週報バックナンバー


週報(2000年12月31日)

   二〇〇〇年をふりかえって
                                              朝位真士
 「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩一三六・一)
 今年は一月一九日に井上スミ姉が召天し、鈴木英子柿(田中順子姉の母上)が四日二四日に召天した。四月三〇
日数会総会が開催され、牧師の宣教方針と三つの課題@個人信仰の確立、A全家族の救い、B個人伝道による教
勢倍加を語った。今年の集会、一〇月一〇日(火)秋期特別集会(講師朝野洋先生(救世軍元中将)、西村信子女史
(ソングシンガー))、一二月一〇日(日)クリスマスチャペルコンサート(ペアンテ先生夫妻)、一二月二四日(日)ク
リスマスイヴ集会(森下貴史神学生)も無事終わった。ホ群首都圏夏期聖会が七月二四日〜二六日まで京王多摩プ
ラザホテルで開催され、百三十数名が参加し、私は実行委員長の責務を教会の皆様の御協力によって全うした。
婦人修養会が六月二一日(水)教会で開催された。私共は、九月一六日(土)〜一八日(月)まで北九州復興教会曽根
献堂二〇周年記念礼拝に招かれた。又、一〇月二一日〜二四日まで鳥取新生教会の特別礼拝に招かれた。九二年
の歴史のある教会であるが、試練の中に現在十数名の会員で戦っている。又、記念すべき事は、東京大聖書展が
一一月二日〜一九日まで東京オペラシティー二階で開催され、のべ五万二千人の入場者があった。又、長年の祈
りの課題であった教会の鐘が、四月二日に長崎から取り付けられた。毎週日曜日午前一〇時一五分頃、現在のと
ころ私が鳴らしている。新会堂が与えられて三年目を経過して、教会もだんだんと地域に開かれ、教会学校も徐
々に人数が定着してきた。反面、一般礼拝では昨年ょり少し出席者数が減少しているが、病気の方や出席できな
い方も常に桜ヶ丘教会の事を覚えて下さっていることは大変心強く感じる。主に感謝しつつ!

週報(2000年12月24日)

   二十世紀最後のクリスマス
                                             朝位真士
 私は受洗して三九年目になる。一九六一(昭和三六)年一二月二四日に、北九州復興教会の故山中日出刃牧師よ
り受洗した。 当時私はマンドリンクラブに入部して毎日のように練習に専念していた。クリスチャンになってか
らボランティア活動に力を注ぎ、高卒後、商社に就職し、ボランティア活動は縦続され、日曜日の礼拝後の二時
間、盲人施設の子供たち(小一〜高三)約十数名にマンドリンの技術を教えた。
 二十世紀最後のクリスマスを迎えるにあたって、感慨もひとしおである。もし私が教会に導かれなくて、洗礼
を受けていないとしたらどうなっていたかと思うと、本当に生き甲斐のない人生を送っていたと思う。今日、ク
リスマスメッセージとして与えられたテキスト「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独
り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・一六)、ここに神の愛を端的に
見ることができる。永遠の命(天国)を与える事を願っておられる。御子イエス・キリストの誕生は、「自分の民
を罪から救う」また、「神がいつも共にいて下さる」というグッドニュースである。
 私は、高三のクリスマスに神の前に決断してクリスチャンになった。 その為に、母教会の先生を始め、信者の
方々の熱い祈祷と労苦があった。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろう
か。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を払えようか。」(マタイ一六・二六)
 クリスマスは、私達の人生に最大のプレゼントを与えてくれた。滅びないで救う、なんという素晴らしいメッ
セージではあるまいか。ただ信じるだけですべての道が備えられている。神はこのクリスマスに一人でも多くの
人が、この神の愛のプレゼントを受け取ることを望んでおられる。

週報(2000年12月17日)

   続クリスマスチャペルコンサート
                                             朝位真士
 去る一二月一〇日、予定どおりベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生を迎えて、クリスマスチャペルコンサー
トを終える事が出来た。私は、この集会を通していろいろな事を経験させて頂いた。まず、一週間前に、桜上水
駅に有料でクリスマスチャペルコンサートのポスターを掲示した。今回は、カラーチラシを百枚、白黒を二百枚、
前田兄の協力を得て作成された。それを、会員、求道者、近所のポストへ配布した。今回の特色は、友人知人と
教会関係者が来られた事であった。人数は子供を含み七〇名、礼拝献金は五七四七五円で、昨年一二月一九日は
礼拝六二名、献金四六九五〇円であつた。やはり今年は昨年に比べて豊かな結果であった。ボーマン先生のCD
も十枚以上売れた様であった。出席された特色を見ると、やはり、教会員の友人、知人、家族と、ポスターやチ
ラシで来られた方も多くいたのではないか。ちなみに七〇名の出席者のうち四二名がクリスチャンであり、二八
名はノンクリスチャンであるという結果が出た。近頃の伝道会、特別集会が変わった。それは、メッセージだけ
ではなく音楽的な要素を取り入れて、出席者が親しみやすい雰囲気を作って、聖書のメッセージを語る方法の増
加傾向にある。勿論、集会に出席した方がすぐクリスチャンになるとは限らないし、続けて集会に来るとは限ら
ないが、少なくとも、教会に近づく接点は与えられ、地域に開かれた教会の目的は達したのではないだろうか。
特に、ボーマン先生のような素晴らしい演奏が出来、メッセージもストレートで分かりやすいというパターンは、
大変意義のある事だと思う。何しろ、年間百六十回ある演奏会をこなし、その合間を見て、全国の教会に行かれ
ている先生方である。是非来年も私共の教会に来て頂きたいと祈る。

週報(2000年12月10日)

   クリスマスチャペルコンサート
                                             朝位真士
「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」
                                     (マタイ二・一一)
 二〇〇〇年のクリスマスチャペルコンサート礼拝を迎えることが出来て感謝申し上げます。今年のメッセージ
は「キリストにある祝福」と題して、ベアンテ・ボーマン先生{東京交響楽団首席チェロ奏者、神学博士、牧師)
です。先生は一九五一年スウェーデンで誕生され、二一歳からチェロを始め、王立音楽大学卒業後、西ドイツの
フォルクヴァンク音楽大学院、ヘルシンキ市のシベリウス・アカデミー大学院で学び、一九八〇年より首席チェ
ロ奏者として東京交響楽団に入団されました。フィンランドで聖書を学び、神学校にて旧約釈義を教えておられ
る神学博士でもあります。その先生のルリ子夫人(武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツの国立フォルクヴァ
ンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれた)と共に私共の馬小屋をイメージした教会にク
リスマスの音楽とメッセージを携えて来られました。超多忙な御二人で、日本全国各地に手弁当でも時間があれ
ば喜んで行かわる、まさしく神の福音と音楽の使者です。昨年も来ていただきましたが、出席された方々より来
年も是非というお声がありましたので、今年も先生方に無理を申しました。このクリスマスのシーズンに、あえ
て私共の桜ヶ丘教会に来て下さった事を、心より先生方と神様に、そして御出席下さっている皆様に感謝を申し
上げたく存じます。この会堂は、音響には特別に力を注いでいまして、プロの音響設計や、大学院の学生達の研
究会堂として用いられました。特に室内楽には大変適しているホールであるという事を、早稲田大学の山崎教授
も語っておられました。この会堂が神の栄光の為に用いられる事を心よりお祈り致します。

クリスマスと年末年始礼拝は次のとおりです。どちら様もお気軽にお越しください。
クリスマス礼拝  12月24日(日)午前10時半
クリスマスイブ  12月24日(日)午後 7時
年末感謝礼拝   12月31日(日)午前10時半
21世紀元旦礼拝  1月 1日(月)午前11時

週報(2000年12月3日)

  ザカリヤの預言
                                             朝位真士
 序、西東京教区の「教職、信徒の伝道協議会」のセミナーの話をする。日本の教会の将来の危機について、古
屋安雄師と野村裕之兄のお話を語った。
 本論において、ルカ一・六七〜八〇より、「ザカリヤの預言」というテーマで語った。洗礼者ヨハネの父ザカ
リヤは聖霊に満たされ、神のなさんとするみわざについて預言した。彼は、イスラエルに与えられた神の恵みを
言う。神はイスラエルの民を顧み、神自ら代償を支払ってイスラエルを罪の中から救い出される。彼は聖霊のゆ
えに、親族マリヤのやがて産む者が、その選びの器であることを知り、告白している。そして彼は神の救いの約
束が成就することについては、確信をもって述べている。彼の息子ヨハネは、救い主の先駆者として働き、来る
べき救い主の罪のゆるしによる救いの恵みを告げている。次に、パークレーによれば、七五〜七七節はキリスト
者の歩むべき道を描き出している。@まず準備がなければならない。人生はすべてわれわれをキリストに導く準
備である。A知織がなければならない。人々はイエスが現れるまで神がいかなる方であるかを知らなかった。B
赦しがある。赦しは刑罰の放免というよりも関係の回復である。C平和の道を進む新しい歩みがある。ヘブル語
の平和は、問題から解放されるという意味だけではない。それは人間の至福に貢献するものすべてを意味する。
キリストを通して、人は生命に輝く道を歩むことができるようになる。そこには、もはや死を意味するものは何
もない。
 幼な子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによ
る救いを知らせるからである。(ルカ一・七六〜七七)

来週(10日)の礼拝はクリスマスチャペルコンサートです。

週報(2000年11月26日)

  洗礼者ヨハネの誕生
                                                 朝位真士
 先週はルカ一・五七〜六六を通して「洗礼者ヨハネの誕生」と題して語った。
 序に於いて、関連記事としてルカ一・五〜二五を引用した。
 本論に於いて、一・五七〜六六を中心に語った。老祭司ザカリヤとエリサベツの夫婦に、月が満ちて男の子が
生まれた。生まれた男の子には、ザカリヤの指示によりヨハネ(主は恵み)という名が付けられた。そしてその時
からザカリヤ(主は覚えておられる)は、元のように口がきけるようになり、その口で神を讃美した。洗礼者ヨハ
ネの誕生については、これまでも不思議なことが多く起こった。神殿でザカリヤが見聞きしたこと、彼が香壇か
ら戻った時ものが言えなくなっていたこと、マリヤの訪問、そして老年であったにもかかわらず彼らの間に告知
どおり男子が誕生したこと、慣習に反して(五九〜六一)ヨハネという名を付けたこと、その瞬間に老祭司の口が
再び開いて神をほめたたえたこと。こうして、ヨハネに対する関心と期待は人々の間に高まっていった。
 新約聖書学者ウイリアム・バークレーは、「ここで、ひとりの子供が家族の仲間に入ることは、二つの意味を
もっている。第一に、それは夫と妻に人生がもたらす最大の特典である。それは神に感謝すべきことである。第
二に、それは人生の最高の安住である。というのは、その子は無限の可能性を秘めているのであり、その可能性
が実現されるかされないかは、ひとえにその両親と教師にかかっているからである。」と言っている。私は、こ
こで結論を語るならば、教会学校の使命は重大で、桜ヶ丘教会の宣教に大きな意味があると思うし、普遍的に申
し上げるならば、信仰縦承は、日本の教会の将来にも関わる重大な事項であるということを再認識したいもので
ある。

