高等教育の大衆化時代における学力問題

(『教育評論』1999年9月号所収)

橋本健二(静岡大学助教授)


 最近、大学生の学力が低下しているといわれる。そのこと自体は、私も事実だと思う。しかし、この「学力低下」と呼ばれる現象にはいくつかの側面があり、論者によってその主張が大きく異なっている。少なくとも、次の三つの主張を区別する必要があろう。

大学教育の大衆化による平均学力低下

 第一の主張は、大学教育の大衆化による平均学力の低下という、最も基本的な問題を指摘するものである。日本の大学進学率(短期大学を含む・現役浪人込み)は、第二次ベビーブーム世代が通過した一九九〇年から急上昇を始めた。一九九〇年の三六・三%に対して、一九九八年は四七・六%、一九九九年の数字は近く公表されるが、おそらく四八%を越えただろう。これだけ進学率が急上昇すれば、かつては学力的に大学進学できなかった層の若者たちまでが進学してくるわけだから、平均学力の低下は避けられない。高校進学率が急上昇した一九六〇年代、高校教員たちは高校生の「学力低下」に直面したはずだが、これと同じ質の問題である。大学の学生定員を大幅に削減しない以上、こうなるのはずっと以前から分かっていた。それでもなお、文部省は大学進学率が上昇するのを拒まない姿勢をとったのであり、これに対して世論は、暗黙の支持を与えていたと思う。したがって、この意味での「学力低下」は当然の帰結ともいうべきもので、「問題」と呼ぶには値しない。大学は、門戸を広げてより広い範囲の学生たちを受け入れるという新しい使命を担うことになったわけで、これに対する対応が当然のこととして求められているのである。

大学入試多様化の帰結としての学力低下

 第二の主張は、大学入試多様化の帰結としての学力低下を指摘するものである。今日の日本の大学入試制度では、各大学が出題教科・科目を決定する権限をもっている。大学入試が高校教育に強い影響を及ぼすのはこのためだが、一九八〇年代以降は、受験生の数を確保することを目的として、受験すべき教科・科目の数を少なくする傾向が強まった。しかも大学審議会がこれを追認、むしろ奨励したことから、一九九〇年代にはさらに教科・科目数の削減が進んだ。生物を学んでいない医学部生、物理を学んでいない工学部生、数学を学んでいない経済学部生などが出てくるのは、このためである。
 この二番目の意味での「学力低下」は、絶対的な意味での学力低下というよりは、むしろ学力の偏りや専攻分野との不適合を示すものであり、しかも大学入試制度が直接に関わる問題なので、対策は立てやすい。大学入試制度が抜本的に改善されれば、この意味での学力低下の克服は可能だろう。この点については、最後の部分でもう一度ふれることにしたい。

受験競争緩和を目指す教育改革が原因?

 さて第三の主張だが、これは一部の研究者が最近、マスコミで活発に発言しているものである。それによると、学校五日制の実施と学習指導要領の改訂による教育内容のスリム化などの教育改革と、少子化と大学入試多様化による受験競争の緩和の結果、全般的な学力の低下が生じており、この学力低下は日本社会の将来を危うくするものだ、という。したがって結論的には、受験競争の緩和とゆとりの実現を目指してきた近年の教育改革は、基本的に見直す必要があるということになる。
 こうした主張を活発に繰り広げているのが、気鋭の教育社会学者であり、私の古くからの友人でもある苅谷剛彦氏である。氏が執筆したり、あるいはインタビューに応じて構成された記事は数多いが、その中でも体系的もしくは特徴的に論点が提示されていると思われるのは、「大学受験のプレッシャーはどう変わった」(朝日夕刊・一月一一日)、「苅谷剛彦さんと考える 教育システム」(読売夕刊・四月二日)、「日本の教育スリム化政策は世界の流れに逆行している」(週刊ダイヤモンド・四月一〇日号)、「進む基礎学力の地盤沈下」(朝日夕刊・五月一二日)、「21世紀の国民生活に影響か」(朝日・五月二四日)である。これらに示された氏の見解は、次のようなものである。
 (1)大学入学者の学力は低下している。その証拠として、氏は高校生の学校外での平均勉強時間が、一九七九年の九七分から、一九九七年の七二分へと大幅に低下していること、東大文系の学生に、鎌倉幕府の成立と滅亡の年を知らない学生が三分の一いたことを挙げる。そして氏によると、これは受験競争のプレッシャーが弱まったことによる、全般的な学力低下を示すものである。
 (2)こうした学力低下は、学力の格差の拡大を伴っている。氏はその証拠として、親の所属階層による子どもの勉強時間の違いが拡大していることを挙げる。氏はこのことが、教育機会の階層差の拡大、ひいては社会の不平等の拡大をもたらす、とする。
 (3)こうした学力低下は、今後さらに深刻になる。それは、二〇〇二年度からの新学習指導要領によってさらに授業時間数が減少すること、また少子化で大学受験が楽になることによるものである。そして、学力低下は次の世代の教員の学力低下を招き、その結果、学力低下はとどまることを知らずに進行していく。これを氏は、「学力のデフレスパイラル」と呼ぶ。これによって国民全体の知的水準が低下すると、税収や社会保障を含めた国民生活全体の問題になる。
 (4)こうした事態をもたらしたのは、受験教育批判を繰り広げてきたマスコミや日教組と、これに動かされて知識の詰め込みを一方的に批判し、基礎学力の低下につながるような政策を取った文部省である。

