風紋



「船に乗るのは初めて?」

 朝、昨日と変わらぬ美しい白い顔に笑顔を浮かべて、ソルシィはヴェントスに尋ねた。
「ああ」
 彼は頷くと、答えた。
「海を渡ったことはないんだ」
「記念すべき出航ね」
 ソルシィは上機嫌に見えた。昨日までとは様子が違う。
「なんか……」
「なにかしら?」
 話し掛けると彼女はすぐに振り向く。長い白髪が揺れる。船を待つ港で、潮風が彼女の髪をなぶる。
「マウラに何かあるわけ?」
「…………」
 ふと、口を噤み。
 彼女はまた、海を見つめた。
「お嬢様は情緒不安定」
 ディートが背後で苦笑する。
「なんで?」
「さあ……だが、これだけは言える。マウラに行けばすべて解決だ」
「へえ?」
 首を傾げるヴェントスの耳に、甲冑が鳴る音が聞こえた。
「もうこちらへ来ていたのか、ソルシィ。追い掛けなければ私をおいて船に乗りかねない勢いだな」
 ラスフォンドだった。
「あなたに供を頼んだ覚えはないもの。ついて来たかったら勝手についてくることね」
「君を護るためにナイトの腕を磨いているのに−−」
 ぽつりと。
 そう、ラスフォンドは呟く。
 ややあって。
 ソルシィはさっと振り向くと、ラスフォンドを見上げた。
 首の細い小柄な女が長身のエルヴァーンの男を見上げる姿は、総じて可憐に見える。この摩訶不思議な女ですら傍目にはそう見えなくもないなと、ヴェントスは思った。
 見上げられて、ラスフォンドはやや面喰らったようだ。
「わかったわ。私を護ってくれるというのね?」
「……も、勿論」
「いいでしょう……ディート」
「はい、お嬢様」
「船旅の間は、ラスフォンドに護衛を頼むわ。あなたは休んでいていいわよ」
「それは有り難い。では私は釣りでもするとしましょう」
 ディートは嬉しそうに笑った。ラスフォンドは秀麗な顔に驚きを浮かべてソルシィを見下ろしていたが。
「任せてください」
 と、ディートに言った。
 船が着く。
「頼りにしているわ。ラスフォンド」
 差し出されたソルシィの硬質な白い手を取る、小手に包まれたラスフォンドの指先は、僅かに震えていたかもしれない。
「………………」
 チアキは黙ってその後ろから船に乗った。
「ああ、甲板は危険だから。出ない方がいいかも……」
 ヴェントスにそう言いかけて、彼女は首を傾げた。
「そうなのか?」
「ええ。海のモンスターが徘徊するし…海賊も。どうしても出たいっていうなら、聴覚遮断の魔法をかけてあげるけど」
「?」
「スニーク。白魔法よ。私は白魔導師なの。足音を消せば、船に現われるモンスターに襲われることはないわ」
「へえ。そんな便利な魔法があるのか。白魔法っていいな」
 素直に感心したヴェントスに、チアキはようやく笑顔を見せた。
「あなたがもしやられても、レイズしてあげるから心配しないで」
「はは。そりゃ頼もしいな。宜しく頼むよ」
 ディート、それにソルシィとラスフォンドは早々に甲板へ出ていた。ヴェントスはチアキにスニークをかけてもらい、同じく甲板に出る。湿った潮風が頬を撫でた。
「こりゃ凄い眺めだ」
「船から、ウィンダスの星見の塔が見えるのよ」
「星見の塔?」
「そう。ウィンダスの指導者である星の神子様がいらっしゃるの」
 チアキは赤い短い髪をなびかせて、そうつぶやいた。首の辺りで切りそろえられた髪だが、頭の後ろで一部を結んでいる。娘らしい可愛らしい姿だ。
 ヴェントスは視線を転じて、優雅に景色を眺めている白いローブのソルシィと、すぐ側に立つナイトAFのラスフォンドを見た。ラスフォンドの視線の先は常にソルシィの顔がある。
「あの二人、絵になる。お似合いね」
 寂しそうに、チアキがそれを一瞥してつぶやいた。
「そうかな。俺はそうは思えないけど」
 ディートの方が見劣りがしない。ヴェントスは内心そう思っていた。ソルシィという女の側に立っていると、ナイトAFを着たラスフォンドが何故かひどく安っぽく見える。何故だろう?
「あんたの方がお似合いだと思うぜ。あの男には」
 分相応。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。悪い意味ではなくて−−−、むしろ、いい意味でだ。
「人間同士って感じがして」
「何よ、それ……」
「ソルシィって、人間じゃないよな。ああいう女を好きになるときっとろくでもないことしか起こらないような、そんな気がするよ。俺は」
 ディートは悠然と釣りをしている。ときどき蛸のようなモンスターを吊り上げては、眉一つ動かさず大きな斧でまっぷたつにしては、海に放り捨てている。
「シーモンクの脚は美味しいかしら?」
 ソルシィがそう笑いながら尋ねると、ディートは首を振って。
「歯ごたえはありそうですが」
 と答えた。
 ラスフォンドは、それを聞いたせいなのか、ひどく嫌な顔をして、海を見つめた。

