最終章
―それから一月―
健光の元に義輝は、戻らない。
周りのものは、義輝の両親でさえも、もう義輝は死んでしまっただろうと噂した。
それでも健光は、主人の帰りをただひたすらに待つのであった。
どこを見るとはなく青々と葉を茂らせる桜の木をぼんやりと見つめ、義輝を見た最後の日を
思い出していた健光の瞳に、もう枯れてしまったかと思っていた涙が一筋流れた。
あの日、義輝の手を離してからもう一月。
義輝がつけた首筋の刻印は、もう見つけることすらできない。
こうやって少しずつ、義輝のいた印を無くしてしまうのかもしれない。
『義輝様、私も認めなくてはいけないのでしょうか?あなたの不在を。』
何度も自分に問い掛けた言葉だった。
その夜、星も月も眠ってしまったかのような暗闇の中で一陣の風が吹いた。
「義輝様、戻ってこられたのですね。待ち侘びておりました。」
眠れずに寝所で長い夜を持て余していた女房の一人が、健光の部屋から
そんな声を聞きつけた。
暗闇の中、他の女房を起こして健光の部屋へ立ち入ってみると、健光は幸せそうな
顔をして横になり、もうぴくりとも動かなかった。
…とても幸せそうな顔だった…
不思議なことには、もう咲いているはずのない桜の花びらが、四、五枚健光の傍らに
落ちていたことだった。
―――そして時は流れる―――
その学校には、とても大きな桜の木があった。
スポーツで名を馳せたその学校に少年は寮生として入学した。
誰もが周りに抜きん出て、レギュラーの座を掴み取ろうと必死になっていた。
そんな中で、友達などできるはずもなく、一人きりの戦いに少年は疲れていた。
毎日の練習が終わると、少年は寮の隣に立つ桜の木に向かう。
『駄目かもしれないな。』散り始めた桜の花びらを見ながらため息をついた。
桜は少年の心を、安心させる。しかし同じだけ不安にさせる。
『何故なんだろう』昔からそうだった。思い出しそうで思い出せない。
思い出せない記憶に思いを馳せる。
桜は益々、その花びらを宙に躍らせる。
「こんにちは」
空を舞う花びらの向こうから声が聞こえた。
「あ…」花びらが邪魔をして相手の顔がうまく見えない。
何だろう、花びらの向こうの声に遠い思い出がざわめく。
『お帰りなさい』何故だか口から出そうになった、その不自然な言葉を飲み込む。
廻り廻った輪廻の輪は、再び彼らを出会わせた。
桜はただ見守るだけ。
「はじめまして。あの…あなたは。」
そしてそれはこれからのお話…
END
20020818UP