週報バックナンバー 2003年


週報(2003年12月28日)

   二〇〇三年を振りかえって
                                              朝位真士
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」使徒一六・三一
 元旦礼拝から「家族の救い」というテーマでスタートしました。今年一月五日の週報に「今年の方向性」とい
う事で、「家族の救い」を掲げ、五月二五日のチャペル・コンサート(岸義紘先生、テナーサックス演奏、メッ
セージ)、一二月一四日クリスマス・チャペル・コンサート(ボーマン師のチェロ演奏、メッセージ)、一二月
二四日のクリスマス・イヴ集会(相良おり絵さんのヴァイオリン演奏)等に、友人、知人、家族をお誘いできた
と思います。また一一月二日(日)午後からのバザーには、教会学絞の御家族が大勢来られ、売り上げに協力して
下さいました。勿論、教会員の方々の協力体制は言うまでもありませんが。
 「あなたの神、主が御心にかけ、年の初めから終わりまで、常に目を注いでおられる」(申命記一一・一二)
にある様に、本当に神様は不思議に霊的な面においても物質的な面においても助けて下さったと思います。それ
には、具体的に実務を担当して下さる役員を始め「各会のメンバーの方々の協力が大であったと思います。私は
先日の祈祷会でこの会堂が建設される時の一九九五年一二月二五日の旧東海銀行銀座支店での出来事について語
らせて傾きましたが、本当にあの素晴らしい事がなければ、今日、会堂の建設はなかったのではないかと思いま
す。桜ヶ丘教会八〇年の歴史の中で、様々な困難や筈難の場面を経験していると思いますが、故小原十三司師の
愛唱句「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるよ
うにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ八・二八)とあるように、万事を益として下さる神を
信じて進んでまいりましょう。二〇〇四年に神の栄光あれ!!

週報(2003年12月21日)

   クリスマスを迎えて
                                              朝位真士
 アドヴェント・クランツに四本日のローソクがつけられました。二〇〇三年のクリスマスおめでとうございま
す。                      −
 私は一九六一(昭和三六)年一二月二四日、日本キリスト教団北九州復興教会故山中日出刀牧師より受洗しまし
た。当時、私は高校三年生で、マンドリンクラブに入部していました。友人の紹介で、高三の夏、中高生の特別
礼拝で、初めて教会へ導かれました。その時の牧師先生の話は忘れましたが、ヨハネ三章一六節「神はそのひと
り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得る
ためである。」の御言葉が心に残り、その年のクリスマスに洗礼を受けました。洗礼を受ける前の日記帳を見る
と、悔い改めの涙と、受洗する尊びの感謝の気持ちで、日記帳が濡れていた事を想い出します。あれから四二年
が経過しました。今、神様の導きで、東京の桜ヶ丘教会で御奉仕させて頂いている事は、本当に不思議な御摂理
だと思います。現在は月一回、教誨師として愛光女子学園の少年院にて、一四〜一九歳迄の少女達にイエス・キ
リストの福音を伝えさせて頂いています。現在六〇余名収容されていますが、約三分の二の少女達がイエス・キ
リストの福音を聞いています。私は、若い頃からボランティアをよくやっていました。高校時代は孤児院を慰問
したり、社会人になって、盲児施設にて楽器(マンドリン)を教えたりしました。今また、女子少年院でボランテ
ィアをしていますが、イエス・キリストを伝える機会が与えられている、その原点は、一八歳のクリスマスに受
洗したあの日です。
 クリスマスを迎えて、一人でも多くの方々がイエス・キリストの福音にふれて項きたいと祈る今頃であります。

週報(2003年12月14日)

   クリスマス・チャペルコンサート

                                              朝位真士
 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ一〇・一〇)
 今年も第五回目になるクリスマス・チャペルコンサートを、ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えして当教会で
行えることを心から感謝申し上げます。今年のメッセージは「豊かな命」と題して、ペアンテ・ボーマン先生が
取り次いでくださり、通訳はルリ子先生です。ペアンテ・ボーマン先生(東京交響楽団首席チェロ奏者、神学博
士、伝道者)は、一九五一スウェーデンで誕生され、一二三歳からチェロを始められ、王立音楽大学卒業後、西
ドイツのフォルクバンク音楽大学院、ヘルシンキ市のシベリウス・アカデミー大学院で学ばれ、一九八〇年に首
席チェロ奏者として東京交響楽団に入団されました。また先生はフィンランドで聖書を学び、神学校にて旧約釈
義を教えておられる神学博士でもあります。通訳と伴奏をしてくださるルリ子先生は、武蔵野音楽大学ピアノ科
卒業後、西ドイツの国立フォルクバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれた、明るく
て、気さくで、大変活動的な方でいらっしゃいます。
 先生方をお迎えして一九九九年一二月一九日(日)に第一回のクリスマス・チャペルコンサートを開催してはや
五回目を迎えると申しましたが、本当に先生方は超多忙で、日本全国各地、北海道から九州、沖縄まで、福音の
ためなら手弁当で行かれる、まさしく神の福音と音楽の使者です。先日、私の友人牧師が先生方の演奏とメッセ
ージを聞いて、地元の新聞に大々的に報道された様です。多くの方々が、先生方の素晴らしい音楽とメッセージ
に心あたたまる思いがされていることでしよう。私共の教会も、今年は今年として、新たな思いをもって先生の
チェロ演奏とメッセージに心を傾けましよう。栄光を主に帰しつつ!!

週報(2003年12月7日)

   アドヴェント第二聖日を迎えて
                                              朝位真士
 アドヴエントの最初の日曜日に一つめのキャンドルに灯をともし、続く三回の日曜日ごとに一本ずつ灯をとも
していきます。四本のキャンドルは、アドヴェントのそれぞれの週の意味を象徴しています。
 第一週「約束のキャンドル」−アブラハム、イサク、そして他のイスラエルの人々への神の約束を表します。
彼らの子孫を通して、すべての人々がその日祝福されるのです。
 第二週「預言者のキャンドル」−偉大なる大祭司であり、預言者であり、王であられる来るべき救い主を預言
したイスラエルの預言者たちを表します。
 第三週「バプテスマのヨハネのキャンドル」−イスラエルの民に救い主がじきに来られると告げたバプテスマ
のヨハネを象徴しています。
 第四適「マリヤのキャンドル」−「救い主が生まれる」と天の御使いが告げたよき知らせをマリヤが信じて喜
んだことを思い起こさせてくれます。
 クリスマス当日「キリストのキャンドル」−イエス・キリストが世の光であることを表します。(ジョン・フ
ァラー著より)
 私は、先週吉川教会の礼拝の御用に参加しました。大雨の中ですが、四〇〜五〇名の方々が出席されていた様
です。西海静雄牧師入院の中、満希子先生を中心に教会員の方々が一生懸命教会を守って、教勢も財政も落とさ
ず、むしろ凡てが祝福されている様です。「御言葉アンサンブル」の本も、順調な売れ行きで、初版千冊はまも
なく売れ切れという状態です。桜ヶ丘教会も三六冊購入させて頂き、前任牧師の御本に感動をもって拝見させて
頂きました。先生の健康も段々と回復され、クリスマス頃には一時退院という報告も満希子先生より伺いました。
神は信じる者の祈りに答えてくださいました。ハレルヤ!!

週報(2003年11月30日)

   待降節 (アドヴェント) を迎えて
                                             朝位真士
 今年もアドヴェントを迎える時となり、今日はアドヴェント第一主日です。このアドヴェントとは来臨、ラテ
ン語で「来る」という意味で、イエス・キリストがこの世に来臨した意味を思い巡らしながら、救い主の降誕を
祝うクリスマスに備える期間となっています。アドヴェントは一一月三〇日に一番近い日曜日から始まり、その
年のクリスマスが何曜日になるかによって、二二日間から二八日間になります。
 アドヴェントは、主イエスの受肉された降誕を迎える心の準備をするとともに、再臨の準備の時ともされてい
ます。フランス・スペイン地方の教会で、クリスマスに洗礼を受ける準備の期間を四〇日間として守ったのです
が、後にローマ教会がこれを取り入れ、クリスマスを迎える準備の時とし、一一月三〇日に最も近い主日から始
まるものとされ、降誕節四週間前の日曜日から救い主を待ち望むよう守られております。アドヴェント・クラン
ツにローソクが四本立てられますが、このローソクにクリスマスの四週間前の日曜日から点灯していきます。
 一人の老姉から電話があったことを記します。その方は以前奉仕していた教会の役員の奥様で、先日御主人が
九六歳で召天された、九三歳の方です。私共が未だ新任伝道者として奉仕していた時に、物心両面を援助して下
さり、家庭集会を開いて下さり、御夫妻で礼拝は勿論、祈祷会、夕拝にも積極的に協力援助して下さり、今日の
北九州復興教会の基磋を築いて下さった方です。今日私共が奉仕させて頂けるのは、この様な陰の協力者の祈り
と支援によって支えられているからです。九三歳でもなお教会、牧師、伝道師、会員の方のために祈って下さる
信仰の勇者に感謝をささげたい。神に栄光を帰しつつ、アーメン。

週報(2003年11月23日)

  収穫感謝日を迎えて
                                              朝位真士
「あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取
り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。」(出二三・一六)
 この祭りは、ユダヤ暦七月一五日(秋分の日に近い満月)から一週間守られました(申命一六章、レビ二三章)。
これはヘブル人の年末、即ち秋の収穫を終わって守られるものでした。春の小麦の収穫、七週の祝いとともに、
神への感謝の祭りでした。日本では国民の祝日である「勤労感謝の日」(一一月二三日)が、「勤労を尊び、生産
を祝い、国民たがいに感謝し合う」として一九四七年に定められました。第二次世界大戦前に、この日を「新嘗
祭」と呼び、皇室祭礼の行事の日でした。秋の収穫の時期、アメリカで清教徒が一一月第四木曜日に収穫感謝祭
を守った日に合わせて、勤労感謝の日に近い一一月第四主日に、収穫感謝祭を守るようになりました。教会では
この日に、果実その他の収穫された物を持ちより、愛餐の時をもっております。
 又別の角度からこの「サンクスギビングデー」「収穫感謝祭」を学んでみますと、一六二〇年九月六日、イギ
リスのサザンプトンから一〇二名を乗せたわずか一八〇トンの小さな帆船メイフラワー号が出発、アメリカに向
かい三ヶ月かけて一一月にボストン郊外のプリマスに着いた時、秋にはささやかな最初の収穫を得ることができ
ました。彼らはその収穫をたずさえて教会に集まり、神に感謝し、先住民の人々と礼拝と食事の喜びを共にした
と伝えられています。これがアメリカ人が今も最も大切な祝日として家族が集まって祝っている「サンクスギビ
ングデー」(収穫感謝祭)の起こりです。私達は、この日だけ神に感謝するのではなく、毎日毎日真の神に感謝の
思いを持ち続けたいものであります。

週報(2003年11月16日)