[青年会よりお知らせ] 来週(3日)2時半からの経堂の恵泉女学園のクリスマス会にみんなで行く予定です。

週報(2000年11月19日)

   マリヤの讃歌
                                               朝位真士
 先週はルカ一・四六〜五六を通して「マリヤの讃歌」と題して語った。
 序に於いてマリヤ讃歌の関連記事として、サムエル記上二・一〜一○を引用した。「ハンナの祈り」の箇所で
ある。
 本論に於いて、ルカ一・四六〜五六の本文を拝読した。マリヤは主を讃美する。彼女は、まだ救い主の誕生を
目の当たりにしていないのに、自分の身に起こったことのゆえに、すでに全世界に及ぶ救いがすべて成就してし
まったかのように、途中からは過去形で歌っている。それは、救い主イエスを宿した自分が、「いやしいはした
め」であるのに主が目を留めて下さったこと、そしてその救いを彼女が悟ったからであろう。「主を恐れかしこ
む者」「低い者」が高くされ、「心の思いの高ぶっている者」「権力ある者」「富む者」が低くされるという逆
転は、新約聖書の時代になって、救いは神のあわれみによるということが一層明らかになるにつれて、大きくな
つている。
 新約聖書学者ウイリアム・パークレーによれば、このマリヤの讃歌(一・四六〜五六)は、神による三つの革命
を語っている。@神は心の思いのおごり高ぶる者を追い散らす。それは道徳的革命である。キリスト教は高慢の
死にほかならない。人がキリストの生にそくして生きようとすろならば、高慢はその最後の仮面までひきはがさ
れてしまうからである。A権力ある者を引きおろし、卑しい者を引きあげる。これは社会的革命である。キリス
ト教は、この世のレッテルや地位に終わりを宣告する。B飢えている者を良いもので満たし、富んでいる者を空
腹のまま帰らせられる。これは経済的な革命である。キリスト教は各個人ついで世界の中に革命をよび起こすの
である。

来週(26日)礼拝昼食後、会堂の大掃除をします。(元気な中高生のみなさん、手伝ってね!!・・・HP管理人)

週報(2000年11月12日)

   主と共にいる
                                             朝位真士
 テサロニケ一・四・一三〜一八を通して「主と共にいる」というテーマで語った。
 序論で、召天者記念礼拝「聖徒の日」について、「この日は、信仰の先輩たちのことを想起しながら、お互い
が担っている使命を自覚することが必要である。」という事を語った。
 本論では、今日のテキスト、四・一三〜一八を中心に語る。その中で、クリスチャンが一番幸せに思うことは、
死の問題に対して解決がついているということである。死は一般的には、残酷と絶望のきわみのほかの何物でも
ない忌まわしいものであったが、そこに希望と勝利を確信できるのはキリスト教信仰だけがもつ最大の祝福であ
る。死の解決は、キリストの再臨と密接に結び付いている。四・一三〜五・一一までは、この手紙の主要なテー
マである主の再編と死の問題への誤解に対する答えの部分であり、それぞれ「主とともに」(四・一七、五・一○)
ということばで結ばれ、最後は慰めと励ましの勧めで終わっている。『ハイデルベルグ信仰問答』問一、「生き
ている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」の答えは、「わたしが、身も魂も、生きている
時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることでありま
す。」である。生と死が希望と慰めのうちに結ばれ、つながれるのは、イエス・キリストとの変わらない人格的
交わりにおいてである。このキリストとの交わりは、再臨の前も後の何ら質的な差がない。有限な時間から永遠
へ、朽ちるものから朽ちないものへ、世の終わりから新天新地へという想像を絶する大きな変動の中で、今も確
かなものとして持ち続け、そして変わらず深まっていくのは救い主キリストとの親しい愛の交わりである。この
「いつまでも主と共にいる」という御言葉を私たちの人生に於いて持ち続けよう。

週報(2000年11月5日)

   福音と神の力
                                             朝位真士
 先週はローマ一章一六〜一七節を通して「福音と神の力」というテーマで語った。
 序論で、宗教改革記念の事について語った。特に、マルティン・ルターが宗教改革の口火を切ったこと、プロ
テスタントの三大原理、@聖書のみ、A万人祭司、B借仰のみ、について語った。
 本論に於いて、ローマ一・一六〜一七節を通して、福音の基本的理解として「御子に関するものです。御子は、
肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によって力ある神の子と定められた
のです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ一・三〜四)について語った。次に信仰とは何
かを説明した。信仰とは、忠誠・誠実、確信を意味し、実際的には不滅の希望と同意義であり、その対象はイエ
ス・キリストである。次に救いについて、@肉体の病からの救い、A危険からの救い、B生活の悪影響からの救
い、C失われた状態からの救い、D神の怒りからの救い、等があることを語った。最後に義認の概念について語
った。神が罪人を義とされるということは、神が罪人をあたかも全く罪人でなかったかのように取り扱われるこ
とである。「正しい者は信仰によって生きる」という言葉はハバクク二・四節の引用である。ハバククはエルサ
レムにバビロン軍による破滅が臨むということを預言の主題にした。それは神の仲介によることで、その時、心
がまっすぐでなく高ぶる者は滅ぼされるが、義人は生き残る。「生きる」とは、「救われて生きる」という意味
であり、「信仰によって」は、「信じるすべての人」に相対している。「義人」とは、神の義を与えられた人の
ことである。救いを受けるうえで、キリストにおいて与えられる神の義にのみより頼む信仰は、主にのみより頼
む旧約の信仰と本質的に同一のものである。

来週(12日)幼児祝福式(9時より教会学校礼拝において)

週報(2000年10月29日)

  鳥取新生教会特伝に招かれて
                                              朝位真士
 私は、ホ群の鳥取新生教会に秋期特伝の講師として十月二一日(土)〜二四日(火)迄行って来ました。十月二一
日(土)東京駅を午前九時四五分発ひかり一四七号で出発、姫路に午後一時二八分到着し、姫路を午後一時四八分
発特急はくと五号に乗り換え、午後三時二六分に鳥取駅に到着した。山田先生、役員岩田柿の出迎えを受け、教
会にタクシーで到着して、共に祈った。寄宿先のNTTの保養施設「風紋荘」にて休憩をとり、夕食後、第一回
目の伝道集会が午後七時から「人生の重荷を主に」というテーマで、マタイ一一章二八〜三〇節を通して、山田
牧師司会のもとで始まった。普段の礼拝は牧師を入れて七名平均のところ、一三名の方々が集われた。翌朝二二
日(日)午前十時三〇分より特別礼拝「神の愛に生きる」というテーマで、Tヨハネ四・七〜二一を通して語らせ
て頂いた。一五名の参加者であった。その夜七時から特別伝道集会で「私を強めて下さる方」というテーマでフ
ィリピ四・一〇〜一三を通して語った。一一名の参加であった。翌日は休みを頂いて、教会員の車で市内見学を
させて頂き、翌二四日は午前九時五〇分鳥取発で、汽車を乗り継いで東京迄帰った。午後四時頃であった。皆様
方のお祈りと御支援を強く感じた御用であった。
 鳥取地震のことが気になっていたが、西部はかなりたいへんな被害であったが、東部は少し壁にヒビか入る位
で余り大きな被害はなかったと報告を聞いた。
 鳥取新生教会は一九〇八年九月に開拓伝道が始まり、いろいろな試練の中を通ってこられた教会で、信徒は数
人位であるが、皆、信仰の勇者ばかりで、中でも九一才の老信徒は皆出席(礼拝、祈祷会等)で、現役で教会の役
員をしておられて、かくしゃくとしていて、教会の歴史をそのまま歩んでこられた方であった。鳥取新生教会に
神の祝福を祈る。

来週 召天者記念礼拝

週報(2000年10月22日)今日は私が教会へ行かなかったので週報はありません。ごめんなさい。


週報(2000年10月15日)

  イエスの誕生の予告
                                             朝位真士
 先週はルカ一・二六〜三八を通して「イエスの誕生の予告」というテーマで語った。
 序において、並行記事のマタイ一・一八〜二五を読み、イエス様の誕生の予告は他の記事でも語られている事
を紹介した。
 本論において、ルカ一・二六〜三八を中心に、特に、聖書本文よりの内容を紹介した。天使ガブリエルとマリ
ヤの会話を通してマリヤの心理的な変化と、信仰的進歩の変化を学んだ。最初は、ガブリエルの言葉に対して、
不信感をもっていたが、彼女の中に宿すイエス様が、神の子であり、人類にとって大切な人物である事を認識す
る。又、イエスという名前の意味について学んだ。特にマタイ一・一八以下より、「自分の民を罪から救う」又
「インマヌエル『神は我々と共におられる』」という意味や、彼の支配の永遠に続く、そして、何よりもマリヤ
の受胎告知は「聖霊によって宿った」事であり、生まれる子は「聖なる子」「神の子」と呼ばれる事等を知る時
に、マリヤは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と神の使いに語った。
 罪人である人間を救うためには、その救い主は私たちと同じ人間でなければならないこと、しかも私たちの罪
を代わって背負い、その死をもって罪人の罪の償いをするには、その人自身に罪があってはならないこと、この
二つの条件を満たしておられる方がイエス・キリスト様である。しかもイエス誕生の告知も、神のなさる恵みの
行為は常に一方的である。また、神の救いの計画が実現される段階に至って、その計画が人間の側の条件に左右
されることもない。神の恵みが本当に恵みであるのは、それを受ける資格が全くない者に与えられるからである。
 「神にできないことは何一つない。」神の全能を信じて進んでまいりましょう。

週報(2000年10月8日)

  洗礼者ヨハネ
                                             朝位真士
 先週はルカ一・一〜二五を通して「洗礼者ヨハネ」というテーマで語った。
 序において、ルカ伝の特徴について語った。ルカはギリシャ・ローマ的に高い教養をもった異邦人であった。
医者でもあるルカは、人類愛にあふれた世界的視野に立って、パウロの友または弟子として、その信仰、イエス
・キリストによる喜びのおとずれを全体を通じて強調している。
 本論においては、洗礼者ヨハネの誕生について、特に、父親ザカリヤ(主は覚えておられる)と母親エリサベト
について語った。彼らは、祭司であり、二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちど
ころがなかった。ところが、エリサベトは不妊の女であったので、彼らには子供がなく、二人ともすでに年をと
っていた。その時に、主の使いが現れ、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」と語ったが、ザカリヤは
「私はもう年寄りです。」と固執して、新しい神のみ業を認めず、彼は口がきけない状態になった。私共もこの
ザカリヤのように、常識的、理性的判断が優先して、信仰的決断が失われているとき、神のなさる新しいみ業が
ストップしているのではないか。神は、ザカリヤ、エリサベト夫婦に産まれる子供について「名をヨハネ(主は恵
み)と名づけなさい。」「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。」と語られた。私たちの信仰も、
人生における悔みや苦しみの最中にあっても、環状がどうであっても、「喜びとなり、楽しみとなる」のである。
信仰とはそういうものである。神は全能であり、不可能なことは何一つない。信じる私共の信仰に比例して、神
の業がなされていくのである。勿論小さな信仰であっても、神の業は最優先されていく。神をほめたたえよ!

