高校入学者選抜における平等化と個性化

----教育機会と都市コミュニティ形成の視点から----

橋本 健二(静岡大学教養部助教授)

Equality and Diversity in Highschool Entrance Examinations
Kenji Hashimoto,Associate Prof. of Shizuoka University
はじめに
1.高校教育の社会的位置
2.総合選抜制度の意義
3.総合選抜制度の平等性
4.高校教育と都市コミュニティ
5.総合選抜制度への批判
6.高校教育の個性化と学校選択の自由


はじめに

 1994年度より東京都立高校の入学者選抜方法が、従来の総合選抜から単独選抜に変更された。とはいっても従来の都立高校の入学者選抜方法は、グループ合格者を成績順に志望校へ入学させる「グループ合同選抜」であり、一般にいう総合選抜とは大きく異なっていた。この方法が「総合選抜」の一種とされてきたのは、まず調査書と学力検査で合格定員内に入る成績を取った受験者をグループ合格者とし、その後で入学する高校を決定するということ、つまりグループ内では合格者(繰上げ合格を除く)より成績の良い不合格者が出ないという一点にほぼ限られる。この方法には学校間格差を是正する効果はほとんどなく、他の府県で行なわれている総合選抜とはその目的を異にしていたのである。
 したがって私には今回の変更が、隣接学区からの入学を認めたために学区が実質的に拡大し、ごく少数の都立超エリート校が出現するということ以上に、都立高校の入学者選抜がもつ教育的・社会的影響を大きく変化させるものであるとは思えない。しかし、現実的には可能性が小さかったとはいえ、合格者の各学校への配分方法の変更によって学校間格差を縮小する余地が残されていた従来の制度が廃止されたわけであり、一つの転換点であることは間違いない。


1.高校教育の社会的位置


 一般に中等教育は、教育体系のなかで最も難しい問題をはらんだ段階だといわれる。それは中等教育が、進学準備教育と完成教育の二つの機能を同時に果たさなければならないことに起因している(トロウ[1961=1980]、天野[1989])。そして高校進学率が96%にも達する日本の場合、こうした問題が起こるのはほぼ高等学校段階に限定されよう。つまり高校教育は、高等教育への準備教育を行なうとともに、進学しない卒業者を社会へ準備させる(完成教育)という、二重の機能を担うのである。
 高校教育のこの二つの側面は、日本社会の階層構造と不可分の関係にある。階層所属を決定する要因にはいくつかが考えられるが、少なくとも若い世代に関する限り、最大の要因は学歴である。そして今日、学歴は高卒と高等教育卒(専修学校専門課程卒を含む)にほぼ二分されている。したがって高校教育の二つの側面は、高校教育を受けた人々の階層所属と直接に対応することになる。しかし後述のように、高校卒業後に高等教育段階へ進学するかどうかは、どの高校に進学するかによって実質的に決まってしまうことが多い。したがって高校入試は、将来の階層所属を決定する試験なのである。
 それだけではない。大都市部では中学受験が一般化しつつあるが、大部分の子どもたちは依然として、中学までを地域の学校で過ごす。ところが高校進学を境に子どもたちは地域から断ち切られ、自宅から遠い高校の、学力や進路の別によって選別された同質の集団のなかに置かれる。地域社会の中でつちかわれた同年齢同士の社会関係は、この時点で寸断される。高校入試は、地域社会からの離脱の第一歩なのだ。学校五日制は子どもを家庭と地域に返すものだ、と言われた。しかし高校生たちは、家庭はともかくとして、地域社会には帰ってこない。すでに地域における社会関係を断ち切られているからだ。
 次のことを確認しておこう。高校への入学は、個人史における階層分化の第一の、しかも決定的な段階である。同時にそれは、地域社会からの離脱の第一段階でもある。高校入試が日本の社会で占める位置は、極めて重要である。このことが、日本の高校教育にきわめて重い圧力と矛盾を集中させる基礎である。


