ステレオ月面写真の技法を検証する

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0.このページのあらまし

 2006年9月10日,朝日新聞日曜版に,月の立体写真をめぐるコラムが掲載されました。私もこの記事に全面的に協力し,月の立体視に関する画像提供と,立体画像の制作方法に関する検証を行いました。その過程で,さまざまな興味深い事実との遭遇,新しい技法へのチャレンジ,人との出会いなどを経験し,とても面白く,この作業を進めることができました。

 新聞記事ではスペースの都合で記載できる情報量が限られています。それを補足する目的で,記事中に「ステレオ月面写真」のURLを紹介しています。このページでは,朝日新聞の記事を読んで月の立体視に興味を持って頂いた方のために,記事にならなかった,より詳しい情報をまとめて御紹介いたします。紙面には出なかった,より詳しい知識や,紙面掲載までのさまざまな試行錯誤などをまとめました。「ステレオ月面写真」の奥深さと面白さに,少しでも触れていただければ,と思います。


もくじ

1.これは必然の出会い?
2.銀塩写真での試行錯誤
3.ステレオ月面写真,ふたたび
4.25年前の月の立体画像の検証
5.月の立体視のための,いくつかのアプローチ
6.検証,そして新たな実験
7.新聞紙面で立体視を実現させるには?
8.ステレオ月面写真のこれから


1.これは必然の出会い?

 2006年7月。
 私の元に,問い合わせのメールが届いた。内容は「ステレオ月面写真」に関するもの。差出人は坂根巌夫さん。そのメールの趣旨は……朝日新聞の日曜版に連載中の「目の冒険」と言うコラムに,月の立体視についての記事を書きたいので,話を少々聞きたい,とのこと。

 幸い,私も朝日新聞の読者であり,このコラムも愛読していた。しかも,坂根さんは,1980年前後に,日曜の科学面で,「遊びの博物誌」と言うシリーズ記事を担当されていた方だった。そして,今回の話の発端となったのも,かつて,「遊びの博物誌」で取り上げたことのある,月の立体画像を含んだシルクスクリーン版画のこと。この記事についても,私はしっかり読んでいた。その記事の主題は,赤と緑の光源を使った立体影絵の話で,それに関連した話題として,赤/緑の色分けした二重画像による月の立体視(…つまり,アナグリフによる立体画像)についての記述が,少しだけ載っていたのだが,実は私は,この記事に刺激を受けて,「ステレオ月面写真」の制作に興味を持ったのだ。
 ……つまり,私にとっては,「ステレオ月面写真」の原点となった記事を書いた人が,コンタクトを取ってきた,と言う形になったわけだ。

 1980年頃に坂根さんの書いた,わずか数行の,月の立体視についての記述に触発された私が,20年後にそれを具現化した画像をホームページに公開し,それが坂根さんのアンテナに触れたと言うのは,単なる偶然ではないような気がする。きっと,坂根さんも,「似たようなことを考えている奴が見つかった」と言う印象が強かったことと思う。

 話は早い。無条件で全面協力する意思を固めた。


2.銀塩写真での試行錯誤

 私が「ステレオ月面写真」を初めてネット上に公開したのは2001年のこと。最初に「月面立体視」のヒントを得てから,20年ほど経過している。少し時代を遡り,「ステレオ月面写真」公開前のことに触れておきたいと思う。

 私が最初に,月の立体視についての情報を得たのは,前述のとおり,1980年頃の「遊びの博物誌」の記事だった。そこから得た情報は……

・赤と緑の画像の組み合わせによる立体視(=アナグリフ)
・月の首振り運動(=秤動)を利用したと思われる立体写真の作例の存在。
・満月の,月の出直後と月の入り前の2回撮影すると,地球の直径分ぐらいの基線が得られて,視差が得られる。


