剣山・室戸岬 (98/1/17)


東京は大雪、松山は大雨が続いた合間にのぞいた晴れ間を狙って
室戸岬を目指しました。大学時代の7年前に自転車で走った
コースの一部、徳島吉野川中流の脇町あたりから剣山を経由して、
室戸岬に向かうルートです。




加茂の大クスの下で


田んぼの中心に巨大な陰をつくる大木


 阿波の土柱


 まだ夜も明けぬ早朝6時半、松山を出発して桜三里を経由して国道11号で川之江へ。そこからは国道192号へ入ります。境目峠を越えて徳島県に入ると、まもなく母なる大河「吉野川」に併走して走るようになります。吉野川はとにかく大きい川です。対岸の人は米粒のように小さくみえます。この様に川幅の広い吉野川にも四万十川同様「沈下橋」は存在します。流れのよい192号を東へ向かうとやがて道は加茂町に入ります。ここには、日本一大きいクスの大木があります。田んぼの中に一本だけ立っているのでよけいに巨大さが引き立ちます。 
 今回のルートは大学の時に自転車で四国一周をした時のコースをもう一度たどってみることが目的でした。当時、高松を出発して鳴門経由で192号を逆に走ってきた私達は阿波の土柱を見た後、剣山のふもとの「ふいご温泉」に宿をとりました。つまり、土柱のある脇町からがあの時と同じルートなのです。


 

剣山は雪が残り、轍に沿って走る。この後、路面は凍結した。


 192号から南へ一気に1000mを登る193号に入り、倉羅峠を目指しました。一つ一つのコーナーがフラッシュバックの様に当時の記憶を呼びさまします。1.5車線の続く道は3月だった当時と違い、次第に雪が現れだしました。轍が現れているので倉羅峠はなんとか越えることができました。しかし、あの時はよくもこんな道を自転車で登ったものだと思います。上分村まで下り、再び1400mの峠である土須峠を目指します。川沿いをしばらく走る道は快走であったのですが、つづら折れの続く道を登るとやがてまた雪が現れ始めました。対向車はまったくなく、そのまま走ると雪は轍にも残り始めました。路面が真っ白になり、気づくとタイヤがスリップして前にも後ろにも進まなくなってしまっていました。しかし、あの時は宿で作ってもらったおにぎり3つだけでよくこんな峠を登ったものだと思います。同行者がテントをもったまま別ルートに行ったので、もし途中でハンガーノックかメカニカルトラブルがあったら、大変なことになっていたかもしれません。などとぼんやり考えていつつ、今の事態を回避することの方が重大な問題でした。とにかく2速にいれても回転は上がれど、タイヤは空転するばかり、1.5車線だったので切り返しが出来ると思ってハンドルを切ると、さらに事態は悪化しました。ホイールベースの小さい A112 は、凍結した轍に乗って横滑りしながら坂を滑り落ち始めました。しかし、横に残った新雪にのってわずかにきっかけをつかんでスピンターンをかけると、偶然にもうまく下にノーズを向けることができ、無事脱出することが出来ました。


撤退


室戸岬へ続く東海岸線は車の少ない快走ルートである。


 

室戸岬は7年前と同じく雨だった。


 

さいはての札所、最御崎寺と台風銀座の室戸の街を眼下に。国道55号が見える。


 四国の山を甘くみていた私はあえなく撤退。上分村まで戻り、正午、439号を東海岸にルートを変更しました。徳島市の南の小松島市に出て、今度は55号線で室戸岬を目指します。阿南市までは交通量の多いバイパスです。さらに南下すると、7年前に峠越えしてきたルートと合流する日和佐市に着きました。ここからはかつて通った道、早送りのように風景が流れていきます。海南町からは海岸線に沿ってひた走ります。交通量の少ない東海岸は風景も豪快で美しく、とてもいい道です。室戸岬に近づくと、とうとうが降り出しました。かつて来た時も雨が降っていました。今回は素晴らしい風景が見れると思っていたのに残念でした。でも、再び来る目的がこれで出来たのかもしれません...


1世紀もの間、田園に時を刻んでいる安芸のシンボル「野良時計」。


 西海岸は交通量が多かったのですが流れは速く、やがて岬の根元の安芸市に入りました。当時と同じく野良時計に行きましたが7年間の月日はそこを観光スポットに変えてしまっていました。周りの風景は変わっていましたが、時計自体はあいかわらず時を刻んでいました。すでに時刻は5時をまわっており、高知へ着くと日が落ちてしまいました。次の日は雨の予報だったので、松山へ帰ることにしましたが、33号は凍結している恐れがあるので、高速を使って松山まで戻りました。7時半帰宅。全行程630kmでした。