2.総合選抜制度の意義


 そもそも総合選抜制度の意義は、小学区の運用が困難な都市部において、高校間格差を減少させることができるというところにある。
 高校間格差を解消する最も強力な手段が、小学区制であることはいうまでもない。しかし小学区制にはいくつかの欠点がある。たとえば学区によって人口当り入学定員や合格ラインがまちまちになりやすい。また人口の地域間移動の激しい時期や15才人口の変動期には、学区の分割や統合、学区境界の変更などをひんぱんに行なう必要がある。とくに都市部では、この問題は深刻である。
 また、小学区制は住民と高校とを一義的に結びつけるものだから、コミュニティの単位として意味のある学区設定が必要とされよう。地域社会が高校を支え、高校は地域社会に貢献する。このような安定的な関係があってはじめて、学区による合格ラインの格差も正当化されることになる。実際、小学区が定着しているのは山間部や離島など地理的に完結した地域であることが多い。ところが大都市部では、高校と地域社会の間にこのような関係を考えにくい。
 さらに都市部の場合、小学区制は近接する高校の間にかなりの学校間格差をもたらす場合がある。その原因は、社会階層や学歴によるセグリゲーションである。生徒の成績は親の所属階層や学歴に大きく規定されるので、小学区制の下では、地域の社会的背景の違いから生ずる学校間格差を避けることができないのだ(注1)。合州国ではこうした地域的背景の違いに由来する公立学校間の格差が大きく、これが「学校選択の自由」論の主要な背景になっている(注2)。
 総合選抜制度は、こうした事情から小学区制を維持/支持しにくい大都市部において、学校間格差を縮小することを可能にする制度である。しかも小学区制とは異なり、多様で柔軟な運営が可能である。たとえば合格者の成績均等配分によって学校間格差を完全に解消することもできるし、居住地域優先配分によって小学区制に近づけることもできる。さらには希望校を配慮して自由な学校選択を部分的に認めることもできる。総合選抜制度は高校間格差の縮小とともに、さまざまな可能性をもつ制度なのである。


3.総合選抜制度の平等性


 それではなぜ、高校間格差を解消することが必要なのか。大きく分けて二つの理由がある。それは、第一に受験圧力によって中学教育が歪められるのを防ぐこと、第二に教育機会の平等化を図ることである。
 大・中学区−単独選抜の下では、必然的に大きな学校間格差が生じる。上位にはエリート校、下位にはいわゆる「底辺校」が形成される。こうした序列は、一度形成されると住民や教師、生徒たちの間の風評と受験産業の情報を通じて固定化される。ここから、より上位の高校への入学をめぐる競争が発生する。これが中学教育に多くの歪みをもたらすとともに、生徒たちに多大な精神的重圧を加える原因であることは、改めて繰り返すまでもなかろう。高校間格差の縮小は、こうした事態を根本的に改善するものである。
 一方、学校間格差の縮小は階層間の教育機会の格差の縮小につながる。それは次のような理由からである。
 序列化されたそれぞれの高校は、生徒に異なる教育経験を与える。進学校ではカリキュラムが進学向けに編成されているのみならず、進学を自明のこととみなす学校文化が形成されているから、生徒は自然に進学へのアスピレーションを高められる。これに対して非進学校は、カリキュラムが進学向けでないだけでなく、進学へのアスピレーションを高めるような学校文化に欠けている。このため入学時点での成績や進学意欲の違いは、3年間を通じて拡大されていく。つまり学校間格差は、生徒の分極化を促進するのである(注3)。こうしたことから日本の教育社会学者たちは、高校間格差は一種のトラッキング・システムだと指摘してきた(注4)。
 ここには深刻な問題がある。中学時の成績は親の出身階層と強く関連しているから、出身階層の高い生徒は上位の高校に、出身階層の低い生徒は下位の高校に集中する。そして前者は大学進学へのアスピレーションを高められ、後者は低められる。こうして教育機会の階層差は拡大されることになるのである。これは以前から指摘されていた問題である。たとえば1970年に来日したOECD教育調査団は、日本の普通高校の間に大きな格差があることを指摘しながら、「一般的にいって、生徒を将来の職業の目標あるいは知識の獲得能力によって、早い段階で区別するやり方は、社会階層を硬直化させ、しかもその階層間の社会的距離を広げる結果」になる、と述べた(OECD教育調査団[1976])。
 こうした危険のゆえにアメリカ合州国の一部では、「アントラッキング(untracking)」と呼ばれる施策がとられるようになってきている。合州国の公立ハイスクールは小学区制を原則としており、先述のような地域的背景による格差があるだけで、日本のような学校間格差などは存在しない。しかし、それぞれの学校の内部で生徒を学力によってグループ化し、各々に進学向け、就職向けなどの異なるカリキュラムを与える「トラッキング」と呼ばれる制度が導入されている場合がある。ところがこの場合、学力の低い生徒を対象としたコースには少数民族を中心とした貧困層の生徒が集中することが多く、結果的に差別を助長することになるという批判がある。こうした事態を防ぐために、トラッキングを解消しようというのである(Weelock[1992])。
 これに対して総合選抜制度は、さしあたっては普通科のみに限られるとはいえ、いわば学校間格差という形態での日本的トラッキングを解消するための、「アントラッキング」であるいえる。学校間格差を縮小すれば、教育機会の階層差を縮小できる。しかも成績均等配分によって、小学区制でも縮小できない階層差まで縮小できる可能性がある。このような意味で総合選抜制度は、社会的にも平等な制度なのである。総合選抜が平等な選抜方法だという意味を、単に各高校の学力レベルが等しくなるという意味に解してはならない。