 この3点だった。

 まず,アナグリフについて。
 これは昔からある立体写真の原理そのものだ。補色関係にある色を使い(通常は赤/緑ないしは赤/青),左右の画像を赤/緑(赤/青)の単色画像にそれぞれ変換し,それを重ねて印刷したものを,赤/緑(赤/青)のメガネをかけて再現する。もし,大人数で見たければ,フィルターを付けたスライドプロジェクターを2台用意して,大きいスクリーンに投影すれば,立体映像シアターのようなことも出来る。

 当時学生だった私は,学園祭で,月のステレオ写真を天文部の展示発表物として使えないだろうかと考えてたので,この手法に魅力を感じていたのも事実。この当時は,偏光フィルターを使った,カラーの立体映像の上映など,まだ思いつかなかった。偏光フィルターも高価だったし…。


 そして,立体画像の取得方法について。
 まず,疑問に感じたのは,視差の大きさ。地球の端と端で月を撮影して組み合わせても,最大で1万km強の基線しか取れない。一方,月は38万kmの彼方。得られる視差は1°に満たない。これで立体視が出来るのだろうか,と言う不安があった。
 月の首振り運動=秤動を利用することのほうが,有利かと思われた。月はいつでもまったく同じ面を地球に向けていて,月の裏側をまったく見せないと言うわけではなく,地球から見ると,見かけ上,多少の首振り運動をする。そのため,地球上の観測者は,月の表面の59%を見ることが可能だ。この動きを利用すれば,容易に1°を超える視差が得られる。
 しかし,これにも問題があった。秤動を利用して視差を得るためには,1ヵ月後,2ヵ月後の,同じ位の月齢で同じような角度で太陽の光が当たっている月を撮影しなくてはいけない。特に欠け際の,クレーターのでこぼこがはっきり見えるエリアでは,光の当たり方の違いがとても目立ってしまい,ステレオ画像にならない。2枚の元画像の条件を揃えるのが非常に難しいのだ。


 ……いきなり挫折?


 そこで,一旦諦めていた,地球の自転を利用して視差を得る方法について,関数電卓を叩いて,いくらか検討を加えてみた。その結果,拡大撮影によるクレーターの立体視なら出来るかも知れない,と言う結論に至った。

 デジタルカメラなど影も形も無い1980年代。果敢にも,銀塩写真で,月面の立体視にチャレンジすることとなった。
 今のように,気楽に画像処理など出来ない時代である。出来る限り条件を揃えて撮るのが精一杯だ。撮影時刻は月の南中時刻の2時間前と2時間後。満月ではクレーターが綺麗に写らないので,満月前後の時期を外して,やや欠けた月を狙う。撮影機材は,口径6.5cmの屈折望遠鏡。使い慣れた愛機だ。フィルム現像で差が出ないように,36枚撮りフィルムに,18枚ずつ撮影。アナグリフ化のことも考慮し,リバーサルフィルムを使用した。
 出来上がった写真は,残念ながら,そのままスライドプロジェクターに入れて立体視が出来るほどの精度を持った位置合わせが出来ていなかった。そこで,出来の良かった写真を2枚選び,ダイレクトプリントを発注。出来上がったプリントを,現物合わせで切り貼りし,にわか作りのステレオビュアーに組み込んで,たった1枚だけの,「ステレオ月面写真」が完成した。この作品は,1984年の学園祭の展示物として公開した。

 その後,銀塩写真で月のステレオ画像を作ることは,すっかり諦めてしまった。努力と投資に見合わないと言う判断だ。第一,口径6.5cmの望遠鏡では,たいした写真が撮れなかったので,すっかり意欲を失ってしまったのだ。


3.ステレオ月面写真,ふたたび

 1997年。私は新たな撮影道具を手に入れた。デジタルカメラである。この年にはヘール・ボップ彗星の接近もあり,しし座流星群の活動も活発化していて,天文に関する情熱を再燃させるには,十分な材料が揃っている時期でもあった。ただ,当時のデジカメは,まだ長時間露出も出来ないもので,スナップ撮影程度の用途しか無かったが……。それでも,望遠鏡の接眼部にデジカメのレンズを押し付けてシャッターを切ると,月はそこそこの解像度で写ってくれた。