週報(2000年10月1日)

  主のために働く
                                              朝位真士
 Tコリント三・一〜九を通して「主のために働く」というテーマで語った。
 まず一〜三節より、コリント教会には大別して三種類の人がいた。@生まれながらの人間(二・一四)、A霊の
人(三・一)、B肉の人(三・一)。第一の「生まれながらの人間」は、生まれ変わっていない人のことである。す
なわち不信者、未信者である。キリスト教の感化を受けて、思想的には変化し、教会に連なっていても、新生の
体験を持っていない者はこの部類に属する。第二の「霊の人」は、すべてのものを判断することのできる人で、
特に主の思いをよく知っている人。霊的に成長している人。「御霊に属する」人である。そして、このような人
は「霊の結ぶ実」すなわち、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の実を結ぶ人である。第三
の「肉の人」はお互いの間にねたみや争いが絶えない人であり、肉の業をしている。姦淫、わいせつ、好色、偶
像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ等の業をしている人。
 次にTコリ三・四〜九節を通して、パウロやアポロの働きについて語っている。彼らは人を信仰に導く道具に
すぎない。そして、信仰を成長させて下さるのは神であると教えている。実際に信仰の苗を育て、実らせること
のできる方は、神以外には絶対に存在しない。「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださった
のは神です。」(六)。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物な
のです。」(九)。私共も「主のために働く」神の協力者であり、同労者である。なんと光栄ある働きでしょうか。

* 上から9行目の「平和」は、ホームページ管理人の判断で「不和」に訂正しました。

週報(2000年9月24日)

  曽根献堂二〇周年記念に招かれて
                                           朝位真士
 私共は九月一六日(土)〜一八日(月)迄、曽根献堂に招かれました。
 一六日(土)午後一時発で羽田より北九州迄行き、曽根の牧師夫妻と役員達にお出迎えを頂き、七年ぶりの曽根
会堂に入り、少しの交わりと祈祷の時が与えられて、ホテルの方に行きその日は休みました。一七日(日)午前九
時過ぎ、先生が車でお迎え下さり、七年ぶりの曽根礼拝に出席させて傾きました。原田先生御夫妻を始め、信徒
の方々と私達、約四〇名位の礼拝でしたが、私は「私を強めて下さる方のお陰で」というテーマで、フィリピ四
・一〇〜二二節をテキストに、まず、私の救い、召命、献身、北九州復興教会曽根での一九年間の恵みを語りま
した。特に、会堂建築二回の恵み、復興教会と曽根での共同牧会、信者の方々と、約四〇日間八〇○○戸に個別
トラクトを配布した事、曽根での一五年間の恵みの証し、苦労した事が今では恵みであったと、語りました。妻
は、礼拝での奏楽、午後の清水と曽根の合同記念茶話感謝会での感話をしました。当時二〇年前の想い出が昨日
の如く写し出された様でした。不思議が一つ。会堂の時計が午後三時にストップしました。まさしく、時が止ま
って、二〇年前にタイムスリップした感がありました。清水からも二〇数名の方々が車を数台連ねて来られまし
た。かつての同労者、信徒の証し人達の顔を拝見させて傾き、輝いた晩年を迎えておられる事を感じました。広
大な三四〇坪の敷地に、建坪五〇坪のヨーロピアン的会堂、地域は空港、高速道略、フェリー乗り場があり、人
口が急増している、まさにこれからの日本伝道の将来の手ほどの雲を見る事が出来ました。
 「いかに幸いなことか主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。時が巡り来れば実を結び葉もしおれる
ことがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩一・二〜三)栄光を主に感謝する。

週報(2000年9月17日)

  夏期派遣の恵み
                                        森下貴史
 七月二七日〜九月一日まで、夏期派遣があつた。七月二七日〜八月一九日まで山陰、八月二〇日〜二四日まで
宮崎、八月二五日〜九月一日まで熊本で奉仕をした。
 まず山陰での恵みであるが、前半は、キャラバン隊を組んで、日本キリスト伝道会のチャペルコンサートを手
伝った。私たち神学生四名は、コンサートの前座で会衆讃美をするのが主であった。六ヶ所ほど教会を訪ねたが、
どの教会のコンサートもいつもの二〜四倍の人が来ていて、キャラバン伝道のすばらしさを知った。後半は、米
子教会での個人派遣であったが、隣の法勝寺教会のイスのニス塗り、床磨きを中心に行った。一番印象的であっ
たのは、日曜礼拝の時、教会員の一人が声を震わせて感慨探そうに座っていたことと、献金の感謝の時、久しぶ
りに礼拝ができたことを涙ながらに祈っていた女性に感動した。
 次に宮崎での恵みであるが、久しぶりに母教会の宮崎清水町教会の会員に会えたこと、また、皆の元気そうだ
つたことがよかった。都農教会で、先輩の久多良木先生の家族とも交わり、海で釣りができたのもよかった。
 最後に、熊本での恵みであるが、熊本城東教会の早天でのメッセージ、夜の聖書講義と、スケジュールがつま
っていたが、前回早天に五人、聖書講義に五人の人が集まって下さり、和気あいあいにスケジュールが終わって
よかった。
 米子教会で、普段慣れていない、草刈り、床磨き、いすのニス塗りなど奉仕し、上の先生と衝突したこともあ
ったが、神の恵みにより、最後まで耐え忍べたことも今ではよき思い出となった。今年の夏は、自分との新しい
出会い、発見があり、とてもよい夏の奉仕であった。

本日朝位牧師先生ご夫妻は、日本基督教団北九州復興教会曽根集会所献堂20周年礼拝の御用に出かけられています。
礼拝のお話は、東京聖書学校の森下神学生です。

週報(2000年9月10日)

  霊的義務
                                             朝位真士
 Tテサロニケ五・一六〜一八節を通して、「霊的義務」について語った。まず聖書を引用した。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにお
いて、神があなたがたに望んでおられることです。」
 ここにパウロは「霊的義務」を三つ語っている。喜び、祈り、感謝の三つである。
 まず第一に、「いつも喜んでいなさい。」「喜び」を考えるときには、その人がどのような状態なり環境なり
にあるかを考えることによって、その意味がより明らかになるものである。普通ならば、苦しみのときは喜びの
ときではありえない。しかし、キリストにあれば、外的環境がどのようなものであっても、いつも喜びを抱き続
けることができる。
 第二に、「絶えず祈りなさい。」不思議な喜びの源は祈りにある。喜びは祈りによってのみ得られるからであ
る。キリストも、公生涯の間中、おりあるごとに祈られた。信仰の偉人といわれる人はすべて祈りの人であった。
 第三に、「どんなことにも感謝しなさい。」良いことも悪いこともすべてである。何故なら、神は悪を変えて
良きに用いられる方であるからだ(創五○・二〇)。すべてのことが働いて益となるからである(ローマ八・二八)。
私共はすべてのことに感謝すべきなのである。
「これが、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」すなわち、神様の御心
である。ジョン・ウエスレーは「キリスト者の完全」の中で、霊的義務を、喜び、祈り、感謝の三つとしている。
キリスト者として、いつも神の御心を行うことを最優先していきましょう。

週報(2000年9月3日)

  「日本伝道の幻を語る会」に出席して
                                             朝位真士
 去る八月二八日〜三〇日まで、市川サンシティーホテルで、日本キリスト伝道会主催の集会に出席した。主講
師は金井信一郎先生(明治学院大学元学長、聖学院大学名誉学長)、李仁夏先生(在日大韓川崎教会名誉牧師、九九
年度朝日新聞社会福祉章受章)で、「二一世紀の日本伝道と教育」というテーマで各々二回の講演をして下さった。
 二八日は、開会礼拝、原登先生(小松川教会名誉牧師、キリスト伝道会会長)。講演T、李仁夏先生。青年宣教
大会、深谷春男先生(赤羽教会牧師)であった。
 二九日は、早天祈祷会、川嶋賢廣先生。講演T「二一世紀の日本伝道と教育」、金井信一郎先生。幻を語る会
全国協議会があり、宣教大会、李仁夏先生、讃美、明治学院大学グレゴリーバンドの男声合唱があった。
 三〇日は、早天祈祷会、麦野賦先生。講演U、金井信一郎先生。閉会礼拝、横山義孝先生(東京新生教会)。
 私はこの集会に出席して、特に李先生のメッセージが印象的であった。李先生は一五歳で韓国から来日、京都
の高校に入学し、そこで英語の教師、和田正先生と出会い、信仰を持ち、クリスチャンとなり、東神大に入り、
牧師となり、日本人の女性と結婚し、川崎市東部の工業地帯で伝道をされ、在日韓国人牧師として差別と戦いな
がら人権と福祉に取り組み、「朝日社会福祉章」を受賞され、尚、教会を隠退されても、あちらこちらと御用が
与えられて、喜々として御用されている。
 又、金井信一郎先生は、二つの大学(ミッションスクール)の学長を歴任され、特に、聖学院大学開毀には、言
葉では言い尽くせないほど苦労をされ、その間、奥様を亡くされて、キリスト者、教育者として良き証しをし続
けておられる方であった。

週報(2000年8月27日)

  キリストの再臨
                                          朝位真士
 ヨハネ黙示二二章を通して、「キリストの再臨」というテーマで語った。
 注解書によると、@新しい生命(二二・一〜五、A待望(再臨待望)(二二・一七〜二一)とある。まず第一、新
しい生命では「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く水の川をわたしに見せた」(一)とある。新しい
神の民の都の中央を、命の水の川が流れ出す。神の民の生命、その喜びは、すべて父なる神とそのキリストにお
ける愛の働きに源をもつ。エデンの園にも、ひとつの川が流れて園をうるおしていた(創世二・一〇)が、砂漠を
近くにひかえたイスラエルの人たちは、水をいのちを支えるものとして切実に感じていたに違いない。そこでし
ばしば神の臨在をいのちの水にたとえている。そのいのちの水にくまず、自分でこわれた水ためをほったことが、
人の罪にほかならない(エレ二・一三)。いま神の都は、神のもとから流れ出る水晶のように輝く川によってあま
ねくうるおされる。
 第二に、待望(再臨)は「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて
報いる。わたしはアルファであり、オメガである.最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」
(一二〜一三)。キリストの花嫁である完成の教会が、その教会をつくり育てたもう御霊とともに、「来てくださ
い。」それは今、まだ地上の教会と連なっていて、主の来たりたもうのを待ち望んでいる「花嫁」の姿である。
当時の教会では、「主よ、きたりませ」という言葉は、人々の合言葉として、礼拝の中に取り入れられている。
「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

