風紋




 黄泉帰りを求めるのなら、私の手をとりなさい。



 誰かがそう言った。




 バルクルム砂漠の白さが目を刺す。
 砂嵐ばかり起こる、ここの太陽光の鋭さはいつも変わらない。ここからラテーヌ高原へ抜けるとしょっちゅう雨が降っているというのに。
 突き抜けるように青い空と、差し込む陽光と、それを反射して目を灼く真っ白な砂が見えた。
 真っ白な砂?
 おかしい。
 ヴェンタスは首を傾げて身体を起こした。
「急に動いてはいけないわ。座っていなさい。そのうち体力も戻って来るから」
 女の声がヴェンタスの耳を撫でた。
 彼が振り向くと、背後に女が立っていた。
 真っ白なローブに似た衣服が、再びヴェンタスの目を灼く。眩しさに目を細めて彼はその女を確認した。
「あんたが助けてくれたのか?」
 彼がそう云うと、女は見下ろして答えた。
「そうよ」
 余り抑揚もなく、女はそうつぶやく。
 もしかして、あれがレイズというやつだったのだろうか。
 女はヒュームに見えた。背丈は平均的な高さで、耳も尖ってはいない。ただ、ヴェントスの知るヒュームの女の誰にも似てはいなかった。
 彼女は長いまっすぐな髪を下ろしていた。
 髪は真っ白だった。
 ヒュームの女性の冒険者でこんなに長い髪を下ろしたままにしている者はいない。邪魔だからだろう。この若さで白髪というのも初めてだ。
 だが彼女は腰のあたりまであるような真っ白な髪を、ときおり起きる砂嵐に弄ばせるままに、すんなりとそこに立っていた。
「白魔導師さんか。レイズなんて初めてだったから驚いた。ありがとう」
 そう云うと、彼女は腰に手を当てて彼を見下ろした。
「気にすることはないわ」
 逆光になって女の顔はよくわからなかった。ヴェントスはまだ体力が回復していないのだ。もう少しかかるだろう。
 これが衰弱ってやつかと、彼は思った。
「お嬢様、御帽子をおかぶり下さい。砂漠の日射しは毒ですよ」
 女の背後から穏やかな男の声がした。ふとヴェントスが顔をあげると、彼女の背後に大きな姿が現れたのがわかった。とたんに辺りが影になったような気がした。
「ディート。帽子は嫌なのよ。わかっているでしょう?」
 笑みを含んだ声で彼女は答える。ディートと呼ばれたのは白い髪の堂々たるガルカだった。ヴェントスが見たこともないような黒い重厚な鎧を全身に纏っている。背中に大きな斧を担いでいた。
「はあ」
 穏やかな声で彼は返す。女は満足げに頷いて続けた。
「私の美貌が隠れてしまうでしょう?」
「さようで」
 どうでもいいことのように、ディートは流した。女はわずかに肩を落とすと、
「ねえディート。たまには『お嬢様の美貌が御隠れになるのは残念ですが、この日射しで白いお肌を損なわれてはそれこそ大事。どうぞ御帽子をおかぶりください』とか言ってくれると嬉しいわ」
「台詞が長過ぎて覚えられませんな」
 相変わらず、父親のように穏やかな口調で、ディートと呼ばれたガルカはそう答えて微笑んだ。
「偉大なる魔導師ソルシィ・エ・ラさまは、たとえイフリートの釜の焔に当てられてもお姿を損ないはしないでしょう。御帽子などいらぬお世話でしたな」
 そのくせそんな台詞めいた言葉を口にすると、ぱっと彼の方を振り向いた女に構わずディートはヴェントスを見た。
「ゴブリンにやられたのかね」
 彼に尋ねられて、ヴェントスは頷く。
「ああ。よくある話さ」
 今日ばかりではなくて、今までも何度ゴブリンに道を阻まれたかもしれない。そのたびにバストゥーク商業区のホームポイントと呼ばれる不思議な場所に送り返された。目を開けるといつも、水の飛沫を内にたたえたような、大きなクリスタルに似た美しい石の前に倒れている。
「倒れてからまた砂で目を灼くとは思わなかったよ」
「ははは。皆が通る道だ。私だってかけ出しの頃は、ここで何度倒れたかしれない」
 ディートはそう言って笑った。逞しい肩が上下に揺れて、その度に重厚な装備がかすかに鳴る。背後の大きな斧も。見るからに凄腕とわかるようなこんな人物にも、砂漠のゴブリンごときに遅れを取っていた日があったのだろうか。
 とても想像ができない。
「港に行くのかね?」
「セルビナにいるエルヴァーンの爺さんに用事があって」
「ならば同行しよう。我らもそこへ向かう。よろしいですかお嬢様」
「ええ。………そうね」
 女はこちらを向いてヴェントスの方へ膝をついて覗き込んだ。白い顔がディートの影のおかげでよくわかる。
 なるほど。美貌だ。
 髪も白髪だが睫も眉毛も真っ白だ。睫の奥の眸は青い。内にたくさんのヒビを抱えて複雑な色彩でそのもの自体の色を深めている、青い鉱石のような眸だ。
 バストゥークで貧しさの中に生まれ育ったヴェントスには、磨き抜かれた宝石よりも鉱石の方が馴染みが深かった。
 しげしげと女は彼の顔を眺めていたが。
「可愛い顔をしているわね」
 唐突にそう言った。
「セルビナの用事にはつきあってあげるわ。そのかわり、私の用事にもつきあいなさい」
 立ち上がると、彼女は白いローブに包まれた腕を振り上げた。
 途端にまばゆい白い光がヴェントスを包み込んだ。
 体力が、あっという間に回復したのがわかった。