   ホ群信徒・教職共同セミナーに参加して
                                            朝位真士
 私共は一一月一〇日〜一二日迄、表記のセミナーに参加した。主題「ホ群教会の信仰と教会形成」〜教師の招
聘と辞任をめぐって〜というテーマのもとに開催された。今回の「教師の招聘と辞任をめぐって」については、
具体約な実際の手続きのことも含まれるが、その根底には、教会論(自分たちの教会は何を大切にしていくか、
どのような教会形成をしていくか)と教師論(教師自身の召命、献身、主に仕え教会に仕える働き)という大切
な事柄がある。ブログラムは一日目、開会礼拝、説教久多良木師、主題講演T、吉仲師、「ホ群教会とは」とい
うテーマで「教会形成」と「教会成長」との内容で、教会史的視点から語られた。講演U、八束師、「ホ群教会
の信仰と教会形成」、教師の招聘と辞任を巡ってという副題で、聖書、使徒二〇章一七〜三五節を通して、「教
師の辞任及び招聘にあたり、教師と教会については次の二つの点が大切である。@信仰的、神学的な面で整えら
れること。A実際面での備え。教師とは、主に仕え福音を証ししキリストのからだである教会を信徒と共に立て
挙げるために召された者。具体的には、福音のみ言葉を説教し、み言葉が内に持っている豊かに造り上げる力を
汲み取って、教会に示していく。また、教会の外に向かって、広く主イエスの福音を証しすることが出来るよう
に整えていく。教師の辞任は、これら教会に仕える働きとみことばにゆだね、後任に託し、働きの場から去るこ
とである。このけじめをきちんとつけておきたい。」と語った。二日目、三日目は、全体協議会、聖会、全体会、
閉会礼拝、説教大友師で終わった。参加者は全国から約一二○名程であった。私はこのセミナーに出席して、教
会はキリストの体であり、教会形成は信徒と牧師の共同作業であり、辞任と招聘は神の機が来たときになされる
事であると思い、新しい思いで献身した。

週報(2003年11月9日)

  第二回目バザーを終えて
                                             朝位真士
桜ヶ丘教会のバザーが、召天者記念礼拝後、教会員、CSの子供達の御協力を得て、無事二日(日)午後四時終
了した。今回の目的は三つ。@地域に開かれた教会として教会を開放し、知って頂く、A教会員が協力して主の
為に奉仕する、B会堂返済の一部とする、というスローガンのもとに、本当に教会内外を問わず、多くの方々の
協力を得て、始まり、終了した事である。今回の特色は、まず手作りのために、婦人会の方々は、夜遅く、早朝
にその為に労した事である。ホープ会(壮年会)は実務に徹し、青年会は、会場設営、後片付け、売場販売。教会
学校の子供達は、呼込みと喫茶コーナーの接待、販売。又、近所の方々が来られて、売り上げに協力してくださ
り、教会員の方々の多くの献品、教会学投父兄の献品、等、あげれば数限りない事柄であった。又、何よりも嬉
しかったのは、何十年前、教会に出席されていた生徒が成長して大人になり、教会を尋ねて来てくださった事で
あった。
 教会バザーに対して賛否両論はあると思うが、パウロがコリント人への手紙T・九・一九〜二〇で「わたしは、
だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ
人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、
わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を
得るためです。」と語った如く、福音のため、教会の存在を地域に広めるためには、あらゆる手段を取っても教
会宣伝をして、キリストの福音を伝えるチャンスを逃さないようにしたいと思っています。
 最後にバザーに御協力くださった凡ての人々に神の祝福をお祈りします。凡ては神の栄光のために用いられる
事を重ねて祈ります。

週報(2003年11月2日)

   召天者記念礼拝に思う
                                              朝位真士
 日本キリスト教団では、十一月の第一聖日を聖徒の日、永眠者記念日としています。これは九世紀の教皇グレ
ゴリクス三世が定めた「諸聖人の祝日」(十一月一日)、また十一世紀に定められた聖人以外の一般信徒を記念す
る「諸死者の記念日」(十一月二日)に由来するもので、以上の固定祝日を第一主日という移動祝日にしたもので
す。聖徒の日の意味を調べてみると、はじめは迫害による殉教者を記念するものでした。その死を通して地上に
残された者たちが励ましを受けると共に、訓練のための模範とするために記念の集会が行われたのです。この日
は、信仰の先輩たちのことを想起しながら、お互いが担っている使命を自覚することが必要です。この「召天者
記念礼拝」には特別な基準はありませんが、キリスト教の歴史と伝統の中では、死後三日目、九日目、四十日目
など主の復活を表す三またはそれをさらに三倍した九、それに聖書的に象徴的な四十に基づいた日数、年数など
による考え方があったようです。教会の暦に関連して死者を記念することがキリストにあって意味づけられ、関
係者が集まってもつ記念会に「主にあって共に生き、共に主をあかしする」性格が明らかにされるであろうから
です。教団の教会として公同の記念礼拝をもつのは、聖徒の日、復活節、あるいは地方によっては日本のお盆の
頃に関係者を集めて行う所もあります。プロテスタント教会では、「諸聖人の祝日」を否定しました。しかし、
後になって聖徒を記念する傾向が出てきています。もし先に亡くなった信仰者を記念することが日本の先祖崇拝
と結び付いて、その人々を礼拝の対象としてしまうならば、それは偶像礼拝に陥るでしようが、それが私たちを
一層キリストへと結び付ける模範として思い起こすということであるならば、それは地上の生死を超えた聖徒の
交わりを体験するかけがいのない機会となるのではないでしようか。

週報(2003年10月26日)

  宗教改革記念日を迎えて
                                              朝位真士
 一五一七年一○月三一日、マルティン・ルターはヴィテンベルグ城教会で九五カ条提題を当時のカトリック教
会につきつけた。いわゆる宗教改革記念日の起源である。プロテスタントの三大原理、@聖書のみ、A万人祭司、
B信仰のみ、である。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたら
す神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現
されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ一・一六〜一七)「正
しい者は信仰によって生きる」という言葉は、ハバクク二章四節の引用である。
 「義人は信仰によって生きる。」「生きる」とは「救われて生きる」という意味であり、「信仰によって」は
「信じるすべての人」に相対している。「義人」とは神の義を与えられた人のことである。救いを受けるうえで、
キリストにおいて与えられる神の義にのみより頼む信仰は、主にのみより頼む旧約と本質的に同一のものである。
 私達は、行為によって、善行難行して救われるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって救わ
れるのである。
 ルターは、当時の腐敗したキリスト教に対して、聖書のみ、万人祭司、信仰のみという原理をつきつけた。私
たち信仰者も、もう一度考える必要があると思う。第一に私たちは、本当に聖書の信仰をもっているだろうか。
第二に、万人祭司として他者のために一人一人の名を挙げてとりなしの祈りをしているだろうか。第三に、信仰
のみといっているが、信仰以外のものに頼っていないだろうか。この宗教改革記念日に、もう一度再考する必要
があるのではないだろうか。自己反省をこめて思う今日今頃である。

週報(2003年10月19日)

  「西東京教区伝道協議会」に出席して
                                             朝位真士
 一〇月一三日〜一五日迄、富士箱根ランドで教区より四〇教会、教職四一名、信徒三九名(多少変更あり)の
参加で、「伝道する教会」−地域に生きる−というテーマで、講師は渡辺正男牧師(青森戸山教会、前国分寺教
会牧師、西支区長)。はじめに、西東京教区設立に関わって。一、青森戸山教会、奥羽教区の報告を中心に、@
奥羽教区の新長期宣教方針「さあ、共に生きよう」について、教会の現状、イザヤ四三章一六〜二〇節、三本の
柱、A青森戸山教会の設立−地域社会に仕える教会を願って、a.礼拝の充実を願う、b.福音の伝道に励む、
c.地域社会に仕える−子どもの居場所としての文庫の働き。二、地域に生きる教会−わたしの考え方、@教団
の課題と関わるなかで、A井上良雄「地上を旅する神の民」−バルト「和解論」の教会論−、井上良雄「良のた
めの教会」などに学んで。むすび、ローマ書一五章一〜三節。という内容であった。
 私はこの協議会に参加して、主講師の渡辺先生の伝道者としての生き方に共感した。六五歳を過ぎて年金が出
るようになったら、あえて弱小教会、しかも東北の大変困難な教会へ赴任された。八甲田の麓で、冬は雪が三メ
ートルも積もる地で、伝道所開設から四年で教会が誕生した。先生方を始め、教会員のご苦労は言葉に言い表せ
ないものであっただろうと思うが、先生はそんな事を少しも語らず、淡々と教会形成につとめられ、地域社会に
仕える教会を願って、子ども文庫を開かれた。そして先生は、都市教会(西東京教区)と地方教会(青森戸山教
会)の連携、具体的には、祈りと経済的支援の感謝を正直に表明され、西東京教区から派遣された牧師としての
宣教の使命を強く心に感じられており、私は益々地方教会の為に祈りと具体的な支援の必要性を感じつつ、帰路
についた。

週報(2003年10月12日)

  主に感謝せよ
                                             朝位真士
 私は十月六日で満六〇歳になりました。一九四三(昭和一八)年十月六日に北九州で誕生しました。高校三年生
の時に母教会の北九州復興教会で故山中日出刀牧師によって受洗し、高卒後商社に入社して九年間勤務し、一九
六九年秋に東京に転勤して、淀橋教会で故小原十三司師の指導を受け、一九七〇年箱根のケズイック・コンベン
ションで、ジョージ・ダンカン先生のメッセージ「モーセの召命」(出三〜四章)を通して献身を決意しました。
一九七一年四月、東京聖書学校に入学し、一九七五年三月、卒業と同時に北九州復興教会で伝道師となり、約一
九年間奉仕をしました。その間、結婚、会堂建設をして、牧師(按手礼)になり、一九九四年四月、桜ヶ丘教会に
転任。約一〇年間、桜ヶ丘教会の牧師をつとめ、現在に至っています。その間、新会堂建設に従事しました。
 ざっと簡単に私の人生を振り返ってみてつくづく思うのは、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみ
が実現する。」(箴一九・二一)ということです。他の箇所では「人の一歩一歩を定めるのは主である。」(箴三○
・二四)とあります。私たちの人生も、自分でいろいろな計画を立てます。それも大切なことですが、最終的に主
に委ねて、その御旨に従っていく時に、困難な事も起こりますが、主が最善に尊いて下さる事を思います。
 私が一八歳の時に信仰に導かれた時与えられた御言葉は「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して
下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・一六)とい
う御言葉ですが、本当に神の愛の素晴らしさを日毎体験しています。最後にTコリント一三章を毎日読んで「愛
の本質」を理解したいと思います。主に感謝せよ!!

