティズム体制の下で、階級的不平等が安定的に推移した一九五〇−七〇年代、3.「階級的妥協」を否定するサッチャー政権の登場により、階級的不平等が拡大に転じた一九八〇年代、である。講義では実に単刀直入に述べられているのだが、その端々から、また付録として収められた統計表から、それがきわめて周到な実証的手続きを通じて導かれた結論であることがうかがえる。
 しかしこの部分は、マルクス主義階級理論の立場に立つ人々から異論の出やすい部分でもある。確かに所得などの格差拡大という事実の重要性は否定できないが、こうした事実を明らかにするためにウェスターガード氏が用いているデータは、階級カテゴリー、特にマルクス主義的な階級カテゴリーに基づいて集計されたものではないからである。
 たとえば、所得格差の拡大を示すために用いられているのは所得一〇分位や五分位ごとの所得に関するデータであり、資産格差の拡大を示すために用いられているのは最富裕層一%、五%、一〇%と最貧層五〇%の資産保有量のデータである。また、社会移動の機会の不平等についてはゴールドソープらの研究が引用されているが、この研究はネオ・ウェーバー主義的な階級カテゴリーを基本としたものである。さらにマニュアル−ノン・マニュアル、熟練−非熟練といった、職業カテゴリーを分析に用いた箇所もいくつかある。したがってウェスターガード氏の分析は、「マルクス主義的な理論や仮説をマルクス主義的でない階級の操作化で検証」(1)しようとするものであると言わねばならない。コメントに立った松石勝彦氏もこの点を指摘している。
 もっとも、この点をもってウェスターガード氏の研究の欠点とすることは、やや公正を欠くかもしれない。一般に理論的な概念を実証研究に適用するためには、概念の操作化という手続きが不可欠である。ところが階級という概念は、必ずしも操作化の容易な概念ではない。多くの場合、入手可能なデータに用いられる統計的カテゴリーは階級概念とは程遠いものであり、階級に関するあらゆる実証的研究は、こうした問題を必然的に抱えているのである。実際、一九八〇年から一九八四年の間にイギリスの主要な社会学関係学術誌三誌に掲載された論文のうち、階級に関する実証的分析を含む論文の実に九〇%までが、非マルクス主義的な職業カテゴリーを用いていたという(2)。
 確かに、所得一〇分位や職業カテゴリーに基づく分析をもって「階級的不平等」の拡大の証拠とする手続きには、明らかな論理的飛躍がある。ウェスターガード氏もこの点については認識しており、松石氏の指摘に対し、貧富の差の拡大はそれ自体として階級的分断の拡大の証拠ではないが、その「ひとつの兆候」であると説明している(一三七頁)。私にはこの説明が十分であるとは思えないが、入手可能なあらゆるデータから可能な限りの「兆候」を収集し、階級分析の材料とするやり方が、データ入手の困難さを前に禁欲し、階級分析の可能性を自己限定してしまうやり方より好ましいのは明らかだ。
 だが問題が二つ残る。第一に、ウェスターガード氏の行った分析では、階級の影響力が過少評価されている可能性が高い。というのは、所得や職業などの社会経済的カテゴリーより階級カテゴリーのほうが説明力が高いと考えられるからである。たとえばライトとペローネは、マルクス主義的な階級カテゴリーを独自の方法によって操作化し、階級所属と職業的地位の所得額に対する効果を比較した結果、階級所属は職業的地位と同等以上の説明力を持つと結論した(3)。同様に橋本は、SSM調査データの職業変数と就業上の地位変数に基づいて階級概念を操作化し、1.階級所属は職業威信スコアより所得額に対する説明力が強い、2.階級所属は職業四分類より階層帰属意識や政党支持に対する説明力が強い、という結果を得ている(4)。したがってウェスターガード氏の分析では、階級による経済的不平等や階級所属と政党支持の関係などが過少評価されているかもしれないのである。