 そのとき、ふっと。

 甲板に大きな影が現われた。
「!」
 チアキが気づいて、ヴェントスの肩を叩く。
「気を付けて、向こうの船長室の裏へ隠れましょう!」
「なんだ?」
「シーホラー! そのまま、海の脅威と呼ばれる怪物よ! 絡まれたらレベル75でも勝てないわ」
「!?」
 ディートが釣った蛸よりも大きな、巨大な蛸だ。
 悠然とシーホラーは、甲板の上を散歩しはじめた。
「ラスフォンド!」
 船長室の後ろに隠れようとしたヴェントスの耳に、ソルシィの悲鳴に似た声が聞こえた。
「あ、ちょっと、ヴェントス! 行ったってあなたが死ぬだけよ!」
 チアキの制止が耳を通り抜けたが、身体が動いていた。
 甲板では、まさに巨大な蛸の触手が、ソルシィの身体を痛めつけていた。
「助けて、ラスフォンド!」
 ラスフォンドは剣を抜いたまま、動けずにいる。
 脚が竦んでいるようだ。顔色をなくしている。
 ナイトAFを着ていても、シーホラーは恐怖なのか……。
「私では、勝てない。ソルシィ。シーホラーは……」
 助けに入っても殺されるだけで、そうなればソルシィも……と、ラスフォンドは思ったのかどうか。
 ディートは悠然と釣りを続けている。
 ヴェントスは目を疑った。
「ソルシィ、あんた移動魔法が使えるんだろ! 俺が囮になっているあいだに、逃げろよ!」
 高位の魔導師は移動魔法が使えるということを、ヴェントスは乏しい知識で知っていた。戦士の彼はシーホラーに、その技である挑発をかけ、その攻撃を引き受けた。
「即殺だから、さっさと逃げろ!」
 レベルが高くなればなるほど、次の高みに行く道が困難になる。道の途中で倒れれば積み重ねた経験と技の一部が失われるが、レベルの高さのぶんだけ、その損失も甚大になるというわけだ。
 自分ならすぐに取り戻せるし。
 そう思ってヴェントスは身替わりになった。
 蛸の触手でひと撫でされただけで、ヴェントスは地に伏した。見事なほどだ。



「よくわかったわ」



 得物を失った蛸を見て、ソルシィはため息をはきだし。首を横に振った。
「使えない男」
 ラスフォンドにそう言い放って、彼女は腕を広げる。精霊魔法の光が拡がる。
 ぱっと炎が散ったかと思うと。
 あっという間に大蛸はのたうちまわった。
「ディート。何か落とすかもしれないからあなたにあげる」
「これはありがたい。いただきます」
「あなたでも大変だと思うから、後ろから回復はしてあげるわね、ディート」
「光栄の至りですな」
 釣り竿をしまうと、ディートは斧を構え、猛然とシーホラーに向かって行った。ラスフォンドはただ剣を下げ、呆然とそれを見ていた。