教育機会の不平等が生じる原因はそもそも何なのか

 苅谷氏の主張には多くの問題がある。ここではとりあえず、次の四点を指摘しておきたい。
 第一に、氏の言う「学力」は、いわゆる「受験学力」に限りなく近いのではないかと思われることである。そのことは、氏が挙げた例に典型的に示されている。なぜ、「鎌倉幕府の成立と滅亡」なのか。なぜ「ファシズムの社会的背景」や「平和憲法の意義」ではないのか。おそらくそれは、苅谷氏が覚えていたからだろう。鎌倉幕府の成立(一一九二年)と滅亡(一三三三年)といえば、受験日本史の語呂合わせでも最高傑作の一つともいうべき「いい国作ろう」「一散に逃げて散々」である。おそらく、元東大受験生である苅谷氏の頭の中には、この年号がしっかりと刻み込まれていたに違いない。この一件をとっても、苅谷氏の言う「学力」なるものが、「受験学力」と密接な関係にあることは明白である。じっさい氏は、「今まで日本社会の屋台骨を支えてきた基礎学力は、よくも悪くも受験競争によって培われてきた」と主張している。
 第二に、問題の一部のみの誇張や単純化が多すぎる。先に見たように氏は、勉強時間の格差が拡大していることを根拠に、受験競争の緩和が教育機会の不平等を拡大する、という。しかし、教育機会の不平等が生じるそもそもの原因は何なのか。それはまず、所得の格差すなわち学費の負担能力の違いであり、家庭環境や地域特性の違いである。さらに、生徒を早い段階で就職コースと進学コースに分けてしまう、高校教育の学科区分と格差構造が、不平等を拡大する。これが基本の問題である。たとえ受験競争の緩和が教育機会の不平等につながるとしても、それはあくまでも副次的な問題に過ぎない。教育社会学者である苅谷氏に、こんなことが分からないはずはない。じっさい苅谷氏は、自らの「高等学校の階層構造と教育選抜のメカニズム」(『高等教育研究紀要』第四号)という論文で、高校間の格差構造と国公立−私立という大学間の階層性が、マニュアル労働者世帯出身生徒の進学機会を閉ざしていると指摘している。
 にもかかわらず、受験競争の緩和や「ゆとり」を目指した指導要領の改訂ばかりを取り上げて批判するところに、世間の耳目を引くような論点ばかりを強調しようという、苅谷氏のマスコミに対する媚びが感じられる。こういうのを、古い言葉で「曲学阿世」という。いや、もっと悪いかもしれない。私の知る限り、今のところ苅谷氏は、この所説をきちんとした学術論文にはまとめていない。それは、もともとは優秀な研究者である彼が、この議論にはさまざまな飛躍や欠陥があり、まともな学術研究とはなり得ないことを知っているからだろう。学術論文には書けないようなことを、大衆向けには声高に叫ぶ。これは大衆蔑視、でなければデマゴギーに他ならない。
 第三に、「学力のデフレスパイラル」という主張は受け入れることができない。氏はそもそも、デフレーション、デフレスパイラルという語の意味をご存じなのだろうか。デフレーションとは物価下落のことであり、デフレスパイラルとは物価下落が投資条件を悪化させて需要を減少させ、さらなる物価下落を生み出す循環過程のことをいう。好意的に解釈すれば、苅谷氏は生徒の学力低下を物価下落に、教員の学力低下を投資条件の悪化にたとえたのだろう。しかし、両者はまったく質の異なる問題である。物価下落は資産ストック全体に影響するから、経済全体にかかわる問題となる。これに対して教員の学力低下は、仮に起こったとしてもフローの部分、すなわち新規採用教員の部分にしか起こらないから、その影響は局所的なものにとどまるのである。
 しかも周知の通り、近年は教員採用数が激減しており、教員採用試験は超難関となっている。その上、教員資格全体が短大卒から四大卒へ、四大卒から大学院修士修了へとシフトしており、この趨勢は教育職員養成審議会でも確認されて、既定方針となっている。仮に大学生の学力低下が進んだとしても、新規採用教員の学力が継続的に低下するなどということは考えられない。
 第四に、氏の議論には明らかな矛盾がある。先に見たように苅谷氏は、日教組の受験教育批判を、受験競争の緩和と学力低下の原因の一つに挙げている。しかし氏は、『大衆教育社会のゆくえ』(中央公論社)という著書で、日教組は教育における平等を主張することによって、競争条件の平等化をもたらし、受験競争を拡大させる結果を生んだと主張している。どちらが氏の主張なのか。氏の矛盾した態度には、教育に関する問題は何でも日教組のせいにしておけば済むという、かつての自民党文教族を思わせるものがある。

研究中心から教育中心の大学への転換を

 結論を述べたい。大学生の学力低下は、事実である。そして、その主要な原因は、第一に大学教育の大衆化、第二に現行の大学入試制度である。これが基本の問題であり、枝葉末節を誇張する主張に惑わされる必要はない。
 前者による学力低下は、大学改革を要求するものである。つまり、研究中心の大学から、教育中心の大学への転換である。日本の大学教員は、世界的にみても研究志向が強く、学生の要求に十分こたえていないという指摘は数多い。改革のためには、教員の意識改革とともに、大学教員養成システムの確立と教員定数の大幅増が求められる。
 後者の問題は、大学入試制度の抜本的改革を要求するものである。現在の大学入試制度は、個別の大学に出題教科・科目の決定権を与えているため、高校教育に深刻な影響を及ぼすばかりか、高校までの学修と大学での専門のミスマッチを生じさせている。これにかわる新しい大学入試制度として、日教組は従来から、大学入学資格試験の導入を主張しており、その具体的なかたちについては、日教組大学・高校改革プロジェクトチーム『教育再生へのステップ』で提案されている。日教組が、大学入試制度改革を切り口としながら、教育制度全体の改革にリーダーシップを発揮することを期待したい。

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