週報(2003年10月5日)

   祈りと交わりの集い
                                             朝位真士
 教会がする集まりは、聖日礼拝だけではありません。様々な集会が、教会堂で、あるいは会員の家で行われて
います。そのような<諸集会>は何のために行われるのでしようか。そのような集会に出席する心がまえは何でし
ょうか。
 ここでは、なによりも定例集会について、お互いにきちんとした共通理解をもつようにしたいと思います。教
会員としての生活は、何よりも、聖日礼拝(主日礼拝)に参加することによって、その基本的な道筋が整えられ
ますが、その上に、こうした定例集会のいずれかに出席して、更に教会に生きる恵みを深めることができます。
どの集会も共通に目指している目的があります。
 第一に、<聖書を学ぶ>ということです。私どもの教会のひとつの弱点は、聖書を学ぶことがまだ足りないとい
うことです。日常、聖書の言葉に生かされることが少ないのです。しかし、神のみこころを問いつつ生きる私ど
もの生活は、具体的には聖書を読みつつ生きる生活なのです。
 第二に、それはいずれも<祈りの集い>です。今日、多くの教会においても祈祷会が振るわなくなりました。私
どもの教会も夜の祈祷会が外部から一〜二名、しかも求道者が一名という時もあります。週日の夜に教会堂に集
まるには、あまりにも忙しい生活になっています。さまざまな社会生活の条件が変わりました。
 第三に、<交わり>に生きます。教会の集会に出席して、そこに共にいる人びとと心を通わさないことはありま
せん。パウロも「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と勧めています。
 第四に、これらの諸集会は<伝道>のよい場所です。この秋、私たちの教会を「祈りと交わり」の教会にしよう
ではありませんか。

週報(2003年9月28日)

   秋期特別講演会を終えて
                                             朝位真士
 台風一五号接近の最中の九月二一日(日)午後、日本キリスト伝道会の伝道者藤井圭子女史を無事お迎えする事
が出来て感謝しています。出席四一名(うち小人二名、求道者一一名)、献金三七八〇〇円。
 講師の藤井先生は、キリスト教界では珍しく仏教からキリスト教へ入信した先生で、現役の小児科の医師でも
あります(現在は専ら伝道に多くの時間をさいている)。先生は現在日本基督教団呉平安教会会員。著書「輝く
日を仰ぐとき」「恵みの高き嶺」「用いたまえわが主よ」「夕べ雲焼くる空を見れば」(いずれも一粒社)。ビ
デオ「ただ恵みにより−尼僧からクリスチャンへ−」(ライフ企画)。
今回は講演に時間を多くとり、約七五分間。聖書はヨハネ一四章一〜七節。特に「わたしは道であり、真理で
あり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」を中心に語られました。特
に先生は三つのポイントを語られました。一つは、仏教からキリスト教へ入信した動機と過程、特に仏教に対す
る誤った認識を平易に説明してくれました。二つは、藤井先生と御主人との関係について、離婚も真剣に考えて
いたが、キリストを信じて本当に御主人を愛するようになり、御主人も先生を愛するようになり、最後には御主
人もキリストを信じて勝利のうちに召天された事を、実話を入れて淡々と語られました。三つは、ご子息研太さ
ん(研修医二六歳)の突然の事故死に関して、母として親としての愛情深い心を示してくれました。キリストによ
って慰められました。
 最後に、先生の著書四冊を教会で取り次いでいますので、是非この本を購入してくださり、自分の為、伝道の
為に用いてください。日本の伝統的な仏教に対する認識とキリスト教の素晴らしさを再確認して欲しいと思いま
す。

週報(2003年9月21日)

   秋期特別講演会を聞くに当たって
                                             朝位真士
 日本キリスト伝道会の伝道者であり、小児科の医師であり、仏教からキリスト教に入信した藤井圭子先生を九
月二一日(日)午後二時に桜ヶ丘教会の特別集会にお迎えする事が出来て誠に感謝申し上げます。
 先生のプロフィルはチラシにも記載されていますが、一九六一年広島大学医学部を卒業され、一九六三年出家
得度され、尼僧校および仏教大学専攻科で勉学修行された後尼僧校舎監となるが還俗。小児科医に戻り、結婚。
二児出産。一九八二年日本アライアンス教団呉教会にて受洗。一九八五年日本キリスト伝道会エパンジエリスト
〈伝道者)に任命され、以来日本全国、台湾、アメリカなどの諸教会の特別伝道会などで奉仕。現在、日本基督教
団呉平安教会会員。著書「輝く日を仰ぐとき」「恵みの高き嶺」「用い給えわが主よ」「夕べ雲焼くる空を見れ
ば」(いずれも一粒社〉。ビデオ「ただ恵みにより−尼僧からクリスチャンヘ−」(ライフ企画)。
 藤井圭子先生のお働きを何回か拝見させて頂きました。尼僧からクリスチャンになり、小児科医として働くか
たわら、日本国内のみならず海外でもその体験を語りつづけてこられた先生は一九三六年生まれです。御主人を
天に送られ、四年前息子の研太さん(当時二六歳)も事故で天に送られました。その悲しみとともに御自身の上に
働かれた神の慰めが『夕べ雲焼くる空を見れば』に記されています。これを機会に藤井圭子先生は自分のクリニ
ックを閉鎖して、キリストの証し人として文字通り席のあたたまる暇なく、全国全世界で伝道のために御奉仕し
ておられます。淡々とした語り口の中で、きっと皆様方の心の中に神の愛と慰めを傾けることを保証します。一
人でも多くの方へお知らせ下さい。

週報(2003年9月14日)

  期待される牧師像
                                             朝位真士
 九月五日東京聖書学校にて公開講座が開かれ、聖跡桜ケ丘教会牧師の野田秀先生の講演があった。朝九時〜二
時迄の半日講座であったが、私にとって大変有意義な学びであった。内容を簡単に記すと、テキストはTペテロ
五・一〜四で、「牧師とは、大牧者に代わって神の羊の群れを牧する光栄ある務めである。そして牧会の内容は、
導き、教える。配慮し、世話する。守る。牧会のこころえは、強制されてするのではなく、神に従って自分から
進んで、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めて、群れの模範となりなさい。牧師に期待されているも
の、責任感、良識、バランス感覚。」午後からはUテモテ二・二一〜二六を通して、「牧師は、聖霊の助けなし
には果たすことができない、苦心と忍耐を要する務めである」と言われ、牧会上困難を感じる人たちの存在につ
いて語られた。周囲に悪い影響を与える人、反対する人、自分を愛する者、真理から耳をそむける人、世を愛し
去る人。このような人がある時に陥りやすい結果は、気落ち、争い、確信の揺らぎ。このような人たちの存在は、
牧師を謙虚にし、主を仰がせ、自分の務めを再確認させる.このような人たちに対するこころえは、優しさと柔
和さ、よく教えること、忍ぶこと、牧師自身が自己 (自分の弱さ、自分の傾向、自分の賜物)を知ること。以上
簡単な内容を記載した。七一歳、牧会経験四五年の野田牧師のお話を伺いながら、私は未だ三〇年に満たない若
輩者だが、本当にこれからの牧会の中で主から期待される理想像を知らされた思いがした。桜ヶ丘教会の皆様方
の祈りと、また多くの先輩、同輩、後輩の方々の祈りと、信者の方々によって支えられている事を感謝しつつ、
神の御心に添う牧師になりたいと思う。

週報(2003年9月7日)

   神は、今も働いておられます
                                             朝位真士
 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ
五・一七)
 私は、「総動員伝道ニュース」の中の小助川先生の文章に大変強く心をひかれた。先生は秋田の地で二〇数名
の小さな群れの中で、神があわれみのみわざをなして下さっている事を書いておられた。「主の降誕二〇〇〇年
の年に、百坪の土地と二階建て三六坪の会堂を奉献させてくださり、今年は、増築も許され、信仰告白者と洗礼
を受ける兄姉も数名加えられている。」先生は、「ガンの病との葛藤、入院手術、自宅療養という、牧会も伝道
もほとんどできていなかった状態の中で、神は働いてくださり、信徒達の信仰も支え、導き、また祝福してくだ
さったのである。教会は神の教会であるということを改めて痛感させられている」と書いておられた。
 私はこの文章を読んで、先生の事を考えた」先生は病弱な体でありながら開拓伝道の働きをされ、秋田でも有
数の教会を建設され、そこを辞してまた開拓伝道され、右の文章のような神の業を経験されておられる。数年前、
キリスト伝道会主催「日本伝道幻を語る会」の主講師として御用して下さった.何回かの御用で淡々と語られた
中で、本当に先生を用いておられるのは主御自身だという事をしみじみと感じていた。説教は決して堆弁ではな
いが、淡々と語られるメッセージは、一つ一つ確信を持って語っておられた印象が今も心に残っている。神が用
いられる器は、特別に能力があるとか、他者より素晴らしい賜物をもっているとかではなく、先生の如く誠実で、
神の前にいつも従順に従って、忠実に聖書を読み、祈り、実践されていく人であり、そめような人に神は祝福を
お与えになるのだという事を、「神は、今も働いておられます」を読んで感じた。

*4行目、管理人の判断で生誕→降誕に訂正しました。

週報(2003年8月31日)

  第三五回日本伝道の幻を語る会
                                             朝位真士
 主題「いよいよ始まるリバイバルの幻」、聖句「恐れるな、黙しているな、語りつづけよ、この町にはわたし
の民が大ぜいいる」、期間八月一八日(月)〜二〇日(水〉迄、場所は市川サンシティーホテル、参加者一〇三名。
一八日開会礼拝、司会吉本美技師、説教原登師。講演T、司会村上義治師、講演中野雄一郎師。青年大会、司会
深谷春男師、説教山北宣久師。半徹祈祷会、森本正之師。一九日早天説教、鈴木留蔵兄。講演U、司会東海林昭
雄師、講演山北宣久師。テーマ別分科会、日本伝道の幻を語る会座長、森師。発題、大川修平師、家内信一郎兄、
三木晴雄兄.宣教大会、司会横山義孝師、証し上野亘兄、メッセージ中野雄一郎師。半徹祈祷会、比嘉幹房師。
二〇日早天、日下部勝師。全体会のまとめ、司会原師、深各師。閉会礼拝、司会川島賢廣師、説教深谷春男師。
 この集会でなんといっても印象に残るのは、中野雄一郎師(JTJ宣教神学校国際学部学長、全世界を駆け巡り、
福音伝道のヒットメーカー、ハワイで牧会)のメッセージで、「映画『寅さん』に見る日本人のメンタリティーと
聖書」という題で、渥美清氏の人間性とキリスト教の影響ということで、七つのことを教えられた。@個性を持
つ(ヨハネ二一・二二)。A幼な心を忘れない(マタイ一八・一〜五)。B夢と愛をいつも(マルコ一一・二二〜二
五)。C旅に出る〈ルカ九・五一)。Dきよい関係(マタイ五・二七〜二八、第一テサ四・三〜五)。Eユーモアが大
切(箴言一七・二二、第一テサ五・一六)。F弱いときに強い(第二コリント一二・九)。これが印象に残った。
 山北宣久師(教団総会議長、聖ヶ丘教会)は、詩一二六編より、信徒と牧師の特性と働きについて熱く語られた。
 両者ともユーモアとジョークの中で共に時間の短さを感じ、もっともっとメッセージに時間をかけて欲しかっ
た。

週報(2003年8月24日)

  「健康な教会へのかぎ」を読んで
                                            朝位真士
 リツタ・ウォレンの「健康な教会へのかぎ」という本を読み、大変感動した処を引用してみたい。
 彼はアメリカ・カリフォルニア州オレンジ都サドルバック教会の牧師である。この教会の「目的宣言文」では、
キリストの教会の目的を要約する五つのキーワードを用いている。崇拝=礼拝の中での神の臨在を喜ぶ。宣教=
伝道により神の言葉を伝達する。加盟=神の家族の交わりの中へ迎える。成熟=弟子訓練により神の民を教育す
る。奉仕=仕えることにより神の愛を証しする。人々をイエスに導いて彼の家族に加盟させ、彼らをキリストに
似た者として成熟させ、教会における奉仕とこの世における宣教のために養えることにより、神の御名を崇拝す
る。
 神の目的を実行に移すためのプロセスは四段階ある。まず人々を迎え入れ、建て上げ、訓練し、そして遣わす。
人々を教会に加盟させ、成熟を目ざして建て上げ、奉仕のために訓練し、宣教のために遣わすことにより主を崇
拝する。ビジネスにたとえるなら教会は「弟子養成」業といったところで、変えられた人生−キリストに似た人
々−が私達の製品である。弟子を育てることが教会のねらいであるなら、どんなプロセスによつてそれが達成で
きるかを考えなければならない。目的とともに目的達成のためのプロセスを明確にする必要がある。手を抜くこ
とは、主イエス・キリストから託された大いなる務めを成り行き任せにすることである。
 私はこの本を読んで大いに啓発された。果たして私は今迄このように考えて教会形成をやってきただろうか。
大いに反省させられた。人数が少なくなった。人が救われるのが少ないと現象面を嘆くのではなく、もっと主の
前に悔い改めて新しい出発をこの秋からしたいものである。(箴二〇・一八)