「私の名前は、ソルシィ・エ・ラ。よろしくね」
 背後でディートが苦笑した。
「また気紛れですかお嬢様」
「気紛れが許される人生ほど贅沢なものはないでしょう?」
「さようで」
 白い砂を踏んで、ソルシィは真っ白なローブの裾をはためかせ歩き始めた。真っ白なローブは裾や合わせ、腕などにくっきりと黒い優美な、そして禍々しい模様が入っている。同色なので遠目には分かりにくいが、おそらく精密な装飾なのだろう。美しいローブだ。その下は同じデザインのスロップスに似た服を身に付けている。どうやら靴も揃いのようだ。
「あんな装備初めて見たよ」
 ついそう、つぶやいたヴェントスに、ディートは答えた。
「オートクチュールだ。職人がいれば作ってくれるだろう」
「……あんたのその装備も?」
「そうだ。誰でも袖を通せるというものでもないが」
 見るからに高そうだ。
 ディートはまた、言った。
「お嬢様の気紛れに付き合わせることになってすまんな。余計な寄り道などしているヒマがあったら、時間を惜しんでおのれを鍛練したい時期だろう」
「いや………」
 曖昧に、ヴェントスは答える。
「ゴブリンに絡まれて倒れるなんて幸先が悪かったが、あんた達に会えたのは幸運だと思う。連れて行ってもらうんだから、それくらいはかまやしないよ」
「私はマウラに用事があるの。そこから先どうするかはあなたが決めても構わないけど?」
 振り向いて、ソルシィが言った。ヴェントスは驚いて目を見開く。
「そりゃ助かる。実は……エルヴァーンの爺さんに会ったあとは、ウィンダスを目指そうかと思っていたんだ。白魔法の修行がしたくて。船旅も危険だっていうから、あんた達と一緒なら無事に海も越せそうだな」
 満足そうに彼女は頷いた。
「それは私も好都合よ。おそらく私達もウィンダスに行くことになるでしょうからね」
 ディートが口の端を持ち上げて笑ったようだ。それが不思議でヴェントスは彼を見上げた。なんでもないというように、ディートは首を横にふる。
「さあ、では行こうか。君の名前はなんというんだね?」
「俺は、ヴェントス」
「あら、素敵ね」
 ソルシィが髪を払って笑う。
「『疾風』、なんて。いい名前だわ」
 そして彼女はすんなりした腕を延ばした。
「?」
「男なら、こんな危険な場所では淑女の手を取って歩くものよ」
 彼女は手袋をしていなかった。白く細い指先は、白魚のような……というよりは、人形のようでさえあった。ヴェントスが面喰らいながらその手を取ると、それは陶器のように硬質でひんやりと冷たかった。
「海岸を、可愛い男の子と歩くのは悪い気分ではないわ」
「ゴブリンにやられて、俺はよれよれのぼろぼろだけどな……。どうせ手を取って歩くならなら、もっといい装備を着たエルヴァーンあたりがいいんじゃないのか。このロケーションなら」
 まばゆい装備を身に纏った美女の傍らにいるには、乞食のようにみすぼらしい。しかも俺は背が低いんだ……、口には出さずそう思ってヴェントスはほぼ真横にあるソルシィの横顔を盗み見た。
「エルヴァーン。確かに素敵ね。でも彼等は背が高過ぎて、お話するのに首が疲れてしまうのよ。それがいいときもあるけど、そういう気分じゃないときもあるの。女にはそういうときがあるのよ。覚えておきなさい。いつか役に立つわ」
 すぐそばでディートが苦笑した気配に、ヴェントスは内心ため息をついた。
 じゃあ女に口説かれたとして、相手の気分によっては俺は嫌われたりするわけだ。
 よくわからないけれど、金持ち−−(金持ちなんだろう)−−のお嬢さんの気紛れ、みたいなもんかな。強そうなガルカの護衛引き連れて、こんな危険な場所で鼻歌気分で御散歩か。
 とてもじゃないが、次元が違うね。
 彼はそう思って、傍らに立つ女の冷たい手を取って歩いた。

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