第1部:資本の生産過程

第3篇:絶対的剰余価値の生産

第7章:剰余価値率

第1節
労働力の搾取度



生産諸要素の価値は前貸資本の価値に等しいのであるから、生産物価値のうち、それの生産諸要素の価値を超える超過分は、前貸資本の増殖分に等しい、または生産された剰余価値に等しいと言うことは、実際には、同義反復である。

とはいえ、この同義反復にはより詳しい規定を必要とする[226]

私は第1部第5章第2節「価値増殖過程」のノートで、マルクスの例示で示された剰余価値3シリングを、うかつにも「たったの3シリング」と評してしまった。第1部第5章第2節「価値増殖過程」の例示では、1日1労働者がかかわる生産過程への前貸資本の価格は27シリング、1日1労働者が生産する生産物の価格は30シリングであった。前貸資本27シリングにたいする剰余価値3シリングを「たったの3シリング」と評しうるのかどうか。

この節では、これまでの「不変資本」「可変資本」の分析をふまえたうえで、マルクスはつぎのように例示している。

資本Cは、生産手段に支出される一つの貨幣額cと、労働力に支出されるもう一つの貨幣額vとの二つの部分に分解する。cは不変資本に転化される価値部分を、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。したがって、最初はC=c+vであり、たとえば前貸資本500ポンド・スターリング=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)である。生産過程の終わりには商品が現われてくるが、その価値は(c+v)mであって、このmは剰余価値である。たとえば{410ポンド・スターリング(c)+90ポンドスターリング(v)}+90ポンド・スターリング(m)である。最初の資本CはC'に、500ポンド・スターリングから590ポンド・スターリングに転化した。両者の差額は、m、すなわち90ポンド・スターリングの剰余価値である。

500ポンド・スターリングの前貸資本と、その増殖分、90ポンド・スターリングの剰余価値。このことはたしかなことではあるが、90ポンド・スターリングが500ポンド・スターリングにたいして、「たった18%だけの増殖」というように言うのは、はたして正しいのかどうか。マルクスは、この点に注意をよびかけている。ここで、前の章で分析された前貸資本の各部分、「不変」部分と「可変」部分との考察が重要になるのである。

マルクスは、この節のはじめの例示をもとに、より厳密に考察をつづける。

まず、第1点

生産物価値と比較されるものは、生産物の形成にさいして消費された生産諸要素の価値である。しかし……充用された不変資本のうち労働諸手段から成り立つ部分は、その価値の一部分のみを生産物に引き渡すのであるが、他方、残りの部分はそのもとの実存形態で存続する。この後者は価値形成においてはなんの役割も演じないのであるから、ここではこの部分は度外視しなければならない[226-7]

かりに、不変資本c=410ポンド・スターリングは、312ポンド・スターリング(原料)+44ポンド・スターリング(補助材料)+54ポンド・スターリング(生産過程で消耗摩滅する諸設備)から構成されているとする。そして、この生産過程に充用された諸設備全体の価値は1054ポンド・スターリングだと仮定する。

マルクスのはじめの例示のなかには、もともと、不変資本のうちもとの形態のまま存続する1000ポンド・スターリングは算入されていない。これをもし算入する場合には、最初に例示された式の両辺に、前貸資本と生産物価格との両方に、1000ポンド・スターリングを算入しなければならない。差額は相変わらず90ポンド・スターリングとなる。

価値生産のために前貸しされた不変資本と言うとき、われわれは、文脈から見て反対の結果が出てくるとわかるのでない限り、生産において消耗された生産諸手段の価値という意味にのみ解する[227]

そして、第2点

価値変化、価値変化の割合を正しく算出するためには、生産過程で消耗された生産手段である不変資本をゼロとして計算すること。それは、すでに前の章で明らかなように、前貸資本のなかの「不変資本」が、生産過程のなかで「以前の使用価値に内在していた価値を、そっくりそのまま新たな使用価値に再現する」という性格によるものである。

このことを前提にしてC=c+vという定式にもどると、この定式は、C'=(c+v)+mに転化し、またまさにこのことによって、CはC'に転化する。……不変資本の価値は生産物において再現するにすぎない。したがって、過程において現実に新たに生み出された価値生産物は、過程から得られた生産物価値とは異なるのであって、それゆえ、一見そう見えるように、(c+v)mすなわち{410ポンド・スターリング(c)+90ポンドスターリング(v)}+90ポンド・スターリング(m)ではなく、v+mすなわち{90ポンドスターリング(v)+90ポンド・スターリング(m)}なのであり、590ポンド・スターリングではなく、180ポンド・スターリングなのである。[227]