週報(2000年8月20日)

  新天新地
                                             朝位真士
 序において日本の伝統である「お盆」について語り、死した者の運命を生者が操作するという話は聖書の世界
にはないものであることを語った。死者はひとえに最善をなしたもう神の御手の中にある。いわゆる「ご先祖供
養」という発想は神の主権と衝突する。
 本論に入り、ヨハネ黙示二一章全体から「新天新地」のテーマで学ぶ。二一章一〜八節では「新天新地」が、
二一章九〜二七節では「新しいエルサレム」が語られている。ヨハネはいよいよ最後のすばらしい光景を見せら
れる。幾多の患難と試練を通過し、最後の審判の結果の後、ヨハネは神によっていきなり新天新地を見せられる。
三節に「わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた」とあり、三点に言及している。一つは事柄の成就の宣
言である。私たちの間では常にいっさいが未完成のまま終わる。しかし神の側ではいっさいが成就するのである。
それは、キリスト御自身が「アルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」と述べ、それによ
ってご計画の完遂が必ず訪れることを身をもってあかししているのである。二つは、七節のことばのように、神
と聖徒たちとの親子関係の宣言である。三つは、八節において「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、
人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに
対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」と語っている。「新天新地」すなわち
神の国、天国には、神の約束を信じ、キリストによる相続を与えられ、信仰によってのみ入ることが出来るので
ある。

週報(2000年8月13日)

  最後の裁き
                                                  朝位真士
 ヨハネ黙示二〇章を通して「最後の裁き」というテーマで語った。
 まず注解書によると、一、千年間の支配(二○・一〜六)、二、サタンの敗北(二〇・七〜一〇)、三、最後の裁
き(二〇・一一〜一五)、と語っている。
 パークレーによると、この二〇章はいわゆる千年王国の基礎資料として重要な意味をもっている。その内容を
簡単に言えば、最終の時が来る前の千年間、キリストが地上で聖徒の国を治め、その後に最後の苦難、万人の復
活、最後の審判、終末が来るということである。黙示録の記述は、議論や理屈ではなく、預言でありその成就で
ある。主の再臨によって悪が根絶され、死んだ者たちがよみがえり、千年王国が実現する。そして再びサタンお
よびその勢力の徹底的な壊滅がなされ、そして最後の審判、すなわち文字通り主イエス・キリストによる選別が
実行されるのである。一切はこの時点で明るみに出され、正不正、善悪の識別が天国の記録によってなされる。
記録の中で最も重要なものは、いのちの書である。この書に名を書き記された者には、永遠のいのちが約束され
る。ここで重要なのは、「自分の行いに応じて」(一二)裁かれるということである。信仰に根差し、信仰に基づ
いてなされる、生きた、神のみこころにかなった行いがなされてきたかどうかが、私達一人一人に問われている
のである。
 「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、
火の池に投げ込まれた。」(二〇・一四〜一五)
 最後の裁きの時も恐れないで、神の前に立ちましょう。主が共にいて下さいます。

週報(2000年8月6日)

   小羊の婚宴
                                             朝位真士
 ヨハネ黙示一九章全体を通して「小羊の婚宴」というテーマで語った。
 この一九章は「ハレルヤ」で始まる。これは「主を讃美せよ」という意味のヘブル語である。新約聖書の中に
は「ハレルヤ」という言葉はこの一九章だけである。神を讃美する心が常に備わっているなら、私たちは日常の
生活の中で感謝することが何よりも大切であると考えることができるようになる。ハレルヤの讃美と神への感謝
の祈祷がささげられること、これは私たちクリスチャンの一つの生活目標である。
 次に五節〜一一節に「小羊の婚宴」の事が述べられている。「小羊」は言うまでもなく「イエス・キリスト」
である。私たち「教会員」は「花嫁」である。花嫁のまとう衣装には深い関係がある。花嫁のまとう麻布は、光
輝、純白、潔白であって、それは聖徒たちの正しい行為と等しいものである。小羊と花嫁の婚姻は、七節では
「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。」とある。花嫁に相当する人たちは、エフェソ五章二一〜三三
節に記されているように、夫と妻の関係をキリストと教会の関係においてとらえている。花嫁としての教会の姿
を描いている。教会につながる聖徒たちが、その行いのきよさによって、花嫁のまとう麻布を純白にするのであ
る。
 クリスチャンは小羊の婚宴に招かれる。私たちは、この地上の生涯の中で教会につながることの意味の重要さ
を、肝心なところでおろそかにしないように努めるべきである。自己流に勝手に信仰を考え、教会に結び付かな
いでいると、小羊の婚宴の席に出られないことになってしまう。
 地上に教会があるのは、主イエスの福音を宣べ伝えるという重大な宣教の任務が課せられているからである。
そして、奉仕のわざ、信仰のわざを展開することが必要である。

週報(2000年7月30日)

  第一二回ホ群首都圏夏期聖会
                                             朝位真士
 第一二回ホ群首都圏夏期聖会が、京王多摩プラザホテルで七月二四日〜二六日までの三日間開催された。今回
は「イエス・キリストの黙示、きよめと再臨」というテーマで、主題聖句「神である主、今おられ、かつておら
れ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(ヨハネ黙示
一章八節)を中心に、一章〜三章のアジアの七つの教会、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サ
ルデス、フィラデルフィア、ラオディキアの各教会の特色を、絵鳩アツエ師(小見川教会)、山岡磐師(初雁教会)、
吉仲将師(志木教会)、原田鎌師(更生教会)、島隆三師(西川口教会)の先生方に力強く語っていただき、聖会講演
では、深谷春男師(赤羽教会)、大友英樹師(赤羽教会)の先生方に義認と聖化、ホーリネスの教団の中での歴史と
使命について語っていただき、早天祷告会では、壮年、波辺久純師(菖蒲教会)、婦人、石川深香子師(天門教会)、
青年、東海林昭雄師(小松川教会)に語っていただき、それぞれ祷告カードを一人一人が一年間個人的に祈祷する
ことを約束してきた。
 私はこの聖会の実行委員長として、桜ヶ丘教会の皆様方に多大のご支援をしていただき、又、協力して下さっ
た事を心より感謝申し上げる次第でございます。
 まず、人数は宿泊一〇〇名と祈っていただきました。それも一〇〇名突破しました。桜ヶ丘教会から一〇名宿
泊していただき、三名の通い、全体で百三十数名、これも目標突破。又、経費が約百万円位赤字であったが、こ
れも、予約献金百数万円が与えられました。
 唯二〇〇一年の聖会を東西合同でという声が出ていますが、この事について又祈っていただきたいと思います。
主に感謝申し上げつつ次回の聖会のために祈って下さい。ハレルヤ!

八月の各部例会、夕拝、昼の祈祷会は休会です。日曜礼拝、教会学校、木曜夜の祈祷会は通常どおりあります。

週報(2000年7月23日)

   バビロンの滅亡
                                             朝位真士
 ヨハネ黙示一八章を通して「バビロンの滅亡」を学んだ。
 一七章における「大いなる都」の滅亡は、この一八章においていっそう詳細に展開される。バビロン、ツロ、
ニネベなど過去においてその栄輝栄華を誇った町々はいずれも滅亡した。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの
旧約の預言者たちは滅びゆく大いなる都の預言をし、そして今ローマの番がきた。
 @ローマ陥落の預言(一八・一〜三)。ヨハネは、旧約聖書におけるバビロンに対する宣言を思い浮かべながら、
それに似てそれよりもさらに偉大なる都ローマが今さばかれることを語る。
 Aローマへの報復のなげき(一八・四〜二〇)。ヨハネは、今一人の御使いの叫ぶ声を聞いた。それは、神の民
たちがその滅びゆくバビロンから離れ去ってその罪にあずからないようにし、またその審判の災害に巻き込まれ
ないように呼び出す声であった。それは第一に、彼らの罪にあずかりそれに染まらないようにするためであり、
第二に、その罪に対する審判に巻き添えをくわないためである。
 そしてこのローマに対する審判は一瞬にしてきた。「不幸だ、不幸だ、大いなる都/強大な都バビロン/お前
は、ひとときの間に裁かれた。」(一八章一〇節)
 私達も神から離れ自分勝手な生活をしていると、一瞬にして神の審判が下り滅ぼされることを心しなくてはな
らない。現代の巨大な産業や碑なき世界の支配は、やがて滅亡していくのである。

週報(2000年7月16日)

   小羊と共にいる
                                              朝位真士
 ヨハネ黙示一七章を通して語った。
 序において、ブレーキの壊れた車が坂道を転がっていくように、人間の日頃のあり方も油断をしているとつい
滑ったり転んだりして、下の方へ転落していく、一七章は宗教的堕落の真相を伝えている。
 本論において、大淫婦である「大バビロン」という名で、宗教的に誤った、真実の教えから離れていき、偽キ
リスト教を作り、人々を惑わしてしまう。次に獣である反キリストが小羊(キリスト)と戦うが、小羊に破られる
(一四)。又、反キリストである獣はついにこの淫婦を憎み殺し、消滅させるということ(一六)。又、神はみこと
ばの成就に至るまで、悪の振舞をお許しになるということである(一七)。この者どもは小羊と戦ぅが、小羊は主
の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝
利を収める(一四)。又「神の言葉が成就するときまで、神は彼らの心を動かして御心を行わせ、彼らが心を一つ
にして、自分たちの支配権を獣に与えるようにされたからである。」(一七)
 この小羊なるイエス・キリストは、同時に主の主、王の王と呼ばれる方である。勝利の主、勝利の王としての
イエス・キリストを、ヨハネは迫害時代のただ中にあって、どんなにか強く意識し、その信仰に徹したことであ
ろうか。悪魔的な団結は、こうしてそれに捕えられたものが悪魔的力に乗ぜられれば乗ぜられるほど、内から破
壊されてゆく。それはとどのつまり、内輪で分かれ争い、自滅へ向かって行く家であり、国である。
 神は、御言が成就して、キリストの勝利が具体化し、審判がなるときまで、反キリストの勢力を用いて、御旨
を行いたもう。神に敵する力も、究極においては、神の支配下から逃れることはできない。

週報(2000年7月9日)