週報(2003年8月17日)

  「道は開ける」を読んで
                                             朝位真士
 私は最近D・カーネギーの「道は開ける」という本を読んで非常に感動した。その中のいくつかを引用してみ
たい。
 ウイリアム・ジェームズがハーバード大学哲学教授であったとき、彼は「悩みに対する最大の良薬は宗教的信
仰である」と述べている。又、ウイリアム・ジェームズの言葉を借りれば<人生に対する新しい熱意・・・より
多くの人生、より大きな、より豊かな、より満足すべき人生>を宗教は与えてくれる。信念・希望・勇気をもた
らし、緊張・不安・恐怖・心配を解消させる。人生に目的と方向を与えてくれる.幸福を増大させ、健康を増進
させる。「砂嵐が吹きすさぶ人生の中の平和なオアシス」を創造する助けとなってくれる。フランシス・ベーコ
ンが三百年以上前に「浅薄な哲学は人の心を無神論に傾け、深遠な哲学は人の心を宗教へ導く」と語っている。
ヘンリー・フォードに、D・カーネギーがインタビューした時、彼の顔には長年にわたって世界最大の事業の一
つを創立し、経営してきた心労が刻み込まれているにちがいないと予想していた。ところが、七八才の彼がいか
にも落ち着いており、まったく健康で温和なことを知りすっかり驚いた。「悔んだことはありませんか」という
問いに、「ありませんな。何ごとも神が支配しておられるし、神が斉任をもってくださる限り、万事が結局は理
想的に処理されると信じます。何を悔むことがありましよう」と答えた。
 キリストは宗教には二つだけ大切なことがあるとおっしやつた。それは心から神を愛することと、隣人を自分
同様に愛することである〈マタイ二二・三七〜三九)。
 右の本は、私の愛読書の一つであるが、皆様方も是非聖書の横に備えつけられては如何でしようか。

週報(2003年8月10日)

  教会学校夏期学校に参加して
                                             朝位真士
 過ぐる八月五日(火)〜七日(木〉迄、主題「イエス様に従う」−ペテロの信仰−というテーマで、青梅市御岳山
の憩山荘において、生徒一〇名(中学二名、小学八名)と教師六名の一六名で真期学校を無事終了した。
 カリキュラムの内容は、一、イエス様との出会い。聖書箇所ヨハネ一・三五〜四二、ルカ五・一〜一一。アン
デレの紹介でイエスに出会ったペテロは、イエスのお力を知り、従う決心をする。目標は自分の罪を認め、イエ
スが神の御子であることを信じること。二、信仰告白と否認。聖書箇所はマタイ一六・一三〜二〇、ルカ二二・
一〜六二。イエスをキリストと告白したペテロだが、人々を恐れて主を否認してしまう。目標は誘惑に負けやす
い弱い私達を救ぅために、イエスがこの世に来てくださったことを知ること。三、イエス様に従う。聖書箇所は
ヨハネ二一章、使徒一〜二章。イエスにゆるされ新たな使命を頂いたペテロは、聖霊を受けて力強く主をのべ伝
えた。目標はイエスを愛し、生涯従い続ける決心をすること。
 以上の内容で、フミ子師、横田柿、粟澤姉、安東兄、森山結姉の五人の教師と牧師の六人で、それぞれの御用
を担当した。この夏期学校の特色は、初参加の生徒が四人もいて、その中で中学生が二名もいたことであった。
自由時間は元気に遊んだが、礼拝、分級等の学びの時間は大変真面目に参加、協力してくれた上思う。山でのキ
ャンプ〈旅館の中)であったが、事故や過ちから守られたことも感謝であった。特に、二日日のハイキング(ロック
ガーデン)の計画実行には、先生方も生徒達も真剣に参加してくれたことは良かった。そして、それぞれの先生方
が多大な時間と犠牲を払って、この三日間、子供達の魂の教育のために本当に全精力を打ち込まれたことは、真
に幸いであった。尚今後の子供のために祈ってください。教会員の方々の祈りも感謝しています。

週報(2003年8月3日)

  「たいせつなきみ」を読んで
                                            朝位真士
 私は去る七月二九日、更正施設で「たいせつなきみ」(マックス・ルケード牧師著)を紹介した。
 「ウイミックと呼ばれる木の小人たちは、毎日同じことばかりしていた。ほかの小人に、金の星のシールか、
灰色のだめしるしシールをはること。なめらかな木でできて絵の具もきれいにぬられたいつでも星がもらえた。
才能のある小人たちもそうだ。でも、あんまりいろいろなことができない小人や、絵の具がはげている小人たち
には、みにくい灰色のだめじるしシールがはられてしまった。パンチネロは、そんな小人のひとりだった。彫刻
家エリは、パンチネロに彼がどんなに大切な存在か。ダメシールをはられていた、パンチネロは、彫刻家のエリ
のところに行って、彼にこう言われた。『それはね、わたしの思うことのほうがもっとだいじだと・・・みんな
どう思うかなんてことよりもね。おまえがわたしのあいをしんじたならシールなんてどうでもよくなるんだ
よ』」・・・で物語は柊わっている。
 私がこの物藷を読んで感じたことは、人間は才能のあるなし、良く出来るか出来ないかで、良いレッテル、悪
いレッテルを貼る。また人の評判を気にする。絶えず人の目が気になる。しかし神様は「わたしの目にあなたは
値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」
(イザヤ四二・四)と言われた。主イエス様は、私達一人一人を大事な、高価で貴い人間として扱っておられる。
神の愛を信じていると、世間の評判や人の評価は余り気にしなくてもよくなる。
 私はこの「たいせつなきみ」の本を読み聞かせながら、ダメシールをはられても、神は私達一人一人を愛して
下さるという事を信じる時、大きな慰めを与えられた。

週報(2003年7月27日)

  第一四回ホ群夏期聖会に出席して
                                             朝位真士
 主題「今こそ、きよめに生きる」、聖句「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのです
から、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましよう。」(コリントU・七
章一節)、期間七月二一日〜二三日迄、場所は秩父のいこいの村、美の山ホテルであった。参加者一一一名、献
金二八万二〇五三円。
 聖会T、説教者は細谷武英師(東調布教会)。コリントU・一〜二章を通して、全体のレジメを準備された。
聖会U、説教者ほ東梅林昭堆師(小栓川教会)。コリントU・三章を通して、特に「栄光から栄光へと、主と同
じ姿に造りかえられていきます」(三章一八節)は印象深い御言葉であった。早天聖会の説懲者は石川深香子師
〈天門教会)。四章全体より、特に「このような宝を土の器に納めています」〈四章七節)は印象的であった。特
別講演は島隆三師(西川口教会)で、ウエスレー生誕三〇〇年記念として「ウエスレーの聖化」というテーマで
演された.ウエスレーが生涯をかけて追求し、また主張しつづけたことは「心と生活のきよさ」であったと語
られた。ウエスレーの生涯はどこを切っても「全身全霊を神に献げる」という献身の思いに貫かれている。「き
よくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル一二・一四〉。ウースレーが絶えず求め続けたも
のはこの「聖なる生活」であった。この「恵みの手段」は、祈ること、聖書に聴き従うこと、集会に励むこと、
聖餐にあずかること、聖徒の交わりを大切にすること、奉仕の業、愛の業に励むこと。聖会Vは深谷春男師(赤
羽教会)が、コリントU・五〜六章を通して「今や恵みの時、今こそ救いの日」というテーマで力強く語られた。
聖会Wでは鵜沼義民師(秩父教会)が七章より全件のまとめを語られた。

週報(2003年7月20日)

   信徒の祈り
                                             朝位真士
 信徒信条に「聖徒の交わりを信ず」と告白しているが、キリストによって罪をゆるされ聖別された主のしもべ
たちの霊的な交わりを信ずるところに教会がある。しかし具体的には、何よりもまず各自が召された個々の教会
での信徒間の交わりがその中心となることは言うまでもない。
 交わり〈ギリシャ語で「コイノニア」)はキリストを中心とした信徒の共同生活である。信仰によらない自然
的共同体の交わりは人間相互の欲望が基礎となっていることが多く、結局は自分のために他を愛することになり
かねないが、教会にある霊的共同体の交わりは、主にある愛と真実とが基礎となっている。つまりわたしたちと
他者との間に立っているキリストを媒介として交わることであって、ここに本当の交わり、和合があるのである。
信徒間の交わりを考える場合に、まず信徒は神とキリストとの交わりに入ったこと、つまり神とわたしとの交わ
りを深めることを忘れてはならない。この関係を基礁としてはじめてわたしたちは自生のものとなり、隣人と交
わることができるのである。この点から出発しなければ交わりは単なる社交と同じになってしまい、世俗化して
生命を失ってしまう。
 私は教会の交わりを大事にしたい一人である。とかく都会の教会は冷たいといわれる。私は一つ提案したい。
礼拝後、祈祷が終わった後、お互いに声をかけ合って近況、安否を同い合い、場合によっては祈り合ってその間
題・課題を共有して欲しい人。喜びは分け合うと二倍になり、悲しみは分け合うと半分になると言った人がいるが、
主にある交わりは、かけがえのない人生の一時である事を忘れてはならない。

週報(2003年7月13日)

 夏期の諸集会の為祈って下さい
                                            朝位真士
 今年も七月から八月にかけて各集会、聖会、夏期学校があります。
まず七月二一(月)〜二三日(水)の日程で第一四回ホ群首都圏夏期聖会が、主穎「今こそ、きよめに生きる」、
聖句「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分
を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましよう。」(Uコリント七・一)、講師、細谷武英師、東海林昭雄
師、石川葎春子師、島隆三師、深谷春男師、鵜沼義民師等で開催されます。今年は埼玉県皆野町いこいの村の美
の山ホテルです。お祈り下さい。
次に七月二八日(月)〜三一日(木)、ユースバイブルキャンプが岩溝水クリスチャンセンターで開催されます。
テーマ「わたしを呼べ」、講師、佐鹿泉師(桐生泉町教会牧師)。「エレミヤの生涯」から学びます。若い参加者
を祈ります。
次に桜ヶ丘教会教会学校の夏期学校です。八月五日(火)〜七日(木)、二泊三日。主題「イエス様に従う」−ペ
テロの信仰−会場、憩山荘(青梅市御岳山)。小学生、中学生を対象に、教会学校の先生と講師助手々して森山
結姉が参加です。事故や過ちがないように特にお祈り下さい。
次に第三五回日本伝道の幻を語る会が八月六日(月)〜二〇日(水〉、薄師、山北亘久先生(日本基督教団総会議
長、聖ヶ丘教会牧師〉、中野雄一郎先生了(JTJ宣教神学枚国際部長)、堤所は市川サンシティーホテルで開催され
ます。私も実行委員の一人として参加します。参加者一〇〇名と祈っています。
 以上この夏の霊的集会の内容です。また九月二一日(日)午後二時、当教会に於いて藤井圭子女史(キリスト伝道
会伝道者)による「仏教からキリスト教へ」という講演会が予定されています。