現実の価値変化および価値変化の割合は、前貸総資本の可変的構成部分が増大する結果、前貸総資本もまた増大するということによってあいまいにされる……したがって、過程を純粋に分析するためには、生産物価値のうち不変的資本価値が再現するにすぎない部分を完全に度外視すること、すなわち、不変資本c=0とすること、そのうえで、不変量と可変量の演算をするのに、加減のいずれかによってのみ不変量が可変量に結びつけられる場合の数学上の一法則を適用することが、必要である[228]

第6章「不変資本と可変資本」では、もっぱら、不変資本を「不変」と名づけるゆえんが考察されていたが、この第7章では、第6章で簡単にふれられるだけになっていた「可変資本」について、よりつっこんだ考察が行なわれている。労働力の購入のために前貸しされる資本部分をなぜ「可変」部分とよぶか。

90ポンド・スターリング(v)すなわち90ポンド・スターリングの可変資本は、ここでは、実際に、この価値が通過する過程を表わす象徴であるにすぎない。労働力の購入に前貸しされた資本部分は、一定分量の対象化された労働であり、したがって、購買された労働力の価値と同様に不変の大きさの価値である。しかし、生産過程そのものにおいては、前貸しされた90ポンド・スターリングに代わって自己を発現する労働力が、死んだ労働に代わって生きた労働が、静止している大きさに代わって流動している大きさが、不変の大きさに代わって可変の大きさが、登場する。その結果は、vの再生産プラスvの増加分である。資本主義的生産の立場からは、この全経過は、労働力に転換された、最初は不変な価値の自己運動である。この過程とその結果は、この不変な価値によって生じるものだとされる。それゆえ、90ポンド・スターリングの可変資本すなわち自己増殖する価値という定式が矛盾に満ちたものに見えるとしても、それはただ資本主義的生産に内在する矛盾の一つを表現するにすぎない[228]

また、不変資本部分をゼロとしてあつかうことの妥当性について、マルクスはつぎのように考察をすすめている。

資本の一部分を、労働力にこれを転換することによって増殖するためには、資本の他の部分が生産諸手段に転化されなければならない。可変資本が機能するためには、不変資本が、労働過程の一定の技術的性格に応じて、それ相応の比率で前貸しされなければならない。とはいえ……価値創造および価値変化がそれ自体として、すなわち純粋に考察される限りにおいては、生産諸手段すなわち不変資本のこの素材的諸姿態は、流動的な、価値形成的な力が固定されるべき素材を提供するだけである。それゆえ……この素材は、生産過程中に支出されるべき労働分量を吸収しうるに足る分量で現存しさえすればよい。この分量が与えられれば、それの価値が上がろうと下がろうと、または土地や海洋のように無価値であろうと、価値創造および価値変化の過程は、そうしたことによっては影響されない[229]

見かけではなく、本来、創造され、増殖した価値、その変化は、このようにして、不変資本をゼロとあつかうことによって、生産物価値のうち、可変資本が再生産され増殖した部分、価値生産された部分がまず算出されることによって、明らかとなる。上述の例では、180ポンドスターリング。そして、可変資本の自己増殖の絶対的大きさは、180ポンド・スターリングから、可変資本価値=90ポンド・スターリングを差し引くことで算出できる。90ポンド・スターリング=mは、生産された剰余価値の絶対的大きさである。さらに、この剰余価値の可変資本にたいする割合が、可変資本価値の自己増殖割合であって、m/v、すなわち、90/90=100%である。見かけ上の「搾取度」18%{90(m)/500(c)}の5倍以上の搾取率である。

可変資本のこの比率的増殖または剰余価値の比率的大きさを、私は剰余価値率と名づける。

【注28】これは、イギリス人が「“利潤率”」「“利子率”」などと言うのと同じ言い方である。第3部からは、剰余価値の法則を知れば利潤率は把握しやすいということがわかるであろう。逆の道をたどったのでは、“どちらも”把握されない[230]

さて、ほんらいの価値増殖の変化の割合が、これで明らかになったのだが、

価値一般の認識にとっては、それを労働時間の単なる凝固として、単なる対象化された労働として把握することが決定的である[231]