  神の怒りの七つの鉢
                                                  朝位真士
 ヨハネ黙示一六章を通して、「神の怒りの七つの鉢」について語った。
 七人の天使達が七つの鉢を携えてそれを各所にぶちまけることにより、災害が起こることを記している。第一
の天使は、地上に注ぐと悪性のはれもの。今日私たちが最も悩まされているあの原因不明の悪性腫瘍。第二の天
使は、血の海となった。その中の生き物はすべて死んでしまった。第三の天使は、川と水の源に注いだ。すると
水は血になった。第四の天使は、太陽に注ぐと、太陽は火で、人間を火で焼かれた。第五の天使は、獣に注ぐと、
国は闇におおわれた。第六の天使は、大きな川、ユーフラテスに注ぐと、竜の口から獣の口から、そして偽預言
者の口から蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。第七の天使は、空中に注いだ。H・B・スウィート
は「すべての人が吸う息」といっている。空気が汚されれば、人間はその生命の根源をおびやかされるから、こ
の出来事は自然が人間の敵になったことを示す。
 そして、地震は島を沈め、山を平らかにする。そして最後に一タラントの重さほどの大きな雹が降ってくる。
これは三五キログラムの重さである。これもまた、神の怒りをあらわしている。
 最後の怒りの鉢は、自然のすべてを人と戦わせる。それはもし人が神に対して罪を犯すならば、全宇宙が人の
敵となるということである。七つの怒りの鉢が地に傾けられたあと、この章の「折り返し」の言葉で一六章が結
ばれている。それは、これらのことが起こっても、人々はなお悔い改めず、神の愛の訴えにも、神の怒りにも無
感覚になっているということである。以上のような神の怒りの七つの鉢の一つ一つを想い出しながら、もう一度、
私共の人生を神の前に悔い改めましょう。

週報(2000年7月2日)

  信仰の戦い
                                             朝位真士
 先週はテモテT六章一一節〜二一節を通して「信仰の戦い」を学んだ。
 序論で、当日ホ群弾圧記念聖会が更生教会であることを語り、一九四二年六月二六日早暁、私達の先輩は時の
特高警察の一斉検挙によって拉致・拘束され、天皇が神か、キリストが神かと二者択一の不当な拷問を裕びせら
れ、国体に反するとして治安維持法違反の犯罪者として九〇余名の牧師が取り調べを受け、四二名が告訴されて
懲役四〜一年の判決を受けた。その弾圧受難五八年を記念しての聖会がもたれることをまずアピールした。
 さて、テモテ六・一一〜を通して「信仰の戦い」ということを語った。パウロは牧会者テモテに「神の人」と
して「正義」「信心」「愛」「忍耐」「柔和」を追い求め、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入
れなさい。」と語っている。「戦い」の目当ては「永遠の命」である。バークレーはこの所で三つのことを語っ
ている。
 @テモテに対する挑戦(六・一一〜一六)。「神の人」に対して神に向かう徳が四つ「正義」「信心」「信仰」
「愛」と語られ、実際の生活に関する徳が二つ「忍耐」「柔和」と語られる。
 A富める者への忠告(六・一七〜一九)。富のゆえに高慢になってはいけない。彼らは善をするために富を用い
るように忠告されている。クリスチャンは何よりも交わりを重んじる人である。また、そのような富の賢い利用
は来世へのよき備えである。
 B伝えるべき信仰(六・二〇〜二一)。テモテという名は「神を敬う」という意味である。俗悪な無駄話や偽り
の知識による反対論を避けなさい。「信仰の戦い」はサタンとの戦いであることを自覚しよう。

週報(2000年6月25日)

  最後の審判
                                            朝位真士
 ヨハネ黙示一五章全体を通して、「最後の審判」という事を学んだ。
 一五章、一六章に記された七つの金の鉢の審判の光景は、「神の怒りがその極みに達するのである。」神に逆
らって歩み、神に聞き従わないものに、最後の七つの災いが下される。ヨハネはその天における現実を見た。そ
こには、「火が混じったガラスの海のようなものがあった。」「ガラスの海」は、神と人との距離を示している。
創造主は被造物から区別されなければならない。きよい神の姿は、いっさいの罪から離れている。
 次に三〜五節には、神の僕モーセの歌と小羊の歌が記されている。これは出一五章とヨハネ黙示五章九〜一二
節の引用である。すべての悪魔的勢力、迫害に耐えて海を渡った人々が、神の竪琴を手にして勝利の歌をうたう。
新しい「出エジプト」の歌である。五節以下には、一方においてまさに救いと勝利の讃美が歌われているとき、
天の聖所のとびらが開かれて、災害を携えた御使いたちが現れた。「あかしの幕屋」は、イスラエルが荒野の中
を旅したとき、彼らの中における臨在と導きのあかしとなった。いま天にひらかれるあかしの幕屋の神殿は、救
いと約束の保証であるばかりでなく、長い間、神の審判や怒りについて聞かされてきたにもかかわらず、ついに
目前の利益や楽しみに目を奪われて、悔い改めようとしなかった人々に対する怒りのわざのあかしでもある。
 七〜八節には、「神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した」とある。その時聖所は、
「立ち上る煙で満たされ」とある。神が怒りたもう時、何人もそのみ顔を見上げることはできない。審判におい
てあらわされる神の臨在は、その審判が終わってしまうまで、だれも聖所に入ることを許さなかった。

週報(2000年6月18日)

  聖霊降臨
                                             朝位真士
 使徒二章一〜一三節を通して「聖霊降臨」について学んだ。
 序において、ペンテコステ「聖霊降臨」について語った。ペンテコステとはギリシャ語で五〇番目という意味
で、イエス様が復活されてから五〇日目に聖霊が一同に降った事を語った。
 本論。使徒二章一〜四節において、新しい備えをしてひたすら主の約束を待った弟子たちの群れは、ペンテコ
ステの日に約束の聖霊を与えられた。その異象現象として激しい風、炎、舌が降った。これは、聖霊の活発な働
きの表徴である。五節〜一三節によると、大体ユダヤの東北地方から、西南地方にわたっている。創世記一一章
にはバベルの塔において当時の人々の言葉が混乱(パラル)をきたした出来事が記されている。お互いに、同国人
であっても夫婦、親子、兄弟、地域住民達との意志が通じ合わないのが、ペンテコステ「聖霊降臨」によって回
復された。神の霊が降る時、私達お互いの心の交流がなされるものである。また、使徒二章一二節には「神の偉
大業」とあるが、これは「多言奇跡」の内容であり、パウロの語っている「最も大切なこととして私があなたが
たに伝えたのは・・・キリストが・・・わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、・・・三日目に復
活したこと・・・」(Tコリント一五・三)であり、聖霊の実「愛、喜び、平和、克容、親切、善意、誠実、柔和、
節制」(ガラ五・二二)である。
 ペンテコステのこの日、私共は人生の本当の意味を見出し、神の国と神の義を求めて、キリストの証し人とし
て、大胆に、この時代の唯中で生活していこうではありませんか。

週報(2000年6月11日)

   信仰の祈り
                                            朝位真士
 ペンテコステを前にして、使徒一章一〜一四節を通して学んだ。序としてまず著者ルカの事について語り、本
論においてこの一〜一四節の大筋を学ぶ。
 一〜二節、序論。三〜五節、約束の聖霊という処でまず聖霊を受けるための二つの条件を学んだ。一つは、エ
ルサレムを離れず、二つは、待つという事である.六〜一一の中で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなた
がたはカを受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、
わたしの証人となる」(八節)とある。特に聖霊が降ると「力」を受ける。この「力」はダイナマイトの力であり、
岩のような頑強な問題を解決する力、また、かたくなな心をうち砕く力をも意味する。また、「証人」という言
葉は「殉教者」という意味もある。キリストの証人は「身も心も殉教者」の思いで証ししていくものである。
 次に「心を合わせて熱心に祈っていた」(一四節)。聖霊を受けるためには祈りが必要である。その祈りは、第
一に、信仰の祈りであった(一二節)。約束の聖霊が与えられるということを信じて待ち望んだ。第二に、一致の
祈りである(一四節)。「心を合わせて」とは、みなが同じ思い、同じ気持ちになることである。婦人たちやイエ
スの肉親、二人の弟子たちが「心を合わせて」祈る時に、神の聖霊は降った。第三に、熱心に祈っていた。祈
りに専念していたのである。教会がどんなに忙しいスケジュールをこなしても結実が少ないのは、案外この祈り
に忙しくしていないからではないか。ペンテコステを前にしてもう一度、信仰の祈りに立ち返ろう。

週報(2000年6月4日)

   キリストにある成長
                                           朝位真士
 エフェソ四章七〜一六節を通して学んだ。
 序に於いて、桜ヶ丘教会の起源について学び、教会のスローガン、四つのHでまとめた。 一、ホーム(温かさ)、
二、ヒム(讃美)、三、ホスピタリティ(親切なもてなし)、四、ホーリィ(聖なる)。
 次に本論に於いて、エフェソ四章七〜一六節を通して学んだ。教会の奉仕者として「使徒、預言者、福音宣教
者、牧者、教師」を立てられた(一一節)。その目的は、「キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたした
ちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる
豊かさになるまで成長する」と語っている。パークレーは、彼らの目的はキリストのからだを建てさせるよう配
慮することであると語っている。教会の職務を担う人々の仕事はいつも建設であって破壊ではない。そして、教
会員が完全な一致に到達するようにすることである。彼らは教会内に分派が形成されるのを容認してはならない。
彼らは教会内で何か不和の原因となるようなことを仕出かしてはならない。彼らの目的は、訓戒と模範とによっ
て教会員が日ごとに一致を深めて行くように導くことであり、教会員が全き人に到達するようにしてやることで
ある。教会の目的は、教会員が全きキリスト者の男性、また女性の模範となることでなければならない。キリス
トの目的は、この世にキリストの民を生み出すことであった。教会の目的は、自分の中にイエス・キリストご自
身を反映させる男性や女性を造り出すことにほかならない。
 最後に、リック・ウォレン著「健全な教会へのかぎ」の中から、一五章の教会員を成熟に向けて育成するとい
うテーマの処を引用して「霊的成長の最終日標はキリストのようになることである」と結んだ。

来週(11日)ペンテコステ礼拝

週報(2000年5月28日)

       あがなわれた者
                                           朝位真士
 ヨハネ黙示一四章全体を通して学んだ。
紀元二〇二年、ローマ皇帝セベラスのキリスト教信徒の激しい迫害の中、アフリカのカルタゴにパーペチュア
という二二歳の気耗く美しい婦人がいた。彼女は父親やその他の説得も開かず、キリストを信じる愛の故に迫害
の中信仰を捨てず、年老いた父と二歳になる最愛の子を残して、猛獣の餌食となり殉教の死をとげた。
 本論に於いて、ヨハネ黙示一四章を通して、「あがなわれた者」の幸いを学んだ。一四章一〜五節、一四万四
千人の歌があり、シオンの山に、神の小羊キリストの名と父なる神の名が記されている。「あがなわれた者た
ち」の、神を讃美している天地をゆるがす大伴奏に合わせて歌われている様子をみる事ができた。一四章六〜一
三節に三人の天使の言葉を聞く。第一の天使は「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たから
である。」と語り、第二の天使は「大バビロンの崩壊を予告を」と語った。第三の天使は、獣や偶像を礼拝する
者に対する審判を宣告した。そして、『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(一三節)と。「然り、彼
らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報いられたからである。」
 聖書には二つの面が強調されている。信仰の面と行為の面である。パウロはTコリント一三章一三節「それゆ
え、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。この中で最も大いなるものは、愛である。」と語って
いる。キリストの十字架によって「あがなわれた者たち」の幸いをしみじみと感じとることができる。天国は、
永遠の安らぎを与えるものである。

