第12章
もう、多くの人の人の血で汚れてしまった二人の両腕は、どうすることも出来ないけれど、
そのときの二人はまるでまだ何も知らない子供のようで、一度も人を疑ったことがないような
綺麗な瞳をしていた。
そんな中で、健光は今までの全ての罪を洗い流すかのように、涙を流しつづけた。
「さあ、義輝様。戻りましょう、屋敷に。…私の腕に掴まって下さい。帰って、手当てをしましょう。」
しかしこれだけ出血して、もう助かる筈が無いことは、二人には今までの経験から分かりすぎる
ほどに分かっている筈であった。それでも、健光は義輝が助かると思いたかったのだ。
「…一人で帰れ…私は、もう駄目だから。」
力なく、義輝が言った。
健光も黙ってはいない。絶対に連れて帰ると、そこから動こうとしない。
しかし義輝は、助かるはずの無い自分の…義輝自身がこの世で一番嫌っている死というものを
健光に見せるという事が、愛しい者に自分の死を見せるという事が、たまらなく嫌だった。
―見られたくないのだ。お前にだけは。人間の…私の一番醜い姿を。―
頼む、帰ってくれ…もう殆ど残っていない体力を振り絞り、義輝は強く健光へ言い放つ。
「帰れっ!主人の言うことが聞けないのか!」
それでも、健光は引き下がらない。
「嫌だ!連れて帰ります。一緒に帰りましょう。まだ…まだ手当てをすれは、助かるかも
しれないのに…。」
二人とも自分の意見を通そうと必死になる。
ゲホッ、突然義輝が血を吐いた。健光の顔が色を失った。
「義輝様っ!」
義輝に触れようとした。しかしそれより早く、義輝の手が健光を制止する。
「行け…私は後から行く。必ずだ…先に帰っていろ。ぐずぐずするな。約束だ。…必ず帰る。」
力無く義輝が言う。
「そんなっ!義輝様。」
嫌だとでも言いたげに健光が言う。
すると、義輝はきつく言い返した。
「帰れ。私の言うことを聞けない家臣など私は要らぬ。お前とはここまでだ。傍へ寄るな。」
そして、少し深く息を吸い続けた。
「後から帰ると言っているだろう?邪魔なんだ。命令だ。これ以上何も私に言わすな。」
刹那、健光の瞳に絶望の色が顕になった。まさか、義輝にそこまで言われるとは夢にも
思っていなかったのだろう。
健光はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと歩き出した。
2、3歩進んで一度振り返り、
「それでは、先に戻ります。必ず戻って来て下さい。私は…私は義輝様を待っています。
私が邪魔なのならば、義輝様にご迷惑をおかけするようなことは2度と致しません。」
そして前に向き直ると、健光はゆっくりとその場を離れていった。
その小さくなっていく後姿を、義輝は哀しい瞳で見つめていた。
「健光…愛している。…永遠に」
ぼんやりと狭くなっていく視界で、それでもじっと健光が消えていった方向を見つめていた。
どこからともなく、薄紅色の桜の花びらが舞って来た。
その後、義輝がどうなったのか知る者はいない。
つづく
20020803UP