 その後,2000年に,60秒露出の出来るデジカメを手に入れた。このスペックを見て,やっとこ星の撮れるデジカメが登場したな,と思わせるものだった。手元にあったフィールドスコープと組み合わせて月や惑星を撮ると,思いのほか良く写ってくれた。銀塩写真に比べれば,画像処理も楽々だ。

 ……少しずつ,1980年代に挫折した,「ステレオ月面写真」への再挑戦のための条件が揃ってきた。


 何回か月面の拡大撮影をしていると,だんだんと機材にも慣れ,銀塩時代よりも良質の画像を得ることが出来るようになった。しかも,天体望遠鏡ではなく,フィールドスコープで……。こうして,月面撮影の勘が戻ってきたところで,いよいよステレオ撮影に挑戦することにした。しかし,そんなに気負うほどのものでもなく,2,3時間の撮影間隔をあけて,バシャバシャ画像を取得して,後はパソコン上で加工するだけ。

 月の立体写真は,あっけなく実現した。銀塩時代の苦労が嘘のような,手軽さ。

デジカメによる撮影を始めた頃のステレオ作品。
フィールドスコープ(口径65mm,EDレンズ仕様)で撮影したもの。
地上用の望遠鏡でも,その性能は侮れない。


 人にお見せしてもいいかな,と思えるような画像が貯まってきたところで,Web上に公開開始。だんだんと欲も出てきて,望遠鏡を口径7.6cmのアポクロマートレンズ付きの天体望遠鏡に変えて,さらなる高解像度を目指す。

 口径7.6cmの望遠鏡は,今ではミニマムに近いサイズだが,機動力と扱いの容易さ,撮影結果の満足度のバランスが,私の好みに一番近いポイントにある。子供時代,口径8cmぐらいの屈折望遠鏡は「本格派」のための「大型機」だった。そんな記憶のある年代なので,このサイズに魅力を感じてしまうのも事実だが……。それに,アポクロマートレンズの切れ味は,昔の小型望遠鏡とは一線を画す世界だ。

 望遠鏡談義はさておき,私の「ステレオ月面写真」のテクニックは,少しずつ改善を加えながら,安定して立体画像を得られるようになってきていた。


 ……そして,私の「ステレオ月面写真」の「原点」とも言える,坂根さんとの出会いである。


4.25年前の月の立体画像の検証

 昔話はこのぐらいにして,話を2006年7月に戻そう。

 坂根さんから最初に依頼されたのは,あの「遊びの博物誌」で紹介した,Gerald Marks氏のシルクスクリーン作品「月見」に使われている月写真の検証。そして,私の「ステレオ月面写真」のテクニックの詳細と作例の提供である。

 私の使っているテクニックは,特に私のオリジナルのものでもないので,概要とTipsをいくつかお話しすれば済みそうだ。大部分の技術的なことは,Web上に公開済みである。秘密にすべきことは何も無い。Marks氏の作品については,アート作品なので著作権も発生しているため,ここでは現物の画像は公開できないが,日本画的な月見風景の絵柄と満月の写真が,二色刷りの版画になっていて,赤/緑のメガネをかけて見ると立体的に浮かび上がると言うものだ。月の画像は,なぜか白黒が反転している。バックの夜空を白で表現している関係だろうか。

 今回の新たなコラムのために,坂根さんがMarks氏に問い合わせたところによると,月写真そのものは20世紀初頭にYerkes天文台によって撮影された画像を加工したものだとのこと。これはおそらく著作権の切れている年代のものを利用したのだろう。さらに,初期の月のステレオ写真のサンプルとして,1864年にRutherfordが撮影したと言う満月の画像を送って頂いた。これを使って裸眼立体視用のステレオグラムに加工してみたところ,なるほど,かなりハッキリとボール状に膨れて見える。これは視差がかなり大きい。


