第1部:資本の生産過程
第7篇:資本の蓄積過程
第22章:剰余価値の資本への転化
剰余価値のうち、どれだけの部分を資本として「蓄積」するか、どれだけの部分を資本家自身の生活手段として消費にまわすか、この割合を決めるのは、剰余価値の所有者である資本家である。剰余価値の分割権は資本家に属しているし、資本家の意志行為であることにはちがいない。しかし、資本主義的生産様式のもとにおいては、この資本家の意志は、「社会的機構の作用」の反映として現われる。
マルクスは、この「累進的蓄積衝動」をめぐって、多面的な叙述を行なっていて([618])、資本主義的生産様式の強制法則を指摘すると同時に、その法則のもたらす、累進的爆発的な社会的生産力の発展の、人類史的意義を強調している。
資本家は、人格化された資本である限りにおいてのみ、一つの歴史的価値をもち、……歴史的存在権をもつ。その限りでのみ、彼自身の過渡的な必然性が、資本主義的生産様式の過渡的な必然性のうちに含まれる。……価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類を強制して、生産のために生産させ、それゆえ社会的生産諸力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる。……彼は貨幣蓄蔵者と同様に、絶対的な致富衝動をもっている。しかし、貨幣蓄蔵者の場合に個人的熱狂として現われるものが、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一個の動輪にすぎない。そのうえ、資本主義的生産の発展は、一つの産業的企業に投下される資本が絶えず増大することを必然化し、そして競争は個々の資本家にたいして、資本主義的生産様式の内在的諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に強制して、彼の資本を維持するためには絶えず資本を拡大させるのであるが、彼は累進的蓄積によってのみそれを拡大することができる。[618]
マルクスのこの叙述には、古典派経済学による「市民社会」の歴史的使命の評価との決定的なちがいがある。
古典派経済学にとっては、プロレタリアが単に剰余価値生産のための機械としてのみ意義をもつとすれば、資本家もまた古典派経済学にとって、この剰余価値を剰余資本に転化するための機械としてのみ意義をもつことになる。[621-2]
古典派経済学も、「ブルジョア時代の歴史的使命」を「蓄積のための蓄積、生産のための生産」と定式したし、その「富の生みの苦しみ」(無産者階層の増大、貧困の増大)を指摘もした。しかし、ブルジョア時代が、より高次の人類史の発展を切り開く、物質的土台を形成するという展望を導くことはなかったし、資本家階級と労働者階級との対立を、固定的機械的にしか考察できなかった。
剰余価値の分割をめぐって、「享楽衝動」と「蓄積衝動」とが、資本家のなかでせめぎあう。初期の資本家は、「享楽衝動」を抑制し、個人的消費を罪悪だとして、「蓄積のための『節欲』」を自らに奨励する。「資本主義的生産様式、蓄積、および富の発展につれて」([619])、資本家にとって、蓄積は、「みずからの享楽衝動の『禁欲』」として感じられるようになる。また、資本主義的生産の一定の発展段階では、奢侈が、「富の誇示であると同時に信用の手段」ともなる。「奢侈が資本の交際費にはいり込む」。いわゆる“ステータス”維持のための支出が生活手段の消費として算入される。
もともと資本家は、貨幣蓄蔵者と違って、彼の個人的労働や彼の個人的非消費に比例して富裕になるのではなく、彼が他人の労働力を搾取する程度、また労働者に生活上の享楽をすべて禁欲するよう強制する程度に応じて富裕となるのである。……彼の浪費は彼の蓄積につれて増大するのであって、一方が他方を中断させるわけではない。[620]
一定程度、「資本の蓄積」が発展してゆくにつれ、古典派経済学の主張のなかに、きわめて“過激な”「蓄積のすすめ」が登場している。
マルサスは、今世紀20年代のはじめに、ある分業を擁護したが、それは、実際に生産にたずさわる資本家には蓄積の仕事を割り当て、剰余価値の分配にあずかるその他の人々――土地貴族、国や教会からの受禄者など――には浪費の仕事を割り当てる、というものである。彼は、「支出への情熱と蓄積への情熱を分離させておくこと」〔(38)マルサス『経済学原理』、319、320ページ〕がもっとも重要である、といっている。[622]
しかし、古典派経済学の主な潮流の人びとにとって、「享楽衝動の『節欲』」そのものが利潤の源泉をなすのではなく、生産的に用いられる資本の使用こそが利潤の源泉をなすのだ、ということは、自明であった。
ここで、かの「最後の一時間」で登場したシーニア氏が、ふたたび登場する。彼の主張は、資本家の「蓄積衝動」を、「享楽衝動の『節欲』」だと言い換えることで、投資活動の本質から目をそむけ、資本家の搾取活動を美化する。
彼はもったいぶって言った――「私は、生産用具として考えられる資本という言葉に代えて、節欲という言葉をもってする」と。……シーニアは講義する――「未開人が弓をつくるとき、彼は一つの事業を行なうが、しかし節欲を実行するのではない」と。……「社会が進歩すればするほど、社会はますます節欲を要求する」。すなわち、他人の事業〔勤労〕とその生産物とを取得するために、事業を営む人々の節欲が要求される。労働過程のすべての条件は、このときから、資本家による、それとおなじだけの節欲行為に転化する。……要するに、世界はこの資本家というヴィシュヌ神の近代的な贖罪者が自分に難行苦行を課すことによってのみ生きている……。蓄積のみならず、単純な「資本の維持さえも、それを食い尽くそうとする誘惑に抗するための不断の努力を必要とする」。[623-4]
この俗流経済学の典型にたいして、マルクスは、つぎのように皮肉っている。
注(41)第二版への追加。俗流経済学者は、人間のあらゆる行為はその反対の行為の「節欲」だと理解しうる、という簡単な反省すらしたことがない。食事は断食の節欲、歩行は停止の節欲、労働は怠惰の節欲、怠惰は労働の節欲、等々。諸君はスピノーザの言葉、“規定は否定である”、について一度考えなおしてみるがいい。[624]