9月1日(日)教会学校中高科分級 「人となられた神」
暗唱聖句(ヨハネによる福音書3章16節)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
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暑い暑いと言っている内に、楽しかった夏休みも終わってしまいましたね。明日からは学校。宿題は終わりましたか。7月に「十戒」を通して、神様のことを学びましたが、今月はイエス様のことを勉強します。イエス様はどんなお方でしょうか。もちろんキリスト教の教祖様です。どの宗教の教祖様も自分は神の子だと言いますが、もちろんクリスチャンも、イエス様は神の子だと考えています。このあたりのことは、三位一体(さんみいったい)と言いまして、昔のキリスト教の神学者たちが考えた、難しい学説がありますが、私たち素人が、難しい学説を研究することは、容易なことではありません。ですからとりあえず、イエス様は神様と等しく、また神の子でもあられ、しかも完璧な人間であるということにしておきましょう。
今日は神がイエス様という半神半人(体は人間だか、神の心を持っている)となって、この世に来られたということと、その半神半人(イエス様)は、死刑囚として十字架(昔の死刑台が十字の形をしていたから名付けられた)に掛って、死なれたが、それは私たちの罪(キリスト教は基本的に性悪説です)の身代わりに神に捧げられた、生贄であった、ということを学びましょう。
聖書1(ヨハネによる福音書1章14〜18節)
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
聖書2(ペテロの手紙一2章22〜25節)
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
言葉の意味
ヨハネ1:14 言(ことば)・・・ヨハネによる福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」で始まっています。「言は神であった」というと、禅問答のようで、真意を量りかねますが、キリスト教は言葉を、神に等しいくらい重視していることは、間違いありません。確かに言葉を自由に使える動物は人間だけですから、言葉にはなにか、神々しい神秘的なものがありますね。例えば、なにもお金や道具によらなくても、一つの言葉が、相手を励ますこともできるし、また傷つけることもできる、というように。
肉・・・肉とは、イエス様のことを言ってます。
父・・・父とは神様(いわゆる天の神様)のこと。
1:15 ヨハネ・・・このヨハネは、バプテスマ(洗礼者)のヨハネと言って、イエス様がいらっしゃる少し前に、イエス様のことを紹介した人(預言者)のことです。ヨハネによる福音書を書いた、弟子のヨハネとは、別人です。
1:17 モーセ・・・昔のイスラエルの偉大な指導者。イスラエルの民を率いて、エジプトを脱出したことや、神から十戒が書かれた板を与えられたことなどで有名。モーゼとも言います。
1:18 神を見た者はいない・・・昔のイスラエルの人は、神を見ると死ぬと考えていました。モーセも神の火を見たり、神の言葉は聞きましたが、神自体を見たのではありません。ということは、神様は異次元の世界に生きておられるので、目に見えないのでしょう。普通は、神様が人間とコンタクトをとる場合には、人間の形をしたみ使いとしてあらわれました。しかしみ使いは、目的を果たすと消えてしまう、一時的なものですから、イエス様のようにずうっと長期間にわたっていらっしゃった方を、み使いとは言いません。 |
ペテロ一2:22 この方・・・イエス様のこと。 25節の「魂の牧者であり、監督者である方」も同じくイエス様のこと。
2:23 正しくお裁きになる方・・・神様(天の神様)のこと。
2:24 罪・・・キリスト教など、死を深く考える宗教は、性悪説の教義になりがちです。たとえば、アダムとエバ(イブ)は、神様の言いつけに背いて、禁断の木の実を食べたので、楽園を追い出されたとか、その息子カインは、兄弟げんかをして、弟アベルを殺した、というように。キリスト教は、神様に死はないのに、どうして人間は死ぬのかという疑問を、罪に結び付けます。(例:ローマの信徒への手紙
5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。)
ただしイエス様は、子どもには死に値する罪はないともおっしゃいました。(例:マタイによる福音書
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。)
考えてみましょう
@ 今日の暗唱聖句は、「聖書中の聖書」と言われるくらい、有名な個所です。心の中で、深く味わいながら、何回か読んでみましょう。では質問です。神様は、この世の人たちを愛し、人間の苦悩に心を痛められて、独り子イエス様を、この世に送ってくださいました。その目的は何でしょうか。
A 聖書2(ペテロの手紙一2章22〜25節)を読んでみましょう。イエス様は、死すべき罪のある私たちのために、何をしてくださいましたか。
B 聖書2は、テレビや映画で見た古代宗教の生贄(いけにえ)の儀式と似ていることに、気づいた人がいるかも知れません。昔のヨーロッパやアラブの国々では、傷のない少年少女を神様に生贄としてささげる習慣がありました。しかしまことの神様は、人間を殺して生贄とするのを禁止しています。それどころか、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架に掛ってくださったことを信じれば、もう動物の生贄も、あるいは免罪符さえも必要ではないのです。神様に感謝しましょう。もっとも、現代では、教会に羊や山羊を持ってこられて、生贄にしてくださいと言われても、困ってしまいますが。
お知らせ
今日の教会学校は分級の時間に振起日パーティをします。振起日(しんきび)とは、二学期も元気にがんばりましょうと言う意味です。お茶とお菓子がありますから、みんな来て下さいね。
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今週の祈り
「天のお父様。私たちを愛し、罪から救うためにイエス様をこの世に送ってくださってありがとうございます。このお祈りをイエス様のお名前によっておささげ致します。アーメン」
1.罪、咎(とが)を赦(ゆる)され/神の子となりたる/我が霊(たま)の喜び/比べ得(う)るものなし/
[おりかえし] 日もすがら証(あか)しせん/夜もすがら主を誉(ほ)めん/「み救いは妙(たえ)なり/み救いは奇(くす)し」と。
2.主に全(また)く従い/安(やす)き得(え)し我が身に/天(あま)つ家(や)の歌声/響(ひび)き来る心地す/
3.主のものとせられし/我が身こそ幸(さち)なれ/感謝なき日はなく/讃美なき夜(よ)はなし/ |
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