4.高校教育と都市コミュニティ


 階層化された高校教育が若者たちを地域社会から離脱させるものであるという点については、すでに述べた。本来、ハイティーンから20代の時期が、地域社会への関心の薄れる時期であることは否定できないが、高校教育の構造がこれを助長していることもまた確かだろう。これは、今後の都市コミュニティ形成の観点からも大きな問題である。
 「東京人」というコトバがあるが、私にはこれが、地域社会から遊離した抽象的「都民」を象徴しているように思えてならない。「東京人」たちは、自分の住む町にはいっさい関わりをもたず、定期的に東京の他の地域、例えば月島や谷中に出かけることによって自分の住み家の周辺にない(あるいは求めようともしない)生活文化を呼吸し、そのことで疑似的に関係欲求を充足させているのではないか。つまり、コミュニティ的なるものへの欲求充足のための専門化された地域や制度が、東京には準備されているのである。生活上の必要を専門機関による専門処理によって充足するのが都市的生活様式であるとするならば(倉沢[1987])、これはまさに都市的生活様式の完成形態とでも言えよう。ここには都市コミュニティ形成の契機が失われている(注5)。
 生徒たちは、入試難易度に基づいて東京全域の高校から進学先を決めていく。希望が生かされるだけの学力に欠ける若者たちは、その後の空席に配当される。こうして高校生たちは、自宅から遠く離れた高校へ長時間をかけて通学することになる。クラスメイトの居住地はばらばらであり、交遊の場は高校周辺か都心に求められるほかない。その生活の空間構造は、成人男性と変わりがない。こうして生徒たちは「東京人」になる。このような教育の空間的構成から、都市コミュニティ形成の主体が生まれてくるとは考えにくい。

5.総合選抜制度への批判

 総合選抜制度に対しては根強い批判がある。その代表的な論点は、(1)受験競争がなく、自分の学力レベルに合った教育が受けられないため、生徒の学力が伸び悩み、進学実績が悪くなる、(2)学校選択の自由が奪われる、の二点である。それぞれについて検討しておこう。

(1) 総合選抜と進学実績

 総合選抜によって生徒の学力が低下するという証拠はない。むしろ総合選抜制度は進学実績を向上させる作用をもつことが、統計的に確かめられている(橋本[1992])。確かに、学校間格差がなくなると学校内の学力格差が拡大し、授業などに一定の困難が生じることは事実である。しかし、多くの高校では習熟度別学級編成や類型制(コース制)が導入されているため、こうした困難は一般に考えられているほど深刻なものではない。むしろ学校間格差がないために、進学と就職の間で揺れ動く学力中位層が進学の可能性を最後まで残すことができ、進学率は高まる傾向がある。確かに単独選抜の下では卓越した少数のエリート校が形成され、一流大学への進学者が増える場合もあるが、その恩恵を受けるのは少数であるうえ、効果自体も明確ではない(注6)。この意味で総合選抜制度は、平等性のみならず卓越性をも兼ね備えた制度だといってよい。したがって、この批判には妥当性を認めることができない。