第17章“労働力の価値または価格の労賃への転化”参照

マルクスは、明らかとなった「剰余価値の比率的大きさ」をめぐって、この立場からさらに考察をすすめる。

まずマルクスは、労働者が、彼の労働力の価値を再生産する労働日の部分、したがって、可変資本価値を補填する労働時間を「必要労働時間」と名づけ、この時間中に支出される労働を「必要労働」と名づけている。

そして、労働者が、必要労働の限界を超えて労働力を支出し、剰余価値を形成する労働日のもう一方の部分を「剰余労働時間」と名づけ、この時間中に支出される労働を「剰余労働(surplus labour)」と名づけている。

可変資本の価値は、この資本によって購買された労働力の価値に等しいのであるから、また、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定するが、剰余価値のほうは労働日の超過部分によって規定されるのであるから、次のような結論が生じる――剰余価値の可変資本にたいする比は剰余労働の必要労働にたいする比と等しい。すなわち、剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働である。両方の比率は、同じ関係を相異なる形態で表現するのであって、一方は対象化された労働の形態で、他方は流動的な労働の形態で、表現する。

それゆえ、剰余価値率は、資本による労働力の、または資本家による労働者の、搾取度の正確な表現である[231-2]

剰余価値率は、労働力の搾取度の正確な表現であるとはいえ、搾取の絶対的な大きさの表現では決してない(注30a)[232]

この、「必要労働」「剰余労働」の考察のなかで、資本主義的生産の段階にある社会が他の段階の社会と区別される特徴を述べている部分がある。以下に引用するのがその部分である。

労働者は、社会的分業にもとづく状態において生産するのであるから、彼の生活諸手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品、たとえば糸の形態で、彼の生活諸手段の価値――または彼が生活諸手段を購買するのに用いる貨幣――に等しい価値を生産するのである……彼が資本家のためにではなく、自分自身のために独立して労働するのだとしても、その他の事情が変わらない限り、彼の労働力の価値を生産し、それによって彼自身の維持または永続的な再生産のために必要な生活諸手段を獲得するためには、彼は、相変わらず平均して、1日のうちの同じ可除部分だけ労働しなければならないであろう。しかし、労働日のうち労働者が労働力の日価値……を生産する部分においては、彼は、ただ資本家によってすでに支払われた労働力の価値の等価物を生産するだけなのであるから、したがって新たに創造された価値によって前貸可変資本価値を補填するだけなのであるから、価値のこの生産は単なる再生産として現われる[230]

労働者が必要労働の限界を超えて苦役する労働過程の第二の期間……この剰余労働が、直接的生産者すなわち労働者からしぼり取られる形態だけが、もろもろの経済的社会構成体を区別するのであり、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から区別するのである[231]

資本主義的生産段階にある社会が、“賃労働”という搾取形態を特徴としており、この“賃労働”という形態が生み出される前提に、一方に、生産手段をもつ貨幣所有者、一方に、生産手段をもたずわが身に内在する労働力を商品として市場に投入する、これまでの社会には一般的ではなかった独特の直接的生産者との存在があること。また、同時に、資本主義的生産における社会的分業の具体的形態として“賃労働”という形態が存在すること。など、資本主義社会における賃労働という搾取形態の必然性と矛盾を示唆していて、たいへん興味深い。

剰余価値率を算出するには、労働日の絶対的大きさ、労働過程の期間、同時に労働過程に入る労働者の数を知らなくてもよい。必要なのは、その労働過程で生産される生産物全体の価値、その労働過程で加工され消耗される生産手段に転化する不変資本価値――これはゼロに等しいとされるから生産物価値全体から差し引かれる――、生産物価値全体から不変資本価値を除いた残りの価値生産物のうち、剰余価値か可変資本か、どちらか一方がわかっていれば、それぞれ、可変資本と剰余価値をもとめることができる。さいごは、m/vを計算すればよい。そして、剰余価値率は、これを、剰余労働/必要労働に転換できるから、たとえば、100%の剰余価値率の場合、労働者は1労働日のうち半分を自分のために、半分を資本家のために労働する。1労働日が10時間であれば、剰余労働と必要労働はそれぞれ5時間。1労働日が8時間であれば、剰余労働と必要労働はそれぞれ4時間。



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