第1部:資本の生産過程

第7篇:資本の蓄積過程

第24章:いわゆる本源的蓄積

第7節
資本主義的蓄積の歴史的傾向



生産手段の所有形態の変転

資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的な創生記とは、結局どういうことなのか? それは奴隷および農奴の賃労働者への直接的転化、したがって単なる形態変換でない限り、直接的生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私的所有の解消を意味するにすぎない。[789]

この節で概観されているのは、生産手段の所有形態の変転過程である。そのなかで、資本主義的生産社会における生産手段の所有形態の歴史的位置が明らかにされる。

社会的・集団的所有の対立物としての私的所有は、労働手段と労働の外的諸条件とが私人に属する場合のみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかに応じて、私的所有もまた異なる性格をもつ。一見したところ私的所有が示している無限にさまざまな色合いは、ただこの両極端のあいだに横たわる種々の中間状態を反映しているにすぎない。[789]

「奴隷制、農奴制、およびその他の隷属的諸関係の内部」で実存している「小経営」は、労働者自身による生産手段の私的所有を基礎にしている生産様式であり、この生産様式の完成形態が、たとえば、日本の徳川幕藩体制時代の「発達した小農民経営」([745])のように、「労働者が自分の使用する労働諸条件の自由な私的所有者である」ような段階である。([789])

この「小経営」は、「社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のための一つの必要条件である」が、同時に、生産手段の分散を想定している形態であって、すなわち生産手段の集積を排除する。したがって、

同じ生産過程のなかでの協業や分業、自然にたいする社会的な支配と規制、社会的生産諸力の自由な発展をも排除する。それは、生産および社会の狭い自然発生的な限界とのみ調和しうる。[789]

「小経営」制度が内包する、この対立した性格のゆえに、

特定の高さに達すれば、この生産様式は、それ自身を破壊する物質的手段を生み出す。この瞬間から、社会の胎内ではこの生産様式を桎梏と感じる諸力と熱情とが動きだす。この生産様式は破壊されなければならないし、また破壊される。その破壊、個人的で分散的な生産手段の社会的に集積された生産手段への転化、それゆえ多数者による小量的所有の少数者による大量的所有への転化、それゆえまた広範な人民大衆からの土地、生活手段、労働用具の収奪、この恐るべき、かつ非道な人民大衆の収奪こそは、資本の前史をなしている。[789-790]

自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個人とその労働諸条件との癒合にもとづく私的所有は、他人の、しかし形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私的所有によって駆逐される。[790]

資本主義的私的所有は、直接労働者個々人の生産手段からの「遊離」、すなわち直接労働者の私的所有の否定を前提に成立している所有形態である。

この特有の私的所有形態が旧社会全体におよんでゆくとともに、私的所有形態は、さらに変転してゆく。

資本主義的生産様式が自分の足で立つことになれば、ここに、労働のいっそうの社会化、および、土地その他の生産手段の社会的に利用される生産手段したがって共同的生産手段へのいっそうの転化、それゆえ私的所有者のいっそうの収奪が、新しい形態をとる。いまや収奪されるべきものは、もはや自営的労働者ではなく、多くの労働者を搾取する資本家である。[790]

こうした収奪は、資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中によって、なしとげられる。……この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と相ならんで、ますます増大する規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的な労働の生産手段としてのその使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへのすべての国民の編入、したがってまた資本主義体制の国際的性格が、発展する。[790]

この私的所有形態のさらなる変転は、その過程そのもののなかに、「生産手段の集中と労働の社会化」とが、それぞれに、対立しながらも相互に分かちがたく関連しながら進展してゆくという、矛盾をはらんでいる。

この転化過程のいっさいの利益を横奪し独占する大資本家の数が絶えず減少していくにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取の総量は増大するが、しかしまた、絶えず膨張するところの、資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大する。資本独占は、それとともにまたそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的な外被とは調和しえなくなる一点に到達する。この外被は粉砕される。[791]

資本主義的私的所有の歴史的位置

資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果――すなわち、協業と、土地の共同占有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共同占有――を基礎とする個人的所有を再建する。[791]

収奪者の収奪

資本主義の黎明期には、略奪と殺戮による収奪によって「本源的蓄積」がなされ、この原初の蓄積過程が、資本主義的生産様式の確立と発展の起点となった。収奪は「法則」となり、この法則によって、収奪者が収奪される段階にいたる。

収奪者が収奪される過程には、二段階ある。まず、小資本がより大きな資本に吸収され合併され、資本独占がすすんでゆく過程である。この過程が、不可避的に、圧倒的多数の労働者階級を形成してゆくことになり、また同時に、貧困、隷従、圧迫、偏狭を、ますます広げ、強めてゆくから、労働者階級のみならず人民大衆全体の利益との根本的対立も、ますます激しくならざるを得ない。資本独占によって、「事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有」の内包する矛盾がはげしくなる。「収奪者の収奪」の第二の段階は、「資本主義的所有の社会的所有への転化」の過程である。

この収奪過程が、具体的にどのような経過をたどるのかは、本編ではふれられていない。



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