 第二の問題は、より理論的な問題である。入手可能な統計的カテゴリーを用いて分析する場合でも、統計的カテゴリーと理論的な階級概念の間の関係は常に意識されている必要がある。そして統計的カテゴリーを、可能な限り理論的な階級概念に近づける努力が求められる。そうでければ階級概念の有効性は、したがってマルクス主義社会理論の有効性は、永久に検証されないだろう。ところがウェスターガード氏は、入手可能な統計的カテゴリーを重視するあまり、結果的には理論の側に修正を施すことになってしまったようである。この問題は、次に検討する「即自的階級」と「対自的階級」の問題に関わっている。

二 「即自的階級」と「対自的階級」

 ウェスターガード氏はいくつかの場所で、自身の用いる階級概念に言及している。それによると彼の用いる階級概念の最大の特徴は、「不平等」との関係で定義されているという点にある。ただし、この「不平等」という概念を、単に所得や資産の不平等、すなわち経済的資源の配分の不平等という意味に解すると、氏の階級論を誤解することになろう。
 氏によれば、階級とは「生産と分配という二つの秩序のなかでの位置」を意味するものであり、分配面に限定されるものではない。氏は階級の核心(hard core)が不平等にあることを繰り返し強調するのだが、この場合の「不平等」には、「権力の、影響力の、生活資源の、保証の、機会の、個人の自律性の、さらに、経済的な立場と環境に依存する、個人的な発展と選択の手段への接近の不平等」が含まれている(一五五頁)。また別の箇所では、職場での権限や自由裁量の程度などを階級区分の基準に含めている(六四頁)。このように氏の「不平等」概念はかなり広いものであり、その中には生産手段の所有関係や、労働過程における権限関係までが含まれるのである。したがって氏の階級概念は、尺度としてやや多元的になる傾向はあるものの、マルクス主義的な色彩が強いといえる。
 ところが、所得一〇分位や五分位データが頻出する実際の分析を見ていると、ウェスターガード氏は「階級」を「富者」と「貧者」のことだと定義しているようにも思えてくる。つまり実証的な手続きにおいては経済的資源の配分の側面が非常に重視されているのである。このことが、「即自的階級」と「対自的階級」を峻別しようとする氏の理論的立場にも微妙に影響しているようである。
 ウェスターガード氏は、経済的な分断によって定義される「即自的階級」が、政治的グルーピングとしての「対自的階級」と必然的に照応するという議論は、「あまりにも硬直した決定論的なマルクス主義理論の解釈である」と批判する(一四四頁)。ちなみに氏が、イギリスの総選挙における労働党の度重なる敗北や、労働者階級内の労働党支持の減少を論拠として、労働者階級は消滅したとか階級的分断は解消されたとする議論を批判するのは、この点においてである。つまり、「俗流マルクス主義的決定論」が労働者階級の急進主義は労働者階級の経済的従属から直接に発生すると考えるのに対して、こうした階級否定論は、政治的グループとしての労働者階級が曖昧化したことから経済的カテゴリーとしての労働者階級の消滅を直接に結論する。両者は論理的に同形の誤りを犯しているのである。この指摘自体に異論はない。
 しかし問題は、両者に直接的かつ必然的な照応関係はないとしても、両者の間に限定された照応関係や媒介された照応関係があることは否定できないということである。むしろ、ここに一定の照応関係を認めることが、マルクス主義社会理論の基本的な特質なのではなかったのだろうか。生産諸様式によって階級構造が決定され、階級構造の中の位置を共有する人々の集群である諸階級が、社会諸現象の基本的な単位を構成する。さらに諸階級は集合的行為の基盤でもあり、そのことによって社会的なダイナミクスの中心として作用する。階級概念の有効性を検証するという作業は、たんに社会的不平等の構造の解明に止まるのではなく、こうしたマルクス主義社会理論の基本命題を検証する試みなのである。