 巨大な蛸のモンスターは斧で刻まれ、海に捨てられた。



「ヴェントスに、レイズをしてあげて」
 いつの間にか船長室の裏手から出て来ていたチアキに、ソルシィがそう優しく言った。
「は、はい」
 チアキのレイズで復活したヴェントスは、衰弱状態で座り込んだまま、ソルシィを見上げた。
「……ひょっとして、大きなお世話だったってやつかな」
「とんでもない」
 ソルシィは首を横に振り、にっこりと微笑んだ。
「そうね……『かっこよかった』わよ? あなたもそう、思わなくて?」
 話を振られて、チアキは驚いたようにソルシィを見ると、頷いた。
「ええ。……無謀だけど……」
「そう。無謀ね。でもおそらく彼ができた最善の方法を取ったのだと思えば、そう悪くはないわ。ヴェントスに選択肢は限られていたもの。その気持ちが何よりも大切よ。護ってくれて、ありがとうヴェントス」
 素晴らしく美しい笑みを浮かべて、ソルシィは彼に回復魔法をかけた。
「これから楽しみね。これを糧にして、いい男になってちょうだい」
 剣をしまう音に、ソルシィとチアキが振り向く。
 視線を落とすラスフォンドは、言葉もなくうなだれていた。
「あなたはマウラに着くまでは私の護衛よ。それを忘れないでちょうだい。せめて最低限のことはしてほしいものだわラスフォンド」
 ソルシィは容赦なかった。チアキが声をかける。
「……ラスフォンド……」
「試すような真似をするあんたもどうかと思うがね。ソルシィ」
 ヴェントスが言うが、ソルシィは首を横に振る。
「だって、私を護ると言ったのよ彼は。本当になくしたくないものなら、理屈抜きで身体が動いてしまうものじゃない? つまり、彼にとって私はその程度の価値しかないものなのよ。いいえ、この人にとって自分より大切なものがあるのかしら? そのことを、ラスフォンド自身に気づいて欲しかっただけよ」
「何を言われても、仕方がないと思う。ナイトとして恥ずかしい行為だった。許して欲しい、ソルシィ」
「そう言えばあなたのプライドが保てるというのなら、別に構わないわ。事実は変わりはしないけれどね」
 情け容赦のない仕打ちだった。ヴェントスはため息を吐き出す。
「ほんと、かっこわるーい」
 ふいに、ソルシィの隣でそう言ったのは、チアキだった。
「!?」
「今思い出したけど」
 そして、くすっと、笑って。彼女はラスフォンドに歩み寄ると言った。
「ラスフォンドって、お魚が嫌いだったわよね?」
「!? チアキ……君にそんな話をしたことはないはずだ……」
「だって、キャンプしてるときにいつもまずそうな顔して。ねえヴェントス、知ってる? ナイトのお食事は海のものなのよ。貝や蟹。お魚もかな? でも、ラスフォンドは本当はお肉の方が好きなのよね?」
 覗き込まれてそう言われ、ラスフォンドは目を見開いた後に、耳まで赤くして目を逸らした。
 今日は厄日だな、色男。
 ヴェントスは内心ひどく同情した。
「船の上で、何度もやられたんじゃない? ホラーやモンクに」
「そんな昔のことなんて……」
「私、さっき思い出したの」
 こくりと、チアキは頷き。
「あなたとジュノで出会う以前に、船で一緒になったことがある。スニークを知らなくて、私をかばって死んだわね」
「………!?」

 ラスフォンドは、粗末な装備を身につけた戦士だった。当時は。
 深夜で、船の乗客は彼とチアキしかいなかった。
 甲板にホラーが現われて、逃げ場所のない船の上で。
 そのときチアキは黒魔導師だった。デジョンが使える。だから、自分が囮になっている間に逃げろと言って、彼はホラーに向かっていって、その技である挑発を使った。

「本当は、サイレントオイルをね、私、使ってたの。あのとき。あなたが死んでホームポイントに戻ったあとに、申し訳なくて……でもさっきまで忘れていたわ。ジュノで出会ったあなたが同一人物だとも思わなかった。こんな大事なことを忘れていたなんてね……」
 記憶を辿っているのか、しばらくチアキを見下ろしていたラスフォンドは。
 思い当たったかのように、その後、ひどく罰の悪い顔をした。
「あのときお礼も言えなかったから……。あのときは護ってくれてありがとう。ラスフォンド『さん』」
 そう言ってチアキは微笑んだ。先程見せた、ソルシィの笑みと同じような、美しい笑顔だった。
 ラスフォンドは何も言わなかったが。
 船を降りる時には、すっかり、顔つきが変わっていた。








「ソルシィ、すまなかった。私は、身の程を知らなかった」
 マウラ港で、ぽつりとラスフォンドはソルシィにそう、つぶやいた。
「素直ね。素直な人は素敵よ」
 ソルシィはそう答えて、見上げて微笑んだ。見返すラスフォンドの表情は穏やかだった。ヴェントスはただ首を竦めて、ディートに囁く。
「すっげえスパルタ……」
「だが、ソルシィお嬢様に言い寄る男に、お嬢様があそこまで相手をして差し上げることなど滅多にない。ラスフォンドは見込みがあるということだろうな」
「何がよくってあんな女に言い寄るんだか」
「そういう君も、先ほどは我が身を顧みずお嬢様を助けに行ったのではないかな」
「別に。あの女じゃなくたって、やったよ。だけどあんな演技派だとは思わなかった。強いくせに……あの女」
「私が獲物を譲っていただいたが、お嬢様ならホラーなど、ものの1分とかからずに片付けておしまいになるだろう」
「うへえ」
 二人の会話を他所に、ラスフォンドとチアキは肩を並べて歩いている。今更昔話をしているらしい。チアキは笑っている。屈託のない顔だ。
「なんで執事なんかしてるんだ? あの女、護衛なんかいらないじゃないか」
「お嬢様の無聊をお慰めするためさ」
 ガルカは片目を瞑ってみせると、そう言って肩を揺らして笑った。
「さあ、お嬢様」
 声をかけられて、ソルシィはぴたりと脚をとめる。
「?」
 傍らの二人が怪訝そうにソルシィを見た。
「宿屋に向かわれますか。また、私が先に行くのですか?」
「……ええ……。ええ、そうね。お願いするわ、ディート」
 振り向いた彼女の顔は、緊張で強ばっていた。

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