 月のステレオ撮影の歴史は,銀塩写真の歴史が始まった頃に遡る。
 こちらにその歴史の概要が書かれているので,参照されたい。
http://physics.kenyon.edu/EarlyApparatus/Astronomy/Moon_Stereo/Moon_Stereo.html

 月のステレオ写真の理論が最初に発表されたのは,1838年,Wheatstoneの著述だとされる。このとき既に,月の秤動を利用した立体視の可能性が提唱されている。実際に月のステレオ写真の作成に成功したのは,1850年代(1852年?),英国の天文学者,De la Rueが自作の33cm反射望遠鏡によって撮影した月の写真を基にしたものとされている。

 これはステレオ写真とは別の意味でも,歴史的に興味深い写真だ。
 19世紀半ばは銀塩写真の黎明期であり,もちろん天体写真としても,かなり初期のものだと思われる貴重なものだ。ひょっとするとガラス乾板で撮影しているかも知れない。もちろん,感光材料の感度も低かったはずだ。当時の反射望遠鏡も,金属鏡から,より実用的なガラス鏡へと替わっていった時期で,そのガラス鏡も,現在のようなアルミの真空蒸着メッキではなく,銀の化学メッキを使っていたため,半年に1度は再メッキが必要だったと言う。
 ……そんな,時代を感じさせる写真なのである。


 ネットを徘徊して気がついたのだが,古い月のステレオ写真をアンティーク写真として販売しているサイトがいくつかあった。そこにはRutherfordを始め,高名な天文学者の名前や天文台の名前もあった。作品が作られた時期は19世紀末頃が多い。

(お手数ですが,コピー&ペーストで参照してください)
http://www.eastman.org/ne/mismi2/moon_sum00001.html
http://www.blenders.se/ebay/me/stere.html
http://www.mindex.be/anamorf/afraid_dark/selonography_2.htm

 ……ははぁ,なるほど。Marks氏もこの手のアンティーク写真からアナグリフ作品を起こしたのではなかろうか。

 19世紀末には,ちょっとした立体写真ブームがあったらしい。映画が実用化する直前の時代である。写真をエンターテイメントとして利用する方向に発展してゆく過程で,ステレオグラムに辿り着いたと言うことなのだろうか。この時代のステレオ写真は2枚並んだ写真をステレオスコープで見る方式だ。平行法による裸眼立体視の出来る方なら,ステレオスコープを使わないで立体視が出来ると思う。

 日本における明治時代の立体写真ブームについての記述。
http://www.meijimura.com/event/b.asp


 アンティークはアンティークとしての面白さがあるが,検証すべき主題は,写真の年代鑑定ではない。月を立体視する条件を調べなくてはいけない。

 これらの19世紀のステレオ月写真を見て,まず,気がつくのは,月の向きがおかしいこと。通常の天体写真は,子午線の方向(南北方向)を縦に,東西方向を横にした構図を取るのだが,このルールに従わない写真が多い。中途半端な傾きを持った満月の写真が多いのだ。月の向きはバラバラと言っても良い状況だ。どうやら,秤動の向きが水平になるように調整しているために,どうしても変な向きになってしまうようだ。まぁ,天文のことにウルサクない一般人には,どうでもいいことかも知れないが,天文台のプロが撮影した写真を使っているステレオ写真もあると言うのに,これは少々違和感がある。
 それから,クレーターが認識できない。満月なのだから,ほとんどクレーターのでこぼこは見えなくて当然なのだが,私が撮影したって,多少はでこぼこの分かる写真が撮れるのに……要するに,いまどきのアマチュアの天体写真よりも解像度が劣るのだ。