 おそらく、所得階層と政党支持の間に必然的な照応関係はないだろう。職業と政党支持についても、必然的な照応関係は部分的にしか存在しないだろう。しかし、所得階層や職業は階級の正確な指標ではないのだから、このことをもって「即自的階級」と「対自的階級」の照応関係そのものを否定することはできない。ウェスターガード氏は、マルクス主義理論は「変更可能で開かれたものでなければならない」という(一四四頁)。この点に異論はない。しかし「即自的階級」と「対自的階級」の照応関係という問題はマルクス主義社会理論の核心(hard core)ともいうべきものであり、これが否定されることはマルクス主義社会理論そのものが否定されたことを意味すると見るべきではないか。この核心部分そのものに変更を加えることは、一見柔軟な態度のように見えるが、実際にはマルクス主義社会理論を反証不可能な体系へと神秘化する結果を生むように思われる。

三 階級的分断と非階級的分断の関係

 階級概念の有効性を否定する議論のもう一つの主要な形態は、階級的な分断よりも非階級的分断の方が重要だとするものである。ウェスターガード氏によれば、これには大きく分けて二つの形態がある。第一は、人種や性などによる非階級的な分断を強調することによって階級の重要性を否定するもの、第二は、階級的な分断よりも、大多数の豊かな人々と孤立した少数の貧しい人々の間の分断、すなわち「諸階級」と「階級以下(under class)」の間の分断の方が重要であるとする「アンダークラス」理論である。
 このうち、アンダークラス理論に対するウェスターガード氏の批判は明快である。氏によればこの理論は、階級間の格差の拡大という事実に反するのみならず、貧困の構造的要因に目をつぶり、その責任を貧困者そのものに押し付けようとする危険な発想を含んでいる。「アンダークラス」と呼ばれうるような貧困層の拡大という事実をどう評価するかについて異論は残るかもしれないが、説得力のある回答である。
 これに対して第一の論点は、現代の階級理論における最大の難問の一つである。現代の社会科学は、まずフェミニストの問題提起によって、ついで民族問題の噴出という現実によって、いま大きな挑戦を受けているといっても過言ではない。階級理論もそれから自由ではありえない。この難問に適切に答えうるか否かは、階級理論が今後も有効性を保ちうるかどうかの大きな分かれ目でもある。
 講義の中でウェスターガード氏は、これらの問題について次のように述べている。まず人種の問題について氏は、「有色人種の少数派」は職業的にも文化的にも多様であり、単一のカテゴリーを形成しているとはいえないし、しかもイギリスにおいては全人口の五%を占めるに過ぎず、イギリスの階級構造全体に影響するものではない、という(四六頁)。確かにイギリスではそうなのかもしれないが、理論的な問題についてはまったく回答になっていない。次に性の問題については、「性による不平等は階級による不平等と相互に関係しあうのであって、一方が他方に取って代わるというものではない」(四五頁)、「両者は絡み合い、階級の影響力を強めるのであって、その逆ではない」(四三頁)と主張する。原則論としては理解できるとしても、やや明快さに欠ける回答である。
 より明確な回答が示されるのは、コメンターに対する応答においてである。この中で、氏は次のように主張している。「……性による不平等は階級的不平等と概念的に区別されるが、両者は「対称的」なものではない。むしろ、両者の間には一方向的な関係が実際に存在するのであって、性による不平等は(人種による不平等と同様)かなりの部分まで階級的不平等を通じて表現され、その逆ではない。実際、女性は、その男性への従属の多くの部分を(全部ではない)……階級の経済的秩序のなかの比較的低い立場に置かれることを通じて、体験する。」(一〇五頁)
 つまり人種と性は、人々がどの階級に所属するかを決定する要因なのである。少数派の有色人種や女性は労働者階級に所属することが多く、そのために経済的に不利な立場に置かれる。したがって人種や性は、階級にとって代わって不平等の源泉になるのではなく、階級構造の下においてのみ不平等の原因となる。この意味で、階級の方がより基本的な不平等の源泉なのだ、というのである。