週報(2000年5月21日)

          母の日に想う
                                                       朝位真士
 エフェソ六章一〜九節を通して特に一〜四節を中心に学んだ。
 まず序論として、戦後のクリスチャン首相片山哲(一八八七〜一九七八)の母、雪江について学んだ。特に片山
は自伝の中で「母はよく『雪よりも白くせよ』という讃美歌を聴かせてくれた。また『汝等思い煩う勿れ。一日
の苦労は一日にして足れり』という聖句を説明し、世間に出れば、常に愛と犠牲と感謝の精神を以て行くべきで
ある、これがキリスト教の精神であるということを常に十字架の例をとって話してくれた。この母からの教えが、
私の生涯に深い影響を与えているのである。」と言っている。子供の信仰教育、宗教教育の責任は、勿論、父親
も重要であるが、やはり母の感化力ほど大きなものはないと言われている。
 さて、エフェソ六章一〜四節の中に「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しい
ことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束に伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地
上で長く生きることができる』という約束です。」とある。二節で「これは約束を伴う最初の掟です」と語って
いる。これは「最も大事な」という意味でマタイ二二・三七〜三八にある、「『心を尽くし、精神を尽くし、思
いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。」と同じである。父母の
権威は法的なものではなく、「約束」につながる「霊的権威」ということで、先の神の秩序に根ざす親子関係と
相まって、注目すべき点である。
 親が子供を訓戒するときには、その訓戒の出発を親自身ではなく、主にまで求めなければならないのである。

週報(2000年5月14日)

          キリスト者の忍耐
                                                       朝位真士
 先週は、ヨハネ黙示二二章を通して語った。この二二章は、獣の姿すなわちサタン(悪魔)の姿について語って
いる。
一二章の赤い竜の出現に続いて、一三章では、さらに神の御名を汚すことを好む一匹の獣が海からはい上がっ
てきて、竜と共に行動するようになったことを述べている。
現代のサタンの働きを一週間前の少年の事件より語り、私たちクリスチャンは、現在の信仰が単に身につける
アクセサリーではなく、体の内部に本物として宿しているものであるかどうかが問われる。この章で強調されて
いる獣の姿のように、サタンが連続的な波状攻撃を仕掛けてきた時、果たして私たちの信仰で立派に耐え抜くこ
とができるであろうか。詩編三七・七〜九に「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪
だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならな
い。悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。」とある。ここにも、人間の一時的な憤りや怒り
が、どんなにか悪い結果を招くものであるかが詳細に記されている。
 この黙示一三章一〇節「聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」と語っている。ここで神は、私たちに最
後まで残るための必須条件として信仰と忍耐の二つを教えている。信仰は言うまでもなく意志の決定であり、私
たちはこれを日々主の前に問われる。以前ではなく、今の信仰が重要なのである。したがって意志の決定の面で、
時々刻々神の前における態度が重要となる。他方、忍耐はその持続力である。一つの事柄に対して耐え抜き、最
後まで貫き通す意志のカが問題なのである。サタンの力は、クリスチャンに挑戦している。これは決して誇張で
はなく、現実である。私共はよく注意しよう。

週報(2000年5月7日)

   二〇〇〇年度教会総会を終えて
                                            朝位真士
 過ぐる三〇日礼拝後教会総会が行われた。現住陪餐会員五六名中二七名出席、委任状一〇名で総会成立。書記
榊原姉、会計担当松下兄、議長朝位牧師で開会祈祷から始まった。朝位が、教務報告、資料一〜八頁を紹介して
説明した。特に私は、二頁の「新年度の展望」を重視した。年度の与えられた御言葉「わたしを強めてくださる
方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フイリピ四・一三)桜ヶ丘教会の三つの目標、@個人信仰の確
立、A全家族の救い、B個人伝道による教勢倍加。次に、今年予定している集会、@一〇月一〇日(火)秋期特別
集会、講師朝野洋先生(救世軍元中将)、音楽奉仕西村信子女史、A一二月一七日(日)クリスマスチャペルコンサ
ート、ボーマン・ペアンテ夫妻、B一二月二四日(日)クリスマスイブ集会、森下貴史神学生。
 次に一九九九年度の決算報告が資料に基づいて放下役員より行われた。私はその説明を聞きながら、役員の方
々が祈って資料作成された事をひしひしと感じ、又現住陪餐会員五六名の少数の会員の方々がよくも支えておら
れる事を思い、涙が出る思いであった。
 会計報告の後、監査報告書が影山明男兄によって報告された。総会の最後に横田正作兄(桜ヶ丘教会の最古参)
によって力祷がささげられた。
 二〇〇〇年度の桜ヶ丘教会の総会資料の全部の議決条項は満場一致で可決された。いよいよ主イエス・キリス
トを中心に、桜ヶ丘教会丸の航海が静かに始まった。皆様方の祈りとご支援を切に願う次第です。

次週(14日)母の日礼拝

週報(2000年4月30日)

   復活の出来事
                         朝位真士
マルコ一六章全体を通して、イースター礼拝のメッセージを与えられ
た。まず一六章一〜八節はイエスの復活を述べている。ここでは、復活
の朝の出来事をマリヤたちに三人の婦人に焦点を合わせて記している。彼
女たちが墓に近づくと、新しい心配が起こってきた。墓が大きな石でふ
さがれていることを思い出したのである。とても女手では取り除くこと
ができない。ところが彼女たちが目を上げて見るとどうだろう。石はす
でに取り除かれていたのである。ここでも私たちはいつも人間の思いを
はるかに超えて障害を取り除き、必要な備えをしていてくださる神の御
手を見る。私達の人生に於いても、大きな石つまり困難な問題が立ちは
だかっている。しかし、復活の主イエス・キリストを信じて従っていく
ときに、人間の諸問題は神によって解決されていくのである。次に九〜
一三節にイエスの顕現を記している。マリヤ達はイエスがよみがえって
自分たちに現れたことを弟子達に語ったが、彼らは信じなかった。一四
〜一八節は弟子の派遣を語っている。世界中に福音が行き渡ると弟子た
ちのうちの誰が考えたであろうか。それから二千年の教会の歴史は、イ
エスの命令が見事に実現したことを立証している。イエスのことばには
必ず実現が伴う。しかも不信仰で弱い弟子達によってそれはなされたの
である。神は不信仰な弟子たちを信頼して用いられ、世界宣教という大事
業を行われたのであった。私達も不信仰で弱い者であるにもかかわらず
神の福音のために奉仕させていただけるのである。「実にイエスはよみ
がえられた」ハレルヤ!

週報(2000年4月23日)

   イースター「復活祭」を迎えて
                            朝位真士
 イースター(復活祭)は、キリスト教最大の祝祭日です。紀元四世妃
の教父ナジアンゾスのグレゴリオスは、「復活祭は最高の祝日であり、
最大の祝典である。」と言っていました。古代ローマでは、クリスチャ
ンたちが出会うと、「キリストは真によみがえりたまえり」と言えば、
「神に感謝します」とかえしました。ギリシャ教会では、「キリストは
よみがえりたまえり」と言えば、「真によみがえりたまえり」とかえし
ました。 十字架上で人々の身代わりの死をとげられたイエス・キリスト
が、事実復活されることによってその贖罪のわざの完成を宣明し、いま
だかつてだれもなしえなかった死を従服したことによって、ご自身が人
となった神であることを実証された記念日だからです。
 なおイースターの日付については異見がありましたが、ニカイア会議
(三二五年)以降は、「春分の後にくる最初の満月の次の日曜日」と定
められました。今年は四月二三日の今日です。イースターエッグを頂く
のは、一見、死物のように見える卵の中から生命が飛び出すことを、岩
の墓」打ち破って復活されるキリストのシンボルとしたのです。なお卵
を紅に染めるのは、キリストの血潮を記念して、グリーンは希望をあら
わし、金、銀は復活の光輝をあらわすという具合です。また、イースタ
ー・リリー(ゆり)があります。ゆりはその輝くような白、優美な花形、
喜ばしく清楚な風情のゆえに、まさしくイースターを飾るにふさわしい
花と言えましょう。復活の主を飾るにふさわしい花です。

来週(30日)礼拝後、教会総会があります。

週報(2000年4月16日)

  故安東礼子姉召天五周年記念会
                             朝位真士
 安東礼子姉が召天されたのは、一九九五年四月二四日午前二時三六分
であった。姉は教会の忠実な会員であり、婦人会のリーダーであり、教
会役員でもあった。四月二五日(火)午後七時、旧会堂で前夜式、四月二
六日(水)午前九時四五分、多磨葬祭場にて告別式があった。
 姉の故人略歴を記すと、一九三五年六月四日、山田次男、ヤスの次女
として東京蒲田に生まれた。一九六〇年四月三〇日「安東幸雄兄と結婚
し、株式会社しなのカラー、ジャパンフォト、カラープリントショップ
アイでは、夫の片腕として、また家庭内では二男一女の母として献身的
に働いた。一九六九年五月一一日、日本同盟キリスト教団伊那聖書教会
藤後朝夫牧師より受洗。一九八九年一一月二六日、日本キリスト教団桜
ヶ丘教会に前任牧師西海牧師により転入会。婦人会長、教会役員を務め
た。特に新会堂建設を誰よりも強く希望しておられた。御夫君安東幸雄
兄が、新会堂建設委員長として礼子姉の祈りの願望である建設に、仕事
を犠牲にして従事された。
 今日故安東礼子姉の五周年記念会の日に、多数の人々が教会に出席さ
れたことは、主イエス・キリスト様も望んでおられることであり、これ
を契機に礼子姉の死が、一粒の種となって実を結ぶことを切に祈る次第
である。「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブ
ル一一・四)

(下から3行目ホームページ管理人の判断で、師→死 に訂正しました。)

週報(2000年4月9日)

  書物を渡す
                         朝位真士
 ヨハネ黙示一〇章より学んだ。第七のラッパが鳴る前の小休止の部分
である。ここで御使いはいくつかのことばをヨハネに向かって発してい
る。第一に「書き留めてはいけない」(四節)、第二に「もはや時がな
い」(六節)、第三に「開かれた巻物を受け取れ」(八節)、第四に「受け
取って、食べてしまえ」(九節)。特に、一〇節で「巻物を天使の手から
受け取って、食べてしまった。それは、口には密のように甘かったが、
食べると、わたしの腹は苦くなった。」と語っている。最後の審判に関
するメッセージは、しばしば預言者のいちばん宣べたいと思っているこ
とであるように思われる。そのメッセージは「彼の口の中で甘い」。彼
は非常に熱心に神の義を告げ、いかに人間が神の義にそわないかを示そ
うとしている。しかし、時間をかけてそのメッセージをよりよく消化、
より広い経験をすることによって、神のさばきが人に及ぼす結果がいか
におそろしいものであるかを知るようになると、いやしくも人間に関心
を持つなら、彼は次第に人間にさばきを宣告することがいやになるであ
ろう。すなわち、さばきのメツセージそのものが「苦く」なってしま
う。しかし神の人は、それが自分の口に合うにせよ、合わないにせよ、
神の言を消化し続け、また宣べ続けなければならないのである。