週報(2003年7月6日)

  何故、教会出席が必要か
                                             朝位真士
 私は信者の方や求道者の方に教会出席をよくすすめます。その理由は五つあります。
 第一、家族であるためです。「孤独なキリスト者というものは存在しない」とジョン・ウエスレーは言いまし
た。使徒二章四二〜四七節をみて下さい。
 第二、教えを受けるためです。牧師は、教会員や求道者にキリスト教の信仰指導をします。エフェソ四章一一
〜一二節。
 第三、訓練されるためです。キリスト者が真理を受けるのは、その宝を他の人と分かち合うためです。「キリ
スト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。」(Uテモテ二・三)キリストの兵士は
個人的な導きだけでなく、戦術的・戦略的訓練をも受けなければなりません。それは、「神の教会が強力な軍隊
のように行動するように」なるためです。私たちが教会に集まるのは、世界の宣教の場にいる神の戦士のために
とりなしをするためです。また聖書研究や祈りや聖餐に参加することによって、敵であるサタンに打ち勝つ方法
を学び、伝道のための戦術会議を開くためなのです。
 第四、調和を保つために。私たちを調和のとれた人とするために、神は生活のリズムを設けてくださいました。
夜と昼、冬と夏、休息と労葡、これらによって生活のリズムが生まれます。七日間のうちの一日の休息は、ダニ
エル・ウイルソン主教が言ったように、「不断の義務、また神の指令」です。神の日は休息のためです。元気を
回復し、創造主、贖い主、聖別の主である神を礼拝するためなのです。
 第五、聖書的理由。私たちがキリスト者であるかぎり「いっしよに集まることをやめたりしないで、かえって
励まし合い・・・ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル一〇・二五)        、
                                   モーリス・A・P・ウッド著より

週報(2003年6月29日)

  ホ群首都圏弾圧記念聖会に出席して
                                             朝位真士
 六月二二日午後三時、東調布教会で弾圧記念聖会が開催された。弾圧・受難六一年、受難日一九四二年(昭和
一七年) 六月二六日。司会、深谷春男牧師(赤羽教会)。証、藤田小枝子姉(藤田牧師未亡人)。説教、朝位真土牧
師(桜ヶ丘教会)。人数は神学生を含め約一〇〇名だったと思う(正確な数は不明)。聖歌隊は首都圏有志により、
聖歌五七一番を合唱。
ます証しの藤田姉が、弾圧早朝(六月二六日)石川牧師の小松川教会に特高が来て教会を荒らし、先生を連行、
家族、教会員は教会解放され、集会も禁じられ、大変苦しい時期を通られたことを淡々と語られた。司会の深谷
師は霊的リードで、聖会をスムーズに指導された。
 私はフイリピ四・二〜一四を通して「苦難の中における喜び」というテーマで、弾圧の歴史的事実を語った。
当時の政府の宗教弾圧により、治安維持違反を理由に教職九六名が一斉検挙され、牧師職が剥奪された。当時の
日本基督教団の指導者の対応について事実を語り、聖書の中よりパウロのフイリピの教会に対しての手紙を通し
て「苦難の中における喜びを」と語った。特に四章二節のエポディアとシンティケの二人の婦人のように、婦人
の指導者の在り方が教会の発展に影響するので、主において同じ思いを抱いて、協力して助け合って欲しいこと、
また四章一一〜一三節において、パウロは「いついかなる場合にも対処する秘決を、イエス・キリストの力によ
って可能としている」ということを力強くアピールした。
 献金は約九万円与えられ、恵まれた聖会であった。お祈りを感謝!!

週報(2003年6月22日)

  模範的生活
                                             朝位真士
 説教を準備していたら、小原十三司師の「流れの小石」の中に「模範的生活」というテーマの文章があった。
その中で先生は、「良き模範とは、極平凡な善事の実行である。模範的クリスチャン、模範的伝道者、いずれも
極平凡な善事の実行者に他ならない。模範的生活もそれ以外ではない。実に平凡な真理の実践に過ぎないのであ
る。」と語られていた。Tテサ四章一〜一二節に模範的生活の内容を見ると、三つのものが含まれている。
 第一は三節から八節までで、清い生活ということである。その清い生活を構成するものが二つある。一つは性
的純潔で、もう一つは物的廉潔である。私は先輩の牧師からよくこんな事を言われた。「朝位さん、成功した牧
師にならなくても、二つの事に気をつけた方がよい。一つは金銭である。お金は誘惑である。私も欲しい。しか
し、お金はサタンの誘惑にあう。もう一丸は異性である。これもサタンの誘惑にあう。」私は、いつもこの二つ
の問題は、毎日神に祈っている。
 次に九〜一二節。愛の生活についてである。テサロニケの人々は愛の生活の実践者であった。
 第三に一三〜一八節。希望の生活である。平凡な宗教生活をいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感
謝して日々連続して進み行くと、クリスチャンの模範的生活となるのである。
 最近、教会学校が祝されている。皆様方の祈りと協力のおかげだと思う。しかし一人の老姉妹の地道な伝道が
実を結んでいるのではないだろうか。名は記せないが、教会はこのように無名の方々の協力によって支えられて
いくのである。

週報(2003年6月15日)

   二人の若者の入会を感謝して
                                             朝位真士
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。」(コヘレト一二・一)
 六月八日(日)ペンテコステ礼拝にて、二人の若者が受洗と倍仰告白式をして、桜ヶ丘教会の会員となった。
 一人は斉藤雅之兄二二歳。彼は二〜三年前より教会の礼拝や、クリスマス、バザー、チャペルコンサートに出
席していた。菓子職人である彼は、仕事の関係(ホテルマン)で聖日礼拝の出席がなかなか困難であるが、月一回
か二回は休みをとって礼拝に出席したいと希望している。彼は「日本人の宗教観は甘いので、私はケジメをつけ
たい」と語っていた。彼は外側には考えられない大変な苦労人である.余り多くを語らず無口ではあるが、大変
しっかりした青年である。父親と弟の三人暮らしである。父親は反対をしていたそうであるが、彼は今回受洗を
決意したのである。
 二人目は森山結姉一五歳(高校一年生)。森山直子姉の長女であり、横田夫妻のお孫さんである。彼女はすでに
一九九一年六月二日、幼児洗礼を西海静雄牧師より受けており、今回信仰告白式を受けられた。九八年、父親の
転任で九州に行っていたが、二〇〇〇年八月に東京に帰って来た。多感な少女時代を送っているが、大変芯のし
っかりしている姉妹であり、今年高校一年生になったばかりであるが、なるべく教会生活を忠実に送りたいと、
信仰告白式の時に会衆の前で語っておられた。
 以上簡単ではあるが、ペンチコステに会員になった二人の若者について語った。どうぞ教会員の皆様、彼らの
ために祈り、ご支援くださることを切にお願いいたします。

週報(2003年6月8日)

   ペンテコステ礼拝を迎えて
                                             朝位真士
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒一・八a)
 ペンテコステとは、ギリシャ語で五〇という意味で、ユダヤ教の過越の祭りから五〇日目の祭りをさす言葉で
した。今年は六月八日がペンチコステ(聖霊降臨日)です。イエス・キリストが十字架上で死に、弟子達は離散し
ました。しかし「主は三日目に復活された」後に、弟子達と共に四〇日間一緒に生活され、天に昇られ、一〇日
後に聖霊の姿で地上に降り、弟子達は燃えるような力(聖霊)に動かされて立ち上がり、キリスト教会が誕生しま
した。聖霊降臨日は教会の誕生日です。私共の桜ヶ丘教会も一九二三年〈大正一二年)、板井康裕先生の世田各区
桜新町の自宅で開拓伝道が始まりました。その後いろいろな場所へ移転し、一九四四年(昭和一九年)、杉並区下
高井戸一丁目に疎開しました。この近隣を転々とした後、一九七五年(昭和五〇年)、四丁目のマンションを購入
し、会堂兼牧師館として伝道が継続され、一九九七年(平成九年)一二月、薪会堂が与えられ、今日まで教会活動
が縦続されてさりました。
 ペンチコステ(聖霊降臨日)は、聖霊の力によってわたしたちの内に働く、イエス・キリストの霊です。復活し
たキリストは、聖霊に運ばれて、われわれの中に住んでくださり、われわれを潔め、強め、担ってくださいます。
わたしたちみんなの内に住み、われわれがキリストの内に結ばれて生きるものとなります。これが「キリストの
からだ」としての教会です。
 今日この日に、青年が受洗(パブテスマ)しようとしています。キリストの体なる教会の一員として、愛の共同
体の一人として誕生します。皆様お祈りしてください。彼の成長の為に、教会全体の成長発展の為に。

週報(2003年6月1日)

  ある運動会に招かれて
                                              朝位真士
 私は今年から教誨師として月一回、少年の補正施設に行っています。先日五月二七日午前一〇時〜午後二時半
迄、運動会がありました。法務省矯正施設であるその施設には、一四歳〜一九歳迄の少女四十数名が収容されて
います。保護者、来賓を含め一〇〇数十名が集まり、「皆が主役の運動会!」というスローガンで開催されまし
た。天気は曇で、運動会開催時間に雨は降りませんで七た。私は二人の子を持つ親として、その子供達の一生懸
命な競技に対する姿に涙を禁じ得ませんでした。世間的には白い目で見られている少女達が、一時の迷いの為に
非行に走ったとはいえ、真剣な姿で、また生き生きと競技に打ち込んでいる姿。保護者の方々も子供達と一緒に
競技に参加し、共に運動場で弁当を食べている姿。現代で失われている姿を見せて頂いた様でした。来賓として
は、法務省の役人を始め、彼女たちの中学校、高校の先生方、近所の町内会の役員、教誨師など数十名。私は、
「皆が主役の運動会!」というスローガンのこの運動会で、「スポーツが得意な人や一番になる人だけが主役で
はなく、皆が主役だ」ということを気づいてほしいという気持ちをもちました。「一人一人が主役だということ
を忘れないでほしい」という子供達のコメントに再び感動しました。現代はベストワシを目指して勉強したり働
いたりしているが、一人一人はオンリーワンです。聖書イザヤ書四三章四節「わたしの目にあなたは値高く、尊
く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。」とある如
く、一人一人は主の前に高価で貴いと思います。私は月一回施設で、キリスト教の講話をしています。どうぞお
祈りください。

週報(2003年5月25日)