(2) 「学校選択の自由」論について

 いわゆる「学校選択の自由」の主張には二つの類型がある。それは、a)単独選抜によって一元的に序列化された高校教育をモデルに「学校選択の自由」を主張するもの、b)高校教育の個性化・多様化の観点から学校選択の可能な入試制度が必要だとするもの、である。
 a)の主張は、これまで小学区制の解体や総合選抜制度の廃止などを進める上で大きな影響力をもってきたものであり、現在でも非常に根強い。しかし、この主張には重大な事実誤認がある。単独選抜の場合に学校選択の自由を有するのは成績上位の生徒たちだけであり、他の生徒たちはそれぞれの成績に応じて、進学できる高校を事実上強制されている。したがって単独選抜は、一般的に学校選択の自由を保障しているわけではない。また成績上位層が学校選択の自由を有するといっても、実際には自分の学力レベルをもとに、ほぼ一義的に志望校を選択しているのが現状だろう。進学先の高校名は生徒の能力や将来性の記号として社会的に定着しており、自分の学力レベル以下の高校へ進学することは大きな心理的コストを伴うからである。結局のところこの主張は、エリート高校を温存または作り出すための、また一部の生徒をエリート高校へ送り込むためのレトリックであるに過ぎないとみてよい。 これに対してb.の主張は難しい問題を含むので、節を改めて詳述しよう。