週報(2000年4月2日)

  黙想霊感
                            朝位真士
 英国の有名な物理学者、化学者であるミカエル・ファラデー(一七九一
〜一八六一)は、単に物質の研究だけに没頭する科学者ではなく、敬虔
なクリスチャンであったと言われている。彼はある時、一人の母親の涙
を試験管に入れて、学生を教え「見られるように母親の涙を化学的に分
析すれば、少量の水分と塩分だけである。けれども母の頬を流れる涙に
は、化学では分析できない尊い深い愛情がこもっていることを知らなけ
ればならない。」と言った。物質上の知識だけにとらわれやすい学生に
対して、実に適切な教訓を与えたという話を聞いて、私は非常に感動し
た。私達もともすれば、キリスト教の知識や経験にとらわれて、キリス
ト教の中心である愛が欠如していると、どんなに博学であり経験豊富で
も、愛がなければ全てが空しいとある。二〇〇〇年度のスタートを歩む
にあたって、もう一度キリスト教の信仰の基本原理、行動原理である
「神の愛」に立ち帰ろう。愛だけが人を生かし、神を喜ばせ、有意義な
人生を送ることができる。その為には、私たちは聖書を読み、祈り、諸
集会に励み、宣教の実践をさせていただき、本年一人が一人をキリスト
のもとにお導きできるよう、ア(明るく)、タ(楽しく)、マ(前向き)を使
っていこう。

週報(2000年3月26日)

  悪魔の姿
                                               朝位真士
 ヨハネ黙示九章を通して「悪魔の姿」について学んだ。この九章一〜一二節には第五のラッパ(破壊者)のこ
とが語られ、一三〜二一節には第六のラッパ(二億の騎兵)のことが語られている。
 まず第一の一〜一二節のところで、特に天から落ちた星は、おそらく天使であろうがサタンの使いである。そ
の名はアバドン、アポリオンといわれていて、サタン(悪魔)を主としていた。この語は、破壊、破壊者を意味
している。サタンの勢力は、人間の姿に巧みに変装し、私たちの傍らに何食わぬ顔をして立っている。又この悪
魔は平和の時にも人の心を腐敗させるものとしての形で追ってくる。ポルノ、麻薬、アルコール、たばこなど、
そうしたたぐいのものは簡単に心身を腐らせてしまう。サタンの誘惑は主イエス・キリスト様にも迫り(マタイ
四章)、イスカリオテのユダの心の中にも入り(ヨハネ一三章二節)、ペトロの中にも働く(マタイ一六章二三
節)。勿論、私共の中にも絶えず働きかけて誘惑してくる。この誘惑に勝利する方法は「主イエス・キリストへ
の確固たる信仰を告白する人間にされているかどうかである」と云われている。私はここで、悪魔に勝利するテ
ストを語りたい。まず第一に、キリスト教の集会に出席することに対して、例えば、礼拝、祈祷会、夕拝、各会
例会等に対して、余り気がすすまないときは注意が必要である。第二に、祈ることよりこの世の事柄に時間を多
く用いたいと思うとき(勿論、生活のためや学びのためにしなければならないことはするが)は要注意である。
最後に、私たちの人生の目的は「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにし
なさい」(コリントT・一〇章三一節)が悪魔に勝利する秘決だと思う。

週報(2000年3月19日)

   第七の封印
                                              朝位真士
 ヨハネ黙示八章全体を通して語った。
 (一)審判の前の静けさ(八・一〜五)
 七つの封印が解かれて、今新たな審判が始まろうとしている時に「半時間ほどの沈黙があった」。まさしく、
これから起ころうとする出来事に対する心構えを与えられる。三節に「すべての聖なる者たちの祈りに添えて、
玉座の前にある金の祭壇に献げるためである。」と語られている。キリスト者の全生活が、そして特にその祈り
は、神へのささげものにほかならない。正しいものの祈りは神の前に大きな力である。祈りは神への、全能にし
て愛にいます神への語りかけである。そして「香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前に
立ち上った。」(四節)とある。信仰者の祈りは、神の御前に一つとなって立ち上る。そして、究極においては祈
りは神の御業の成就への奉仕以外のなにものでもない。
 (二)四つのラッパ(八・六〜一二)
 ここでは四つのわざわいが記されている。第一のわざわいは血の混じつた雹と火である。出エジプト記九章に、
エジプトで起こつた雹と雷の害について記されている。第二のわざわいは、火で燃えている大きな山のようなも
のが海に投げ入れられた。ポンペイの町のヴェスヴィウスの噴火(AD七九年)は、当時の人々にまだ強い印象を残
していた。第三のわざわいは「苦よもぎ」であった。人の罪による霊的な苦悩をさすといえよう。第四のわざわ
いは、天体の異変である。これは人の子の再臨のまえぶれなのである。このわざわいが一三節に「不幸だ、不幸
だ、不幸だ・・・」と語られ、黙示録全体のメッセージの基調は、平和はこの地上で確立されるのではなく、明
らかに新天新地として告知されているといわれている。

週報(2000年3月12日)

  封印(刻印)を押された
                                              朝位真士
 ヨハネ黙示七章全体を通して語った。
 この七章は大きな希望と喜びを与えてくれる章である。第七の封印が解かれる前に神はクリスチャンを確認さ
れる。クリスチャンといえどもこの大艱難時代を避けることはできない。しかしその真ただ中にあって、「神が
彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(一七)と約束されている。私たちは一生のうちで何回か
大きな試練に遭遇する。信仰は普段は目立って表面に現れることもなく、信じていなくても大差がないように見
える。しかしいったん艱難時代が襲ってくると事情は一変する。クリスチャンの信仰はこの艱難時代にこそその
真価を十二分に発揮し、その信仰によって試練に耐えて主なる神を仰ぎ、賛美を持って貫くことができるのであ
る。主ず七章一〜三節には神の忍耐が書かれている。「神の刻印」を持って「印をおす」という言葉は、封印を
して大事にしまっておく、あるいは、書物などの場合これですっかり完成して付け加えられるべきものがないの
で封をする、また確認し証明するといった意味に用いられ、ここでは主の「もの」として確認された人々のこと
を意味しているのであろう。当時の奴隷は額にその主人の印を受けていた。キリストによつて贖われ主のものと
なったものどもが、同じように主のしるしをおびることを示しているのであろう。七章四〜八節には、残される
民が語られている。七章九〜一二節には、小羊(キリスト)は救い主という事が語られている。七章一三〜一七節
には、白い衣をまとった者たちが語られている。次の三点が大切である。@「その衣を小羊の血で洗って白くし
た」(一四節)、A「彼らは神の前で昼も夜も神に仕える」(一五節)、B「彼らは、もはや飢えることも渇くこと
もなく、太陽も、暑さも、彼らを襲うことはない」(一六節)

週報(2000年3月5日)

   一九九九年度教会総会を終えて
                                              朝位真士
 過ぐる二七日礼拝後、桜ヶ丘教会の総会を無事終えた。当日出席者(会員、教職)二六名、委任状一五名、合計
四一名で会議は成立した。
 議案一、二〇〇〇年度宣教方針を上程し、まず牧師より二〇〇〇年度の宣教方針が述べられた。三つの目標が
与えられた。第一に個人信仰の確立。まず個人信仰。これは神との縦の関係、具体的には密室を守る。(イ)日課、
聖書日課〈アパルーム、信徒の友の日毎の糧等)。(ロ)祈る−祈祷月報を用いて。(ハ)諸集会に出席する。礼拝、
祈祷会、各会例会等。第二に、全家族の救い。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われま
す。」(使徒一六・三一)具体的には、年間の特別集会として、一〇月特別集会、一二月クリスマスチャペルコン
サート(ボーマン・ベアンテ夫妻)、クリスマス礼拝一二月二四日等。それらの集会に積極的に家族を誘う。第三
に、教勢倍加(個人伝道による)。個人信仰が確立していれば、必然的に伝道せずにはいられなくなる。その他、
七月二四日(月)〜二六日(水)ホ群首都圏夏期聖会に参加する。牧師の対外奉仕、九月中旬、曽根集会所(北九州
復興教会)の二〇周年記念集会、一〇月二八日〜二九日の鳥取新生教会の特別集会の奉仕。最後に、今年は何と
してもクリスマスに受洗者が与えられる様祈って欲しい。
 議案二と三を上程した。二〇〇〇年度の一般会計と会堂会計の予算である。松下兄の趣旨説明で会場は納得し
たが、結論としてはどちらとも厳しい予算計上の内容である。しかし、信仰と決断を持って、桜ヶ丘教会丸は主
イエス・キリストを船長として静かに二〇〇〇年度に向かって航海し始めた。皆様方の信仰とご支援を心から願
望する次第である。

週報(2000年2月27日)

   小羊こそふさわしい
                            朝位真士
 ヨハネ黙示録五章を通して「小羊こそふさわしい」というテーマで語
った。五節に「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たの
で、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」と語ってい
る。しかも一二節には「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、
栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」と語っている。イエ
ス・キリストはユダ族の出身であり(マタイ一・二〜三)、ダビデの子孫
としてお生まれになったイエスは、十字架の死と、死からのよみがえり
によって全人類を罪から救い、また、永遠の死から解放して勝利を獲得
された。このイエスはキリスト(救い主)であり、この巻物を開くにふさ
わしい方なのである。@イエスは従順なお方である。Aイエスは誠実な
お方である。Bイエスは愛の実践者であられた。そしてこの小羊には力
があり、富があり、知恵があり、威力があり、誉れがあり、栄光があり
賛美があられる方である。そして小羊の目は「全地に遣わされている七
つの御霊である」(六節)。私達の力が神を見出すのではなく、私達は聖
霊によって信仰へと導かれるのである。この一事をないがしろにして、
教会の中で自分の力で立つことができると考える者がいるならば、その
者は人々に多くのつまずきを与えることになる。サタンは巧妙に私達に
迫るので注意しましょう。

週報(2000年2月20日)