   チャペルコンサート礼拝
                                             朝位真士
「天にいます神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩一三六・二六)
 岸先生をお迎えすることができて、心より感謝申し上げます。
 私共の教会の新会堂が建設されて五年が経過しました(一九九七年二月完成、一九九八年二月献堂式)。ここ
三〜四年は、地域に開かれた教会として、楽器演奏とともにキリスト教のメッセージを伝えるチャペルコンサー
トを春と冬に開いています。岸先生は三回も私共の教会に来て下さいました。今回も他のスケジュールと重なっ
ていましたが、先方を延期して下さり、私共の教会を優先して下さいました。他の教会には申し訳なく思ってい
ますが、それでもニコニコして来られました。先生はどんな小さな所、家庭集会、朝祷会、教会、ホテル、聖会、
ゴスペルコンサートなどにも行かれ、席のあたたまる暇のないほど御多忙な方です。また信徒向けのJTJ宣教
神学校の校長であり、ミッション二〇〇一巡回伝道者、国体水泳元神奈川県代表選手、ムラサキスポーツ競泳チ
ーム所属選手等、多くの賜物を主のためにささげて御用されておられる先生です。三五歳から巡回伝道一筋。一
般向けサックスCDや讃美CDをリリースしておられます。
 私は岸先生と数年前からお交わりをさせていただいていますが、霊的魅力と人間的魅力を兼ね備えられた先生
です。また先生はキリスト教的著書を何冊もお書きになっておられます。メッセージは大変わかりやすく、主イ
エス・キリストの福音をストレートに語り、音楽(サックス演奏)とメッセージを携えて全国を巡回されています。
また神学校校長として学究的な面もおもちのマルチ・エパンジェリストです。
 このチャペルコンサートが主の祝福を頂き、救われる人、献身される人がでる事を祈りつつ、主に期待させて
頂きたいと思います。

週報(2003年5月18日)

   代ヶ木朝祷会の再開に出席して
                                              朝位真士
 「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前
のものに全身を向けつつ、」(フィリピ三・一三)
 代々木駅前にある国際基督教団の代々木教会、牧師吉本美技先生の教会で毎連火曜日に開かれていたが、吉本
完生の健康上の理由で、代々木朝祷会が休会していた。しかし、吉本先生を始め多くの方々の熱祷により数年ぶ
りこ再開された。私は、東京赴任時から出席していた。我々の教会の建設の為には、代々木のメンバーが良く祈
祷して支援下さり、特に牧師の吉本先生は度々桜ヶ丘教会の為に献金して下さっておられる。老牧師(八十数歳〉
であるが、大変霊的にしっかりされた方である。駅前の一等地の十階近いビルの教会であり、この会堂建設も大
変困難なようであったが、御主人を天に送り、何人ものお子様を育てながら牧会されて、代々木教会を建設され
た先生である。私はこの朝祷会の再開を何よりも嬉しく思い出席した。五十数名の盛会であった。ある方は神奈
川から、千葉から、東京からと、老若男女が一同に集い、祈りと讃美をささげた。私はこの朝祷会で平和の祈り
に心がとどまった。「主よ、わたしを平和の器とならせてください。憎しみのあるところに愛を、争いのあると
ころにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りのあるところに真理を、望みな
きところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、闇には光をもたらす者としてください。主よ慰められること
よりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛する者とならせてください。
わたしたちは、自ら与えることにより受け、ゆるしてこそゆるされ、自分の体を捧げ、死ぬことによって永遠の
命を得ることができるからです。主キリストによって、アーメン。」

週報(2003年5月11日)

   チャペルコンサートに備える
                                              朝位真士
 いよいよあと二週間程で岸先生をお迎えしてのチャペルコンサートが開かれる。聖書をみると、シモン・ペト
ロの兄為アンデレは、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシアー『油を注がれた者』という意味
ーに出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。(ヨハネ一・四〇〜四二)
 岸先生の集会で最初は五五名、次は四四名と段々人数が少なくなっている。今年はデータからいうと昨年より
数が少なくなる事になる。しかし、私はそうはして欲しくない。いや、主がそう願っていると思う。
 教会に来た人の動機を分析すると、@友人に誘われてが八〇%、Aチラシ・ドラクトを読んでが一〇%、B通
りがかりが一〇%だそうだ。共通して言えるのは「友人・知人に誘われて」というのが一番多いということでは
ないだろうか。伝道とは教会に人を連れてくることにつきるであろう。「教会に行ってみない?」この一点にど
れだけ確信と熱心と祈りがあるかということが決め手である。「良き名声をさげすむ者は心が浅間しいのである。
私たちにとって、隣人から名声を得ることは神のみ前に正しい良心を持つことに劣らず必要なことである。」
(アウグステイヌス)信用を得、名声を与えられることにより、人を教会に導きやすくなるという視点は大切で
ある。愛する人に自分の最も大切にしているものを紹介することは自然な行為であろう。そして相手から信頼さ
れ、愛されているなら、その誘いに喜んで乗ずるはずである。かくして福音を伝えることは、その相手を真に愛
することに通じる。そしてそれは教会に人を連れてくることに通じるのである。凡そ、愛なくして福音を誇るこ
とは出来ないのであるから。
 五月二五日(日〉のチャペルコンサート、あなたはだれを連れてこられるでしようか。勿論あなた自身が来る事
も自明の理です。

週報(2003年5月4日)

  チャペルコンサートに備えよう
                                             朝位真士
最近、山北宣久先生の『それゆけ伝道』という本を読んでいたら、面白い文章が目にとどまりました。それは、
マルチン・ルターのことばですが、「神のみ言葉を除けば、音楽だけが人間の感情を支配することができるもの
だ」という文章です。神は音楽、さんびという大きな賜物をも与えて下さっているのです。ウーピー・ゴールド
バーク主演の「天使にラブ・ソングを」という映画を観た高校生が「あんな聖歌隊があったら毎週教会に行くん
だけどな」と言ったそうです。
 音楽による伝道の可能性は小さくありません。講演は頭に、歌は心に響く。そして讃美歌は霊の力を魂に与え
ると言われます。作曲家ストラビンスキーは「音楽とは本来人と人とを結びつけ、さらに人と至高者とを結合し
て、そこに霊の交わりをもたらすものである」と言っています。私共の教会に聖歌隊がある事を本当に感謝して
います。メンバーも老若男女です。礼拝後の一〇分〜二〇分の間、聖歌隊の練習の讃美を聴いて食事をしている、
まさに、教会ならではの雰囲気です。
 「こころの中に音楽をもたない人間、美しい音の調和に心が動かぬ人間、そんなヤツが反逆や陰謀、破滅に相
応しい。こういう人間を信用してはいけない。さあ聴こう音楽を。」これは、シェイクスピアの『ヴェニスの商
人』に出てくる言葉です。
 五月二五日(日)午前一〇時半、私共の教会は、テナーサックスの演奏とメッセージをして下さる岸先生をお迎
えして、チャペルコンサートを開催する予定です。皆様にお願いしたいのは、チラシを一枚でも配布することで
す。また毎日この為に祈って下さい。岸先生は文字通り全国的に御用されている方です。先生の霊肉の健康の為
に、また今年救われる方が三名以上与えられる様に祈って下さい。祈りは必ず開かれます。

週報(2003年4月27日)

  春期チャペルコンサートを準備しよう
                            朝位真士
 いよいよチャペルコンサートがあと一ヶ月近くになってきました。講
師は昨年も来て下さった岸義紘先生です。先生は、テナーサックスの名
演奏家であり、JTJ神学校校長であり、牧師でもあります。マルチタ
レント的な存在であり、大変な努力家でもあります。この先生を五月二
五日(日)午前一〇時半の礼拝にメツセンジャーとして迎えようとしてい
ます。準備する側としても、なんとか昨年にまさる人々を導きたいもの
です。日本基督教団の『信徒必携』という小冊子の中に伝道についての
一つの定義が書かれています。「伝道は聖書知識や神学を伝えるのでは
ない。十字架に死に、復活された天におられる御子イエス・キリストの
事実を証言するのである。すなわち、聖霊によってキリストの十字架と
復活を確信し、その事実を証言せずにはおられない必然に迫られて行う
のが伝道である。」まず、「聖基によって」とあるところが大切です。
人間の力によってでなく、目に見えない神の愛の絆としての聖霊に導か
れ、執り成され、用いられて行うのが伝道です。また、嫌々ながら伝道
する、牧師のつとめだから、信徒ゆえ仕方がないから、職務上、立場上
やらねばならないから伝える、というようなものが伝わるはずがありま
せん。やむにやまれぬ思い、迫り来る神の愛に促され、必然に迫られて
行う、その迫り来る力がまさに迫力ある伝道になるのでしよう。この機
会に毎日祈り、チラシを一枚でも人々に配布し、一人が一人を教会にお
連れしましよう。

週報(2003年4月20日)

   復活祭(イースター)を迎えて
                            朝位真士
 今年のイースターは四月二〇日(日)である。キリストの復活を記念す
る日であり、AD三二五年のニカヤ会議にて春分後の第一の満月後の日
曜日と定められた。キリストの復活によって、罪の結果であり人間の最
大の敵である死への勝利がもたらされたこの日を記念し、教会では特別
礼拝、聖餐式、洗礼式、墓前礼拝等を行ぅところもある。
 私はこのイースターを迎えるにあたりいくつかの事を決意した。第一
に、復活信仰を新しくもつ。「だれでもキリストにあるならば、その人
は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新
しくなったのである。」(Uコリ五・一七) 第二に、愛の信仰をもつ。
キリストを裏切って捨てていったペテロをはじめ弟子達にあらわれて、
彼らにもう一度勇気と力を与えられた。これは神の愛の現れである。私
もキリストの愛に燃やされ生きる者となりたい。第三に、決して諦めな
いこと。第二次大戦中、独軍の猛爆を退けたチャーチル英首相の「諦め
るな〈ネバー・ギブアップ)。諦めるな。決して、決して(ネバー、ネバ
ー)」と言った言葉があるが、私もすべての事、牧会、信仰、奉仕、す
べてに諦めないで主に従って行きたいと決意した。

週報(2003年4月13日)

  東京聖書学校入学式に出席して
                           朝位真士
 ホ群立東京聖書学校の入学式が、四月九日午前一〇時半から吉川の東
京聖書学校で行われた。司会、大友英樹師、奏楽、朝位フミ子師、説教
島隆三校長、聖書はイザヤ四三・一九、「見よ、新しいことをわたしは
行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」という箇所から
「新しいことが起こる」と題してのメッセージがとりつがれた。島先生
は、ホーリネス信仰の源泉は二つあると語られた。@敬虔主義運動。こ
れは、一七世紀のヤコプ・シュペナーによって提唱された。彼が目指し
たものは、神の言葉に十二分に親しみ、教会における信徒との共働であ
り、単なる知識ではなくキリスト教的実践を重んじ、信仰にさらなる愛
を、信仰を高める説教を重んじた。Aリバイバル運動にホーリネス信仰
の源泉があると結び、浅田美由紀姉、岡田はるみ姉、柏明史兄、隈野徹
兄、中山契生見、山川正吉兄、山口英希兄の七名の方々が与えられた事
の感謝を述べられた。私も一九七一年、七名の兄姉で入学させて頂き、
一九七五年春卒業し、はや二八年目を迎えているが、この入学式に参加
させて頂き、新たな思いを与えられた。「新しいことが起こる。」桜ヶ
丘教会にも各個人の中にも新しい神の業が起こることを期待したい。ハ
レルヤ!!