 こうした点は,当時の撮影機材や撮影技術を物語るような気もする。 これも,現代の月写真で検証してみる必要はありそうだ。


5.月の立体視のための,いくつかのアプローチ

 立体視の条件として,左右で微妙に視点の異なる,「ずれ」=視差を持った画像を用意する必要がある。視差の取得方法をいくつか考え,検証してみることにした。


 月の立体視が可能と思われる撮影方法は,以下のようなものがある。

1)秤動の利用
 月の首振り運動=秤動によって,視点がずれることを利用した,視差の取得法である。データブックを見る限り,秤動による月のブレは,最大で20°位になる。視差に直すと計算上は最大10°ほど取れることになる。この視差では,すぐ目の前(=目からの距離が20cmぐらい)に月があるように見える計算だ。
 撮影方法は,何ヶ月か隔てて,出来るだけ同じ月齢の月を撮影するだけ。秤動によって視点がずれた方向が水平になるように,画像を2枚並べれば,立体視が出来る。
 この方法の最大の弱点は,画像のペアを揃えにくいこと。特に月の欠け際のクレーターは,光の当たり方が微妙で,これを揃えるのは非常に大変な作業となる。そこで,クレーターの目立たない,満月を狙って撮影することになる。満月がボールのような立体感を持って見えることを楽しむのだ。

2)地球の自転の利用
 これは私が採用している方法である。詳細なテクニックは別ページにまとめてあるので参照されたい。原理はきわめて簡単だ。1〜3時間ぐらいの間隔を空けて月を撮影すると,その間に地球が自転しているので,観測者の視点は自転に従って動いている。
 この方法は視差を大きく取れないのが弱点だ。そのため,月の全面写真では,立体感が弱い。あくまでも拡大撮影向きの方法であると言える。しかも,撮影を待っている間に,月齢も少しだけ進む。厳密なことを言うと,月面への太陽光線の当たる角度が動いてしまっているのだが,それはせいぜい0.5°程度なので,とりあえず無視してしまう(実際,立体視にはあまり影響しない)。しかし,一晩で撮影が出来てしまうのは手軽だ。秤動利用の場合,少なくとも2晩は晴れてくれないと,ステレオグラムが実現しない。自転利用では,一晩で撮り終える事が出来るので,撮影条件を揃えやすいのもメリットだ。

 自転による移動距離は,地域によって違ってくる。視差を得るための基線長を最も得やすいのは赤道上で,北緯/南緯45度では,赤道の7割程度の基線しか取れない。北極,南極では当然のことながら,基線長ゼロである。

 東京で,撮影間隔を2時間空けて撮影した場合,基線長は約2700km,完成したステレオグラムは,約9m離れた場所に月がぽっかり浮かぶように見えることになる。

3)遠隔地で同時撮影
 撮影原理を最も理解しやすい方法だと思う。地球上の,遠く離れた2ヶ所から,同時に月を撮影すれば,視差が得られる,と言うもの。

 例えば,ローマとニューヨークで同時撮影すれば,基線長6600kmとなり,約3.6m離れた場所から月を見たような立体感が得られる。
 この場合,同時撮影なので,月齢の差も皆無。自転を利用した撮影方法の弱点を克服できる。さらに,ネットで2ヶ所を同時中継すれば,リアルタイムのステレオグラムも楽しめるはずだ。
 しかし,弱点もある。時差の発生だ。ローマとニューヨークの組み合わせの場合でも,経度ベースで7時間ほどの差がある(←各国の法で定める「地方時」ではなく,物理的な位置関係が問題になるので,念のため)。この時差で,どちらも夜間で月が見えていて晴天,と言う条件が揃う時間は限られている。

 そこで発想の転換。
 南北で同時撮影すれば,時差の問題も解消できる。
 但し,基線を南北に取るため,出来上がるステレオグラムも,南北方向を水平にしたもの……つまり,横倒しの状態で立体視をすることになるが…。
 日本では東西方向にパートナーを求めるのは難しい。東は太平洋上,西はゴビ砂漠あたりが撮影のベストポジションになってしまうのである。南北方向であれば,オーストラリアと組むことが出来る。豪州に天文マニアの友人の居る方は,試してみては,いかがだろうか。