   天上の礼拝
                            朝位真士
 ヨハネ黙示録四章一〜一一節を通して「天上の礼拝」というメッセー
ジを語った。ヨハネは聖霊に感じて幻を与えられ、聖霊によって七つの
光景を見せられる。@「開かれた門」があった(一)、A天の玉座に関す
るものであった(二)、B二四人の長老である(三)、C玉座から音が述べ
られている(四〉、D七つのともし火がある(五)、E水晶に似たガラスの
海のようなもの(六)、F四つの生き物を見る(七)。
 人間はだれしもやがて訪れるであろう死の瞬間のことを考える。また
死後どのような形で神の御国に至るのか、いろいろ想像をめぐらせてみ
る。しかしそれはいつでも単なる空想に終わってしまうのである。とこ
ろが黙示録四章を読むとこれらのみことばに力があり、真理のすがすが
しい響きがあることを洞察することができるであろう。これほどの迫力
に満ち、神の臨在感に満ちあふれた光景を私は見たことがない。そして
ここに「天上の礼拝」にふさわしく、四つの生き物を始め、多くの民が
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつて
おられ、今おられ、やがて来られる方。」(八)として、主なる神を讃美
している。

週報(2000年2月13日)

   わたしは戸を叩く
                            朝位真士
 ヨハネ然示録三・一四〜二二節を通して「ラオディキアの教会」につ
いて学んだ。その中で、主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいて
いる。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に
入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであ
ろう。」(二〇節)と語っている。特に「見よ、わたしは戸口に立って、
たたいている」という復活の主のことばは、二つの意味に受け取ること
ができる。(一)世の終わり、キリストの再臨が近づいた警告とも考えら
れる。(二)キリストのことばは、むしろ人の魂を愛する者の訴えととる
べきである。愛の人であるキリストが人々の心の戸をたたかれる姿の中
に、キリスト教の偉大な真理を見る。@キリストの訴え。Aキリストの
申し入れ。B人間の責任。キリストが戸をたたかれるのに対して、人は
こたえることもできるし、拒むこともできる。有名なホルマン・ハント
が書いた「世界の光」の絵では、人間の心の戸の引き手は外側になく、
内側からだけ開けられるようになっている。
 主は今日も私共の心の戸をたたき続けておられる。戸を開くなら「食
を共にする」と言われた。これは本当に親しい愛の交わりを意味してい
る。これは天国での愛餐の時を示しているかもしれない。

週報(2000年2月6日)

  わたしの新しい名
                            朝位真士
 ヨハネ黙示録三・七〜一二節を通して「フィラデルフィアの教会」に
ついて学んだ。まずこの名前の起源は「兄弟愛」という意味である。主
イエス・キリストは「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方」とし
て、「わたしはあなたの行いを知っている」と言われた。彼らは力は弱
かったが、キリストの対する信仰を守り通したとしてほめられている。
この教会の人々は更に忍耐して神の言葉を守ったゆえに、全世界に来よ
うとしている試練の時に、主イエスは彼らを守ると言われる。また「勝
利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。」とも語られ、「わた
しはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神
のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そしてわたし
の新しい名を書き記そう。」と語っている。キリストの新しい名は、お
そらくその再臨に際してもちたもう名(一九・一二・一六)をさしている
と考えられる。 また忠実なクリスチャンの上に神の名を書き記される。
それは、神の都、新しいエルサレムの名前が書きつけられる。忠実なク
リスチャンの上に、キリストはご自分の新しい名を書きつけられる。イ
エス・キリストは忠実な者にご自身の名を与えられる。いつの日か、キ
リストがすべてのものに勝利したもう時、キリストに忠実であった人た
ちは印を身におび、その印によって、彼らがキリストのものであり、キ
リストの勝利にあずかる者であることが示されるのである。

週報(2000年1月30日)

   井上スミ姉召天に想う
                                             朝位真士
 井上スミ姉が、一月一九日(水)午前九時四五分に八二才の生涯を終えて召天された。姉は一九一七(大正六)年
一一月一一日東京都港区芝高輪で誕生されて、ミッションスクールの青山女学院を卒業され、イースタン・モー
ターズの社長秘書を長くされた。独身で、キャリア・ウーマンであった。桜ヶ丘教会では一番古い信徒で、一九
三一(昭和六)年一〇月一一日に板井康祐牧師より受洗されて、名実ともに桜ヶ丘教会の歴史を担われた方であっ
た。姉の母上も姉上も井上姉より導かれて受洗されて、家族で教会生活をしておられた。養子の善文さん(姉上の
長男)も幼児洗礼を受けられて信仰生活を励んでおられた。私共は井上姉のマンションでしばしば昔の話を伺い、
古いお写真も拝見させていただいた。大変なモダンな婦人で、当時としては進歩的な考えをもっておられ、自立
していた女性であったと伺っている。昨年頃より体調を崩されて礼拝出席もできなくなったが、訪問するとニコ
ニコとして私共を迎えて下さった。私は一月四日にお会いしたのが元気な井上姉の最後であつた、一月一七日午
後、古畑病院に訪問させて頂いた時はもう危篤な状態であった。一九日午前九時四五分静かに天国に旅立たれた。
一九日、ご遺体を教会に運ばれ、二一日(木)午後六時、前夜式、二二日(金)午後一時、告別式が桜ヶ丘教会礼拝
堂で行われ、私が司式をさせて頂いた。井上さんは本当に誰にも迷惑をかけずに天国へ行かれた。もう少し長く
地上でとは思ったが、神の最善がなされたと思う。ご遺族や知人の方々、教会員たちはもう少し長くと思ったが、
神の時に合わせて天国に行かれたと思ぅ。「『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」(ヨハネ黙示
一四・一三)栄光を主に帰す。

週報(2000年1月23日)今日は私が仕事で教会へ行かなかったので週報はありません。ごめんなさい。


週報(2000年1月16日)

  イエスは語る
                                              朝位真士
 ヨハネ黙示二・一八〜二八を通して語った。イエスはまずティアティラの教会に語った。「わたしは、あなた
の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。」ティアティラは商業都市で染色業が盛んであった。パウロがマ
ケドニアに渡ったとき、ピリピの町で最初に悔い改めに導かれたルデヤはこのティアティラの紫布の商人であっ
た(使徒一六・一四)。アポロやアルテミスの神殿もあり、皇帝礼拝にしても、その気風が強いというわけでもな
いが、それだけにいろいろな誘惑に対する身構えが十分でなかった。しかしこの教会は、信仰においても、愛と
奉仕においても、初めより成長してきていた。しかし、イゼベルという女を、そのなすがままにさせていた。ア
ハブ王の妃イゼベル(列王上一八章、下九章)が不純な信仰をもたらす女預言者の型として用いられている。彼女
は、ツロの神バアル礼拝を結婚といっしよにイスラエルにもちこんだ。異教の社会で信仰を正しく保ってゆくた
めには、なかなか障害が多かった。主はどのような者にもいつも悔い改めの機会を与えて、忍耐をもって待ちた
もう。ティアティラのクリスチャンへの神の約束は、勝利を得る者、主のわざを守る者に対する約束であった。
@諸国の民を支配する権威である。Aその権威の内容はキリストの場合と同じである。B明けの明星が与えられ
る。@Aは世の終わりに至って、クリスチャンは文字通り支配権を獲得、確立するということである。Bの明け
の明星とは何か。これは金星で、天体の中で太陽や月に準じて明るい星である。希望の象徴として輝き、私たち
にその日の喜びを約束してくれる。挫折感を味わっている者に、新たな一日の輝きを与え、悔い改めることによ
って新しい人生を迎える。

週報(2000年1月9日)

   新年礼拝
                                              朝位真士
 一月二日の新年礼拝に於いて今年の御言葉「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能で
す。」(フィリピ四・一三を中心に、四章一〇〜二〇節を語った。まずパウロは、波乱にとんだ伝道の生活の中
で、ひたすら主に従ってゆくことによって自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたと言っている。「満
足すること」は人間の本来の生活はその魂にあるとするストア哲学の基本的な原理を示す言葉である。すなわち、
それはどのような外的環境の中にも内的にも満足をもっている状態である。パウロはありとあらゆる境遇に対処
する秘けつを心得ていた。それは自己訓練や、この世を超越して心の世界に逃げることによってではなく、「わ
たしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(一三節)。次にフィリピの人達がパウロに対
して何度も贈り物を贈ってくれた事に対する感謝を述べており、それは香ばしい香りであり、神が喜んでんで受けて
くださるいけにえである。パウロが欠乏をフィリピの教会の人達によって補ってもらつたように、神は彼らのい
っさいの必要を、「御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて
満たしてくださいます」(一九節)。
 最後に、二〇〇〇年はいろんな意味で先行き暗い年のように思われ、希望のない年のように予測される。しか
し、聖書は「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖書の
力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ一五・一三と語っている。新年から年末迄、御言
と信仰の確信によって、希望に満ち溢れる年である事を神に期待したいものである。

週報(2000年1月2日)

   新年の希望
                                              朝位真士
 新年あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願い申し上げます。
 さて今年の御言葉は「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です。」(フイリピ四・一三)
が与えられました。この新しい二〇〇〇年という記念すべき年に、祈っていましたら右の御言葉が与えられまし
た。昨年は悲しい出来事(召天者四名)や、嬉しい事(五人の転入者)、旧会堂マンション売却等いろいろな事があ
りました。 未だ九九年度は数ヶ月残っていますが、何が起こっても不思議ではない二〇〇〇年です。新会堂が与
えられて三年目に入り、石の上にも三年と言いますが、益々宣教牧会を積極的に進めて行きたい。その為には、
まず基本が大切。 それは桜ヶ丘教会の三つの目標、「個人信仰の確立(まず個人の霊性が向上する事が大切で
す)。その為には基本に忠実に祈る事。聖書を読む事。諸集会に励む事。スポーツ選手はどんなにベテランであっ
ても、基本運動は欠かさないそうです。二、全家族の救い。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家
族も救われます」(使徒一六・三一)。三、個人伝道による教勢倍加。神の国に私だけが行くのではなく、私共の
家族、友人、知人、未信者の方々が一人でも多く救われる様、祈ってキリストの体なる教会建設をさせて頂きま
しょう。立派な会堂は与えられました。九八人収容(パイプいすを含む)できます。なんとか−人が一人を新会堂
へ導いて、救われる人が増加する様に祈って下さい。主イエス・キリスト降誕二〇〇〇年は主の再臨の間近い年
でもあり、世の終わりの間近い年でもあります。 二〇〇〇年は神の民が増し加えられる年である様、祈って項き
たいです。神に栄光がある様に!

聖歌299番 「導きたまえ、とわの君よ」

1. みちびきたまえ/永久(とわ)の君(きみ)よ/汝(な)が幕屋(まくや)こそ/我らが家/恵みにより-て/強くせられ-/備(そな)えは成(な)りぬ/いざや進まん。

2. 罪(つみ)の鉾先(ほこさき)/鈍(にぶ)るまでは/潔(きよ)きが勝ちを/得(う)る日までは/剣(つるぎ)によら-ず/銃(つつ)によらで-/恵みと愛、分(わ)/かちて進まん。

3. みちびきたまえ/永久(とわ)の君(きみ)よ/我ら喜び/汝(な)が跡(あと)踏(ふ)まん/十字架に代(か)え-て/勝ちの冠(かむ)り-/冠らせたまわん/主は我らに。


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