来週礼拝後教会総会

週報(2003年4月6日)

  二〇〇三年ホ群年会に出席して
                            朝位真士
 四月一日〜三日迄、二〇〇三年度ホ群年会に牧師・伝道師・中本兄の
三人で出席した。一日目は、開会礼拝 (説教、八束潤一郎師、司会、深
谷春男師)、レセプション、聖会T (説教(講演)島隆三師、立証、相良
哲生師、司会、伊奈聡師) があった。二日目は事務会T、追悼式、事務
会U、テーマ別・全体協議、派遣式、聖会U (説教、山岡磐師、司会、
原田謙師、合唱、東京聖書学校神学生)、三日日は事務会V、聖会V
(説教、三枝育代師、司会、久多良木和夫師) というプログラムで行わ
れた。
 私はこの年会に出て、特に主題「福音の前進」(フイリピ一・一二)、
副題「目標を目指して走る」というテーマに大変感動を覚えた。一年間
各教会でそれぞれ奉仕されたが、たとえどんなに望みのない状況の中に
立たされていても、後退しているところに立たされていても、主イエス
・キリストの恵みによって人々に希望や励ましがもたらされ、主イエス
・キリストの豊かな力によって福音が力強く示され、私達を希望に満た
して前進させていくという内容であった。マイナス的な状態をプラスに
変化、これが福音の前進である。
 新卒六名を含む一三名の派遣式があり、私も新たに桜ヶ丘教会へ派遣
された思いである。受難節の時期、祈ってイースター(復活祭)を迎えよ
う。

週報(2003年3月30日)

   二〇〇二年度を省みて
                                              朝位真士
 「恵み深い主に感謝せよ」(詩一三六・一A)
 過ぐる一年、さまざまな出来事に直面した。四月四日に相沢こう姉が召天。八四歳であった。駒場集会の中心
的な姉の御一人であった。四月二八日、教会総会があった。五月二六日、チャペルコンサートで岸先生のテナー
サックスの演奏とメッセージがあった。六月一六日、太田ドロシ女史の講演があり、八〇歳を越えても尚前向き
な姿に一同感動した。八月六日〜八日、教会学校の夏期学校が桐花園キャンプ場で開催。一一月三日、召天者記
念礼拝があり、今迄に召天された方々の写真を飾り、なつかしい方々の想い出にしばしの一時をもった。段々と
天国がにぎわっている。しかし、地上の礼拝にも人数が増加する様に祈りを新たにした。一二月一五日(日)午後、
クリスマス・チャペルコンサートが開催されて、ペアンテ・ボーマン先生ご夫妻のチェロとピアノ演奏は会衆一
同に大きな感動を与えた。一二月二二日、クリスマス礼拝、祝会。一二月二四日午後七時、クリスマスイヴ礼拝。
相良おり絵さんのヴアイオリン演奏と小室さんのピアノ演奏がすばらしい音楽の夕であつた。二〇〇三年一月一
日、元旦礼拝。二月二三日、教会総会。枚挙にいとまがないほど多くの行事があった。この一年を振り返ってみ
て、本当に「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩一三六・一)である。
 教会的には高齢者や病気の方々が多くなり、家庭事情で引越しをせざるを得なくなった人々もいた。教会財政
も大変困難な時を幾度か通されたが、役員をはじめ会員の皆様の信仰と御支援によってこの一年も支えられたと
思う。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」(列王上一七・一)
 二〇〇三年度も主に信頼して進んでいこう。ハレルヤ!!

週報(2003年3月23日)

  指導者のために祈ろう
                                              朝位真士
 先週も書いたように三月五日から四月一九日迄、受難週を迎えている。私は最近、テモテ一・二章一〜二、八
節の御言葉「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさ
い。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生
活を送るためです。・・・だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ること
です」を思い出している。私が神学生の時、一九七一年〜七五年、淀橋教会の早天祈祷会、午前五時半〜六時半
頃、故小原十三司師の指導によって神学生と淀橋教会の信徒と一緒に毎朝祈った。
 私は最近密室で祈りながら、最近の世界情勢、特にアメリカとイラクの戦争回避を祈っている。アメリカ大統
領ブッシュの誤った指導力によって、イラクとの戦争を開始しようとしている。勿論相手方のイラクの方も多く
の誤りがあろうかと思う。当該国同士は良いかも知れないが、戦争によって多くの犠牲者が出ることは明らかで
ある。アメリカにしてもイラクにしても、神に祈っているが、誤った信仰、盲信は非常に危険である。
 レビューニツヒ学者は、キリスト教には三つの特色があると語った。@キリスト教は歴史的宗教である。Aキ
リスト教は教理的宗教である。Bキリスト教は実践的宗教である。指導者たちの誤った指導力は人々を滅亡に導
く。私共キリスト者のために、国、県、市町村の指導者、教育界、実業界、教会の指導者たちのために祈ろう。
「主の御心であれば、生き永らえて、あのことをしよう。」(ヤコプ四章一五節)
 「主よ、御心が、天にも地にもなるように」と主の祈りを今日も祈ろう!!

週報(2003年3月16日)

  受難節(レント)を迎えて
                                              朝位真士
 三月五日から四月一九日迄、四旬節、受難節を迎える。これは復活日の前の六主日を除いた四〇日の期間を言
う。復活日の前夜に受洗希望者が事前に教育を受け、断食し、祈祷して準備する慣行が二世紀頃から始まり、レ
ントはそれに由来すると言われる。初めは任意的であり、期何も一〜二日であったが、ニカイヤ総会議(三二五
年)の後、教会の世俗化に対する対策として四〇日間が公式に定められた。期間が四〇日とされているのは、レン
トがイスラエルの民の荒野における四○年間、あるいは主キリストの荒野における四○日の断食(マタイ四・一〜
一一)に倣って、信仰者が節食、節欲、克己に努めることを目的として定められたからである。レントの初日は、
灰の水曜日(今年は三月五日)と呼ばれている。これは、中世から西方教会でこの日に主キリストの受難を覚えて
頭上に灰をかぷったことに由来している。プロテスタントの諸教会においては、この行事が比較的自由に解釈さ
れ行われている。(キリスト教辞典引用)
 私はこの期間にいろいろと考えさせられている。桜ヶ丘教会は今一番試練、受難の時ではないだろうか。確か
に過去に於いてもいろんな困難な苦労はあったと思うが、今迄少なくとも私が赴任しての十年間は、皆様方の協
力と支援と祈りによって支えられてきたと思う。しかし段々と高齢の方々や御病気の方々が増加し、失業、倒産
等で全体的に教会の献金は少なくなっており、人数も減少している.勿論これは私共の責任もあるが、何よりも、
桜ヶ丘教会の試練の時であると思う。しかし、現状は困難に見えるけれども、教会の主はイエス・キリスト様で
ある。この方に期待して、祈り、労し、献げて参りましよう。復活された主に出会う日が来ることを待ち望みつ
つ!!

週報(2003年3月9日)

   最近考えている事
                                             朝位真士
 「それゆえ信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
                                      (コリント一・一・一三)
 私は、最近、親しい方が召天された事を聞いた。一人は、東京聖書学校時代一九七一年から四年間、淀橋聖書
学校時代に学んでいた山田彰先生である。彼は元東宝の看板スターで、加山雄三、司葉子、星由里子等と東宝の
黄金時代を舞ったスターであったが、ポロポロになって当時淀橋の小原十三司師を頼り、ウエスレアンの方へ行
った。大変神様に用いられて、土地、会堂も与えられ、信者も増加し、一人息子も献身した。これからという時、
箱根のケズィックの帰りに信者を車で送り届け、一人になった時に突然の事故で急死であった。もう一人は、九
州の以前奉仕していた教会の信者で、家族五人が全部洗礼を受けた、大変恵まれた家庭であつた。しかし、ガン
の為に急逝したのである。大変残念である。神の使命が二人共終わったと思。ご遺族の上に神の慰めを祈る。
 さて、「信徒の友」日毎の糧、三月二日の日課で、ルカ九・一〇〜一七の「彼らは言った。『わたしたちには
パン五つと魚二匹しかありません・・・』」(一三)がとりあげられていた。「ここに示されている事柄は、
『しか』を打ち破る祝福の業ととらえることができます。弟子たちはパン五つと魚二匹しかないことに限定し、
否定的な思いに支配されました。私たちも『小さな群でしかない教会では・・・財政では・・・』と極めて否定
的消極的になることがしばしばあります。」と書かれていた文章に、私自身もこのような現状に影響されて否定
的消極的になっていたことに気づいた。「神は何でも出来るからだ」という肯定的、前向きな信仰をもって、主
と共に歩もう!!

週報(2003年3月2日)

   二〇〇二年度第二回教会総会を終えて
                                              朝位真士
 先週の礼拝後二〇〇二年度第二回教会総会が終わった。出席者は教職を含めて二四名、委任状一七名、合計三
七名であった。まず第一号議案「二〇〇三年度宣教方針」を私が述べた。「主イエスを信じなさい。そうすれば、
あなたも家族も救われます。」(使徒一六・三一)の御言葉をもって、今年の目標を「家族の救い」に設定した。
副題は「信仰縦承」である。具体的には、チャペルコンサート(五月二五日、岸義紘先生、テナーサックス演奏、
メッセージ)、クリスマス・チャペルコンサート(一二月一四日、ボーマン先生のチェロ演奏、メッセージ)、クリ
スマスイヴ集会(一二月二四日、相良おり絵さんのバイオリン演奏)等の集会を開く。またできたら家庭集会を月
一回でも数ヶ月一回でも開いて欲しい。秋頃にはバザーが開かれたら、地域の人々との交流ができ、宣教のチャ
ンスとなるのではないかと思う。
 第二号譲案「二〇〇三年度一般会計収支予算案」と第三号議案「二〇〇三年度会堂会計収支予算案」の主旨説
明を松下会計役員にしていただいた。
 第四号議案「役員改選の件」が上程されて、七名の役員を睾挙した。一週間牧師が選出された一人一人に意向
を聞いた。その結果、横田正作兄、横田たみ子姉、松下慶夫兄、中本達之助兄、杉浦洋子姉、榊原紀恵子姉、安
東努兄(順不同)の七名が役員に決定した。この方々が二年間桜ヶ丘教会の役員として奉仕してくださる。どうか
信者の皆様方は祈りをもって七名の方々をお支えください。私共夫婦(朝位真士、フミ子)の為にもお祈りと御支
援ください。
 栄光を主に帰して。

週報(2003年2月23日)

   最近考えている事
                            朝位真士
 「主は驚くべき御業を記念するよう定められた。」(詩一一〇・四)
 私は一九九四年四月に北九州より桜ヶ丘教会へ家族四人で赴任した。
早や一〇年目を迎える。約九年間を振り返ると、二つに分類できる。一
つは、一九九四年〜一九九七年迄で、会堂建設の為の数ヵ年であった。
最初の予定地が競売物件で落札されて、一時はどうしたらよいか悩み、
苦しみ、祈り、実行した事が、現在地での会堂建設であった。場所も困
難を要したが、資金繰りにも役員を始め教会員の方々は苦しんだ事だと
思う。今思えば、すべてが神の配慮で人々を動かし用いられたと思う。
不思議な人々を神は用いられた事である。一九九七年一二月新会堂が与
えられた。
 二つ目は、会堂に新しい人々をお招きする為に、数年間は春と冬にチ
ャペルコンサートをしたり、ゴスペル教室がラニー・ラッカー兄の指導
で一年間縦続された。バザーも昨年一回開いた。ケイト姉による英会話
教室も一年間開いた。特伝近くには教会案内を配布した。前田兄の個人
的好意で桜ヶ丘教会のホームページを開設して、その中より何人かの方
々が教会に来られた。まだ桜ヶ丘教会をPRする方法はあると思うが、
何とかして、一人でも新しい方が教会に来られ、救われる事を願ってい
る。

週報(2003年2月16日)