 一方でウェスターガード氏は、社会関係や政治的動員を作り出す要因としての人種や性の独自の重要性を明確に認めている。これは、「即自的階級」と「対自的階級」の必然的な関連を否定する氏の理論的立場からは当然のことだろう。要するにウェスターガード氏は、経済的不平等についてはあくまでも階級要因の優位性を主張する一方で、社会関係の形成や政治的動員については、階級の重要性は認めながらも、性や人種などにも階級と同等の、「同じように大きな働き」(一一四頁)を認めるのである。マルクス主義理論に伝統的に見られる「階級還元主義」と、階級を単に経済的なカテゴリーとみなすウェーバー主義の間の微妙な稜線を行く、ひとつの理論的立場であることは確かだろう。
 ただし、この説明が事実と合致するのかとなると、疑問も多い。ライトとペローネによれば、確かに人種間の収入格差は同じ階級内部では小さいが、性による収入格差は同じ階級内部でもかなり大きい(5)。つまり性による不平等は、必ずしも階級的不平等を通じて表現されるわけではないのである。特に日本の場合、男女別賃金格差は欧米諸国に比べてはるかに大きく、しかもこの格差の半分以上が、勤続年数や学歴などをコントロールしても残る、いわば純粋な差別によるものであることが、『経済白書(平成二年版)』で明らかにされている(6)。同様のことは、多くの先進国にも共通している。こうした事実を見ると、性による所得の格差が階級所属によって説明されるとは考えにくい。
 これに対して階級による政党支持の違いは、以前より小さくなったとはいえ、依然として性による違いよりも大きいのが通例のようである(7)。こうしてみると階級は、経済的不平等に対して主要ではあるが限定された重要性をもっているのと同じ程度に、政治的動員に対しても主要ではあるが限定された重要性を持つ、と考えたほうが自然なのではないだろうか。もっともこの点は、これからの実証研究に待つ部分が大きい。

四 日本における階級研究の課題

 ウェスターガード氏はコメントへの応答の中で、日本における階級状況について二点ばかりの言及を行っている。
 一点目は、社会移動と階級的分断の関係についての質問に答えたものである。氏は、日本とイギリスを比較した場合、階級による政治的な分断はイギリスのほうが顕著だが、通念に反して社会移動の程度は両国とも同程度であると指摘する。そして他国の例も挙げながら、社会移動の程度と階級の政治的重要性の間に一義的な関係はないと結論づける(一一〇−一一二頁)。二点目は、階級概念の有効性を疑問視する質問に答えて、日本の「会社」について触れたものである。氏はあくまでも、階級の重要性を強調する。しかし日本では、大企業の独特の組織によって労働者が会社へ強固に結び付けられているため、左翼政党が階級を政治的動員の基盤にできないのではないか、というのである(一二八頁)。この二点に関連して、日本における階級研究の課題について私見を述べることにしたい。
 社会移動の国際比較に関するウェスターガード氏の上の指摘は、「産業化された社会では純粋移動(循環移動)の程度は等しい」という社会移動に関する仮説、いわゆる「FJH仮説」に関連したものである。この仮説は、多くの実証研究を通じて社会階層に関する研究者の間でほぼ定説となりつつあるが、あくまでも純粋移動に関する仮説であり、構造移動を含めた総移動量は各国によって異なるとされている点に注意する必要がある。
 戦後の日本では農民層分解が劇的に進み、構造移動量が高い水準を保ち続けた。こうした大量の構造移動の結果、一九八五年時点においてもブルーカラー労働者中の農民層出身者比率が三九・五%にも達している(8)。また農民層分解が進んだと言っても、そのかなりの部分は兼業化の形態をとったのであり、農業人口の急激な減少に対して農家戸数の方は相対的に減少幅が小さかった。そのため農民と労働者の間の階級横断的家族(cross-class family)が大量に生じ、これが保守政党の強力な支持基盤になったと考えうる証拠はいくつもある。このように急激な構造変動の局面での事実をもとに、階級と政治的分断の関係について結論づけるのは、やや早計というものであろう。
