弓道への入り口(2)

くれぐれもお間違いないようにお願いしますが、この文章は、弓道への入り口に関しての話です。
 現代の生涯体育としての弓道、サークル的弓道への入り口に立った人への対応というと言うことから話が始まりました。その中である程度、練習も進んでくると射会などに参加し、競技に目覚める方もいる、修行的弓道に目覚める方もいる。しかしその中心は、お楽しみ弓道(言い方に問題があるかな)にあるのではないかと思うのです。この方たちが弓道人口の底辺となり、弓道人口の中心にあると思います。
 たとえば、テニスとかスキーとか、考えてみたらどうでしょうか。そこらのスキー場で滑っている人たちは、ほとんどが競技スキーなんかとは無縁の人たちですが、膨大なスキー人口の大半でもあるし、オリンピックだのワールドカップだのに出場する選手は、逆に競技スキーの人たちはほんの一握りにすぎないわけです。
 テニスでも同じ。そこらのコートで「いくわよ!」ポーンて、その人たちには、ウインブルドンだなんて別世界であり、テレビの中の出来事ではあるけれど、夢の世界であり、憧れともなるわけです。この人たちがテニスや、スキー世界の巨大ピラミッドを形成してゆく重要な、個の存在であると考えます。
 またその人たちが、これらの競技に興味をもつ、見るだけのスポーツではなく、自分もある程度は出来るからこそ、最高レベルの競技をも興味をもって、支えてゆけるのではないか、と思います。

 弓道がマイナーな存在であること、それは取っつきにくさ、限られたイメージが強く(また自ら強調し)、そのイメージの中で閉じこもってきた結果ではないのか。このイメージのなかで、基盤層の育成を軽視してきたわけではないでしょうが、イメージを押しつけてきた結果、近寄りがたくなってしまうのではないのか、と考えてみる必要があると思います。
 木戸番のことを、たまに叩いてくださる方の中に、日本最高クラスの方が二人おいでになります。全日本弓道選手権で天皇杯、皇后杯をそれぞれ受賞された方です。地域的には各種の表彰がなされたりはしたようですが、果たして社会的な面で評価を受けたのだろうか、疑問です。新聞にも載らないですよね。いいとこ国体とかインターハイのその他大勢くらい。
まあ、自己研鑽を目的として、という考えで行けば、新聞に載るとか、社会的な注目を受けるとか、どうでも良いことなのですが「一つの世界での頂点にたつ方々」と考えたら、やはり寂しいのではないかな、と思ったりもします。
 やはり、すそ野の狭さが気になります。そう、どんなに頂上が高くても、すそ野が広くなければ、絵にはならない。オーストラリアのエアーズロックのように、荒野にいきなりある山も無いわけではないですが。いまいち孤高の美というのは(私個人は)好みではありません。

 先日、審査(昇段試験)のため浜松まで出かけました。東名高速を走っているときに、ちょうど富士山が目の前に広がり、雪をかぶり、日を受けた富士山は、なかなか見応えがありました。なんとその時、笠をかぶった富士山だったのです。デジカメを忘れたのが悔やまれました。走りながら、高校時代の師範の言葉が急に思い出されたというか、気になりだしたのです。
 もう卒業も、進路も決まった頃、先生が道場に見え、弓を引いて遊んでいた小僧たちと雑談となりました。先生は当時、範士八段になられたばかりの頃。高校へは週に1〜2回お見えになり直接、指導を受けました。いつも紋服で高校生の相手をして下さった。洋服姿で現れると、今日はなんかの会議があったんだなと思ったものです。
いま考えると、とんでもないくらい恵まれていたものです。日本体育協会の副会長、全日本弓道連盟の副会長、大学教授。当時はどんなに偉い先生か、身近すぎて高校生にはよくわからなかったのが本当ですが・・。後輩たちに聞くと、90歳過ぎまでご指導いただけたそうです。ほんの数年前に亡くなり、十段位を追授されたと言えばお判りになる方もおいででしょうか。
 さて、どんな話かというと、先生から、「卒業してからも弓を引く気はあるか。」と質問され、当然ながら「はい。一生やりたいと思います。」なんて答えるわけです。そこで先生から言われた言葉が、木戸番にはトラウマ的「段位」観になるのです。
(ただし、今から相当昔のお話であり、先生のお考えが、それからどのようになったかはわかりませんが、その点はご了解下さい。)
「大学で弓道部に入ったら、そうだな、参段くらいで止めて置きなさい。社会に出てからも趣味で引くなら4段かな。でも二段、参段くらいで楽しく弓を引くのが一番良いよ。」

そして富士山の話です。
「みんなは富士山に登ったことがあるかな。一度は上りたいと思うかも知れない。弓道も同じ。始めてみれば一度は頂点を極めたい、と思うかも知れない。しかし、山は遠くから見るのが一番きれいだ。弓道では三段くらいまでがそうだ。いろいろな角度から見てみたい、それが出来るのは四段。それ以上の段位を取りたいと思うなら、本当に一生弓を引き続ける【覚悟】が出来てから受けること。富士の登山口にある神社に参拝するのが四段。考え直すのはここ。登山口に一歩でも踏み込む覚悟が出来たなら五段だ。踏み込んだあとは、つらくて長い山道、登り始めたら富士山はきれいな山ではないよ。頂上にたどり着けるかどうか、登ってみなければわからない。続けることが大切だとはいえ、流した汗(努力)が報われるかどうかは、わからないよ。」そんなお話でした。

 これで前に書き込んだ、木戸番のお話お判りになられたでしょうか。
    競技弓道 →三段くらいまで・全国レベルで四・五段         
入り口は何であれ   →良い加減弓道(?) 五段から先は蟻地獄      
   お楽しみ弓道→三段くらい                      

 なにはともあれ、それぞれのレベル(段位相応)で求められること、それをお互いに高望みせず、ながくおつきあいをする、これが木戸番の「良い加減的弓道指導者の心構え」かな。

なぜ大事なことをすぐ忘れる木戸番が、こんな昔話覚えているかって?。
 だいぶ前ですが実家を片づけたんです。その時に、高校時代の弓道ノートがあって、読み返し、いい加減にしか書きとめて無かったとは言え、いくらか意味が見えるようになり、でも葬式の最中だったもので、またしまい込んだのです・・、数年後、弟夫婦が帰ってきて、高校時代のノートとか雑誌捨てて良いと言われok出したら・・、すぐに持って帰ればよかった・・。慚愧。

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