   誇り高ぶるな
                            朝位真士
 「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在
し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたは自分の
命がどうなるか、明日のことは分からないからです。あなたがたは、わ
ずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたが
たは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよ
う』と言うべきです。」(ヤコプ四・一三〜一五)
 私は、右の御言葉を与えられて今、神の前に深く反省しています。二
月九日の午前、教会学校の前に準備をしていた時、不覚にも階段から足
を踏み外して、右足をくじいてしまいました。その夜は、一晩中痛みで
寝る事が出来ませんでした。いつも、歩き慣れている教会の階段、自分
は大丈夫、ケガをする事はないと、高慢にも思っていました。しかし、
神様から一つのテストを受けて、失敗しました。私の高慢のゆえに、神
は私を打たれました。私は自分の不信仰を神の前に悔い改めました。教
会員の方々にも家族にも迷惑をかけてしまいました。神と人の前に素直
に「ゴメンナサイ」。
 二〇〇三年教会総会が近づいてまいりました。桜ヶ丘教会の皆様方、
教会員としての責任を果たしてください。主イエスを中心とした、あな
たの教会の大切な教会会議です。教会のため祈ってください。奉仕の業
を担ってください。教会はキリストのものであり、皆様方一人一人のも
のです。神の栄光の一人一人として。

週報(2003年2月9日)

  献堂五周年を迎えて
                           朝位真士
 二月一日で献堂五周年を迎えました。桜ヶ丘教会の新会堂は、会員の
方々の大きな夢であった。私は、数年前の会堂建設にまつわる事柄を昨
日の如く想い出します。一九九五年一二月に手付け一千万円を打って、
五二坪の土地を購入する時、後の五千二百万円の支払いも神様が不思議
なように導いて下さり、当時の東海銀行銀座支店にて、手形八千万円枠
を頂き、一九九六年一月三一日に銀行より六千万円の手形を落として残
額を返済した。六月にナスハウスと工事契約を結んだが、周囲の反対に
あい、工事が一年中断した。裏側の家の立ち退きによって、教会が一千
万円立て替えて北側より工事が再開された。その間、特定の方の多額の
融資が与えられ、マンション三つを時間をかけて売却し、二〇年ローン
五千五百万円を結び、毎月二八万九一三円を返済している。数少ない人
数で毎月ローンの返済ができていることは、会計役員を始め信徒の方々
の献身的な努力と献財のゆえだと思う。工事は九七年六月に着工して、
一二月一七日に終わり、一九九八年二月一日に献堂式をすることができ
た。その間、天国に行かれた方々も何人か出ているが、残された者たち
で主の業を励んでいきたいと思う。

週報(2003年2月2日)

   教会総会に出席しよう
                            朝位真士
 私共の教会は、日本基督教団に属する宗教法人格をもった桜ヶ丘教会
です。その教会は、宗教法人法に定められている通り、教会総会を開催
しなくてはなりません。都に認証していただいている宗教団体として当
然の義務と責任があります。その為、私共は年に二回、大体四月と次年
の二月頃、教会総会を開くことになっています。
 教会総会は教会の最高の議決機関であります。教会総会の定足数は五
分の一以上です。私共の教会は五一名の現住陪餐会員ですので、最低出
席者が一一名以上必要です。議題としては、一、二〇〇三年度宣教方針
(牧師が述べます)、二、二〇〇三年度一般会計・会堂会計予算案(松
下役員が説明されます)、三、役員選挙(二年任期)等があります。ど
の議題も桜ヶ丘教会にとっては大切な項目ばかりですので、是非会員の
方々のご協力とご参加をお願いいたします。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くて
も、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一
つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろ
うと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるた
めに洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(一コリ一
二・一二〜一三)教会の体の一部分として、任命を果たさせていただき
ましょう。

週報(2003年1月26日)

   「信仰の縦承」について
                             朝位真士
 日本のクリスチャンの人口があいかわらず一%未満である原因を分析
した上野亘先生は、『唯一神は愛なり』の中で、「明治時代には、かな
りの数のクリスチャンがいたと言われています。・・・このクリスチャ
ンの子孫は、今どこにいるのでしようか。もし当時のクリスチャンが唯
一神と神の区別が明示された聖書を読んでいたとすれば、彼らの子孫が
その聖書を読んだり、また親から、なぜ神は唯一神でなければならない
のかを、聞いたりする機会があったはずです。そうなっていれば、少な
くとも全能の神は唯一であるという自明の真理が、その子孫の頭に入っ
たはずです。ところが、今その子孫たちは、何を拝んでいるのでしよう
か。もしその子孫に聖書の唯一神の知識が入っていれば、その子孫が結
婚式をするとき、日本の神社で結婚式をすることができるでしようか。
聖書の唯一神の前で誓いを立てなければ意味がないということがわかる
はずです。」と語っていた。
 私はこの文章に出会って非常なショックを隠しきれない。「信仰縦承
の条件」は、最初に信じる神概念にあるということである。日本のよう
な八百万神のある国では、天地創造の神は唯一神であるということを信
仰のスタート時において明確にすべきであるということである。今年の
目標「家族の救い」もこの原点に尽きるのではないだろうか。

週報(2003年1月19日)

   三人の方々の召天に際して
                                              朝位真士
 先週FAXで、また電話で三人の方々の召天の報に接した。一人目は貝塚ふく先生で、一月八日召天、七六才。
日本キリスト教団新庄新生教会を長く牧会された先生で、学校の教師から献身されて、牧師として長く東北の雪
の多い教会で独身の婦人牧師として地道に牧会された方である。私もホーリネスの群年会でしばしばお会いした
事がある。温厚で大柄な先生で、物腰の柔らかな先生で、親しみやすい、やさしい先生だった。東北の地で育ち、
地元でコツコツと伝道牧会された婦人教職である。
 二人目は横山さめ姉(横山義孝先生の御母堂)で、一月八日召天、一〇〇才。この方はあまり存じないが、話に
よると横山英男牧師の夫人で、御夫君と共に浦和別所教会の創設に関わりながら児童養護施設ホザナ園の創設に
尽力された方で、当時戦災孤児達を自分たちの子供と同じように、時には自分の子供よりもやさしく扱い、困難
の中自分の教会と児童養護施設を創設された。
 三人目は神山きえ先生で、一月九日召天、八四才。天門教会前牧師。私はこの神山先生の告別式に二二日出席
した。略歴によると、先生は有名な一宮政吉先生(救世軍の士官)の長女として誕生され、女学生の一五才の時、
淀橋教会の前牧師、小原十三司師より受洗。東京女子大学を卒業後、一九四五年故神山良雄先生と結婚され、上
尾天門教会、東京天門教会の牧師を歴任され、信愛荘で召天された。先生は温厚なお人柄で、お世話をよくされ、
人々からお母さんと慕われ、牧師夫人として良く夫を助け、先妻の子供を育て、愛をもって人に一方的に与えつ
くした牧師であった。
 三人の方々の召天を聞き、私共の生き方について身を正された思いであった。

週報(2003年1月12日)

  信仰の縦承
                                          朝位真士
 「家族の救い」という目標で新年に入り、今日で二週間を経過した。「あなたがたに神の言葉を語った指導者
たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブル一三・
七)とあるように、ここでは第一に約二千年の歴史の厚みをもつキリスト教会の信仰縫承の事を言っており、第二
に原始教会、ニカヤ、カルケドン会議、宗教改革がある。
 第一のキリスト教会の歴史における伝統といぅのは、教会がイエス・キリストによって与えられた啓示の真理
を歴史を通じて伝え、たえず信仰者の信仰生活の中に現在化することであるといえよう。それは過去の遺産の伝
達というだけでなく、聖塞の導きによって民族と文化の相違を超えて、キリストを証する教会の信仰の働きとし
て考えられる。
 第二の原始教会、宗教改革における信仰准承は、一つにイエスと原始教会、二つにパウロにおける啓示と伝承
の問題、ニカヤ、カルケドン信条(三二五AD)における基本信条、宗教改革者たち、@信仰のみ、A聖書のみ、
B恩寵のみ、ウエスレーとメソヂスト信仰箇条、二五ヶ条のメソヂスト信仰箇条、ウェスレーによる神学の四辺
形、聖書、理性、伝統、体験が強調される。ウェスレーは、教会の伝統と聖霊による信仰体験を重んじた。
 以上のような基本的な理解を得てなお、信仰継承は私共の教会の死活問題である。何故なら、若い人が教会に
導かれる事により新しい人が救われ、教会の存在が決まってくる。皆様方には、今年も救われる方が与えられ、
教会から遠のいている方々の信仰の復興がなされる事を、是非是非祈って項きたい。また、今年一年どなたかを
主イエスのもとに導いて頂きたい。小さな努力から始めてまいりましよう!!

週報(2003年1月5日)

   今年の方向性
                                               朝位真士
 「主イエスを信じなさい。そぅすれば、あなたも家族も救われます。」 (使徒一六・三一) という聖句が与え
られ、「家族の救い」という目標が与えられて、元旦礼拝よりスタートした。テキストの使徒一六章二五〜三四
節を通して学んだ。パウロとシラスは、宣教の為、獄屋に入れられた。しかし彼らが困難な獄屋の中で神に祈り、
賛美をし続けていた時、大地震が起こり獄屋の戸が開かれた。パウロ達囚人が逃げずに待っていた時に、ローマ
の獄吏は「先生方、救われるためにはどうすべきでしようか。」と尋ねた。二人は言った。「主イエスを信じな
さい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、「自分も家族も皆すぐに洗礼を受けた。」とある。
ここで「救い」すなわち「主イエスを信じる」とは、三つの事を含んでいる事を確認したい。(一)「主イエスを
信じる」ということは、悔い改めを含んでいる。(二)「主イエス」とあるように、ナザレのイエスを救い主と信
じ、このイエスこそ人生の主であるという信仰を告白する。(三)「主イエスを」を直訳すると「主イエスの上
に」となることから、信じるというのは主イエスの上に身を置くこと。すなわち、自分をイエスにお任せする。
 私共は今年の方向性として、「家族の救い」に目標を設定したいと思う。具体的には、教会で行おうとしてい
る、五月二五日のチャペルコンサート(岸義紘先生、テナーサックス演奉、メッセージ)、一二月一四日のクリス
マス・チャペルコンサート(ボーマン師のチェロ演奏、メッセージ)、一二月二四日のクリスマス・イヴ集会(相良
おり絵さんのヴァイオリン演奏等)等に家族、友人、知人をお誘いしたり、月一回でも、数ヶ月一回でも家庭集会
を開こう。又、普段の時に家族を教会にお導きしよう。それには、皆様方の信仰の確立がまず先決である。


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聖歌392番 「神は愛なり」

1.神(かみ-)はひとり-子を/たま-うほどに-/世人(よび-と)を愛(あぃ)し-たもぅ/神(かみ-)は愛(あぃ)なり/

(おりかえし)あ、神(か-み)は愛(あい-)なり/汚(けが-)れはてし/われ-さえ愛(あぃ)し-たもぅ/神(かみ-)は愛(あぃ)なり。


2.罪(つみ-)をばおか-して/神(かみ-)にそむき-/さか-らうわれ-さえ/なお-愛(あぃ)したもぅ/

3.罪(つみ-)ゆるされんため/われ-に代わり-/み子(こ-)イェス十字架(じゅじ-か)に/死に-たまえり/

4.いざ-とく来(きた-)りて/神(かみ-)の愛に-/なが-身をゆだ-ねよ/救(すく-)わるべし/

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