6.高校教育の個性化と学校選択の自由

 1992−93年に出された「高等学校教育の改善の推進に関する会議(以下、「改革推進会議」と略記)」の一連の報告、そしてこれを受けた1993年2月の文部次官通知は、高校教育の個性化とこれに応じた入学者選抜方法の多様化という方向を明確に打ち出した。その基本的な論理は、今後の高校教育は各高校が特色ある個性的な教育を展開するという方向で行なうべきである、そのために入学者選抜も多様な方法で行なわれることが必要である、その結果として偏差値偏重の受験競争の是正も期待できる、というものであった。大きな注目を浴びた業者テストの廃止も、この文脈で打ち出されている。同時に文部次官通知は、通学区域については「各高等学校に特色を持たせ、生徒の特性に応じた学校選択が可能となるような方向で検討する必要がある」と、間接的表現ながら大・中学区−単独選抜が好ましいとの判断を示した。
 この主張は一見もっともだが、いくつかの問題を指摘しておく必要がある。
 一般的に言って、生徒の特性に応じた高校教育が必要であるという点に異論はない。しかしこれを目的として認めることと、その方法として高校を個性化するということは同じではない。むしろ高校の個性化は、この目的に反する可能性がある。他の高校と違う特化したカリキュラムを採用し、これに対応した「個性的」な入学者選抜を行うとすれば、学校の内部は特定の「個性」の持ち主が集中されて画一化が進み、生徒たちは特定の「個性」の発揮を強制されることになる。さらに入学者選抜の多様化に対応して受験準備が早期化し、中学2年生の時点で最終的な進路決定を迫られることも予想される。生徒の進路決定時期が早期化し、しかも変更が困難になるのである。
 また「改革推進会議」は楽観的だが、高校間に序列化されない個性を作り出すことは、現状ではきわめて困難だといわざるを得まい。その原因は、高校教育の入口と出口の両方にある。一方では親や生徒、そして進学指導にあたる中学側が、入試難易度と合格可能性を中心に受験する学校を決定する。他方で企業は、専門分化した知識や技術よりも学歴・学校歴に示される(とされる)一般的な知的能力や訓練可能性によって就職希望者を判断し、採用する。ここに高校教育の「個性」が評価される余地はない。
 つまり高校の「個性化」では、生徒の特性に応じた教育という目的は達成できないし、一元的な序列もなくならない。むしろ進路決定時期が早期化し、進路選択の自由が奪われる。もっとも可能性の高い帰結は、現行の普通科が理系中心のエリート校、私立文系中心の中位校、就職中心の下位校=総合学科などのように、序列化の実態に合わせて細分化することだろう。こうなれば現在の普通科のかかえる矛盾の一部は解消するかもしれないが、序列は完全に固定化する。これは、「改革推進会議」の報告が否定した事態に他ならない。
 高校間に序列を作らず、しかも生徒の特性に応じた教育を提供できる制度的枠組みとしては、当面、小学区または総合選抜と、総合制(総合選択制)高校の組み合わせしか考えられない。一部の特色ある(逆にいえば需要の少ない)職業科の扱いや、不登校の経験者の進学先など、別途に検討すべき問題はあるが、公立高校の基幹的な部分としてはこれで十分なはずである。この場合、学校に地域の経済的・社会的特性や住民のコミュニティ意識を背景としたもの以外の個性は作りにくいが、学校の内部は多様になる。つまり内部に多様なカリキュラムを準備して多様な生徒たちを受入れ、進学と就職の双方を含む多様な要求、多様な進路選択に対応する方法である。「改革推進会議」は、なぜこうした方法を取ろうとしなかったのか。いや、そもそも検討したのだろうか。
 「学校選択の自由」「高校の個性化」という主張は、今や逆らいがたい錦の御旗となったかのようである。最近では、文部省に真っ向から対立する立場にあると思われた教育学者たちの間からも、学校選択の自由や高校の個性化を前提とした議論が続出している。
 例えば乾彰夫氏は、市場原理的学校間競争を通じて日本の父母たちには「学校選択」という行為が浸透定着しており、選択権の停止を伴う制度改革は非常に困難であるから、選択意欲を組織化する「選択の協同化」が望ましい、という(乾[1993a])。また児美川孝一郎氏は、教育運動に求められるのは、競争主義的秩序とは異なる多元的なライフスタイルを作り出すことであるが、これは競争の制度的規制によって作り出されるものではないとして、入試制度改革によって競争を回避しようとする主張を批判している(児美川[1993])。
 両氏の主張には共感できる部分も多い。ただ問題は、「選択の協同化」や「競争的秩序とは異なるライフスタイル」を実現するための組織論や、これらが可能になるための制度的・社会的前提についての検討が欠如しているという点である。これらの検討ぬきに、競争の制度的規制(小学区、総合選抜)を否定するのは、無責任のそしりを免れないのではないか。また両氏は、各階級が文化的にも労働市場における位置の点でも明確に区別される西欧的な階級社会を、競争的秩序を克服する方向として想定しているようにも思える(特に乾[1993b])。確かにこうなれば、制度的な規制がなくても競争は弱まるだろう。しかしこの主張は、第一に階級間の障壁と格差の強化を招くという点で、第二に社会構造は他の国に移植可能であると想定する点で、承服しがたい。
 もちろん私は、序列化されない個性をもった高校が多数生まれ、編転入の自由をも含めた「学校選択の自由」が、生徒の特性に合った教育を保障する方法として成立する可能性を、全面的に否定するつもりはない。しかし、そのためにはさまざまな制度的・社会的前提が必要である。詳述する余裕はないが、たとえば大学入試制度と大学教育、それに雇用慣行と労働市場の構造が基本的に変化することが必要とされよう。
 こうした長期的な展望について議論しておくことは必要である。しかし現時点で求められるのは、さしあたって可能な運動と政策的手段によって実現できるオール・オア・ナッシングではない解決法を探るとともに、その影響を冷静に評価するという「政策的思考」ではないだろうか。


[注]

(1)小学区とは異なるが、「地元集中受験」の運動を進めている大阪府枚方市でも、やはり地域的背景による学校間格差の発生が指摘されている(金[1989:210]) 。
(2)昨年、東京23区の公立中学を学力でA−Eの五段階に分けた「格付け表」が出回っていることが明るみに出たが、ある塾ではこれを、23区内に転居予定の生徒の学校選びの資料として使用していたという(『朝日新聞』1993年9月20 日)。公立中学のランク付けは、地域自体のランク付けなのである。
(3)この問題について詳しくは、岩木・耳塚編[1983]、菊地[1986]などを参照 されたい。
(4)藤田[1980]、耳塚[1985]などを参照。
(5)ここで私が前提としているのは、まずもって親交的コミュニティが形成された後に、これが自治的コミュニティに発展するという仮説である。これについては園部[1984]のような批判もある。この問題については、橋本[1993]を参照されたい。
(6)橋本[1992]を参照。同様の問題を扱ったものに、吉本[1984]がある。

[文献]

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論文一覧