 ところが今日、日本社会は局面の移行期にある。農林水産省によると、基幹的な農業従事者の三分の一はすでに六五才以上に達しており、今後一〇年間に一〇〇万人が離農、農家戸数も一〇〇万戸程度減少するとみられる(9)。したがって近い将来、労働力供給源としての農家の意味はきわめて小さいものとなり、労働者階級は労働者世帯の出身者によって補充される傾向が強まることになるだろう。また兼業農家も減少し、階級所属の効果がより直接的に現われるようになることも予想される。こうして日本社会は、階級理論の有効性を本格的に検証できる段階に達することになるのかもしれない。
 また、訳者の渡辺氏も鋭く指摘しているところだが、近年注目されている「会社主義」や「企業社会」についての分析も、こうした階級構造の文脈を無視することはできないはずである。私には、経営者、新中間層、労働者階級のそれぞれが、同じメカニズムで会社に統合されているとは思えない。こうした差異を無視し、企業への社会統合のメカニズムを「会社主義」として神秘化する結果を避けるためにも、階級研究の必要性は大きい。
 ところが日本の階級研究は、やはり渡辺氏が指摘する通り、「全般的停滞状況」(一七一頁)にあると言わざるをえない。多くの社会科学者や著述家は、日本は階層間の流動が活発で、しかも階層間の格差や差異の少ない均質的な社会だとする仮説を、すでに証明された真実だと思い込んでいるのが現状である。「階級」という用語を使用しているというだけで、時代遅れの「マルクス主義者」「共産主義者」と目され、警戒される。何かの政治党派のメンバーではないかと疑われることすらある。日本では「階級」というコトバが、あまりにも政治的な重荷を背負ったものになってしまっているのである。
 ただしこのような事態に対して、階級理論の立場に立つ人々の側にまったく責任がなかったわけではあるまい。たとえば大橋隆憲編著の『日本の階級構成』は、依然として日本の階級研究に出発点を提供し続ける名著であるが、今日になって読んでみると、国家に対する単純な道具主義的把握や特定の政治戦略を前提とした用語法など、多くの読み手を辟易させるのに十分である。その後の研究の一部にも、階級研究の目的を「階級的労働組合運動」に置いたり、労働者階級の範囲の確定の問題を「実践において解決される問題」と片付けるなど、階級研究の過剰な政治化とでもいうべき状況があったことは否定できない。階級研究はその性格上、政治的立場との関連を完全には棄てきれないかもしれない。しかし社会科学としての普遍性を持つだけの最低限の「脱政治化」が、もっと早い時期に必要だったのではないだろうか。
 この点でウェスターガード氏の階級研究は、習うべき一つの模範と言えよう。その柔軟な理論的立場と、膨大なデータに基づく実証研究。日本の階級研究には、そのいずれもが欠けていた。この意味で、本書が日本語で刊行された意義は大きい。

[注]
(1)Duke,V. and Edgell,S.,The operationalization of class in British sociology,British Journal of Sociology,vol.38,1987,p.456.
(2)Duke,V. and Edgell,S.,ibid,p.448.
(3)Wright,E.O. and Perrone,L.,Marxist class categories and income inequality,American Sociological Review,vol.42,1977.
(4)橋本健二「現代日本の階級分析」『社会学評論』第37巻第2号,1986年.
(5)Wright,E.O. and Perrone,L.,ibid.
(6)Ross,P.A.,Gender and Work,State University of New York Press,1985.
(7)イギリスについては、Marshall,G.,Newby,H.,Rose,D. and Volger,C.,Social class in Modern Britain,Hutchinson,1988,chap.5を参照。
(8)1985年SSM調査データによる。
(9)『朝日新聞』1992年5月4日、および1994年4月20日。

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