6.検証,そして新たな実験

 前項で上げた,それぞれの方法で,ステレオグラム作成に挑戦してみることにした。
 折りしも,日本は梅雨の真っ只中。撮影チャンスは少ない。

 私1人の力で,短期間にすべての方法について検証することは到底困難なので,ネットでの交友関係のある人たちの中から,月の撮影の経験のある人に声をかけ,協力をお願いすることにした。
 まず,横浜のTpongさん。氏は野鳥撮影の名手でもあり,その撮影機材を月に向け,良質の月写真を撮影している。私があまり手をつけていない,満月の写真もお持ちなので,秤動の検証は,Tpongさんから満月の写真の提供を受けて行うことにした。また,それ以外の撮影に関しても協力をお願いし,どちらか晴れたほうの撮影データを採用する態勢とした。
 そして,ニュージーランド在住の「南の猫」さん。彼女も,望遠レンズで月を撮影し,クレーターの判る写真をモノにしていると言う腕前。南半球の撮影パートナーをお願いした。但し,NZは日本よりも東に位置するので,単純に同時撮影してしまうと,基線が斜めになってしまう。そこで,日本での撮影を意図的に遅らせ,NZで月を撮影した時刻の位置の,ちょうど真北に日本が回ってくる時刻を狙って,ぴったり南北に基線を引くよう,工夫をしている。


 日本とニュージーランドは経度が約35度ずれている。
 そこで,ニュージーランドで撮影後,2時間20分ほど待ってから日本で撮影した。
 こうすると,子午線と平行に基線を取ることができる。



 こうして,何通かメールのやり取りをし,綿密な時刻設定をした後,撮影に取り掛かった。たった3人のささやかなプロジェクトである。

 撮影初日は7/13。Tpongさんと私は雲間を縫ってギリギリ撮影に成功したが,南の猫さんの所は薄雲がかかって,ボケボケの像しか得られず。失敗。翌14日。月は満月を過ぎ,下弦に向かっている時期なので,月の出も22時近い。3人揃って夜更かしをしながら,晴れ間を待つ。……結果,Tpongさんの所が曇ってダメだったが,私と南の猫さんの撮影が成功し,このデータを使って,ステレオグラムを作ることにした。


 その翌日から1週間以上雨が降ったり止んだりの状態。
 結果的には,撮影出来ただけでもラッキーだった。


 ステレオグラムの作成に取り掛かる。
 まず,秤動を利用したステレオグラムの再現。

 Tpongさんから頂いていた素材は,素晴らしい出来だった。19世紀の月写真では得られない解像度,諧調,色調。野鳥撮影用の望遠機材でも,十分に月写真が楽しめることを実感しつつ,作業に取り掛かった。
 まず,頂いた写真の中から,視差が最大になる組み合わせを選び,パソコン上で画質と大きさを揃え,位置合わせをする。……しかし,出来た画像は,月の真ん中がびよ〜んと前に飛び出すような,コミカルな立体像。何じゃこりゃ??
 視差が大き過ぎたのだ。天文年鑑のグラフからの読み取り値で,視差はおおよそ8°。目の前に月面を突きつけられるような感覚は,この視差から来たものだ。

失敗作。位置合わせも,あまり上手く行っていない。異様な飛び出し方を見せる画像。キモチワルイ。


 気を取り直して,作業をやり直す。
 今度は,4ヶ月違いの満月をチョイス。あまり画像に手を入れると,立体感に影響することもあるので,なるべくあっさりと画質調整をするだけにとどめ,大きさを揃え,いざ,ステレオ化……。


 今度は違和感の小さい画像が出来た。これなら,Marks氏の作品よりも見やすい。そもそも,19世紀の写真技術と21世紀のデジタル一眼レフの実力を比べること自体,あまり意味は無いのだが……。視差は3°少々。1mぐらい離れた場所にボール状の月が浮かんで見える感覚だ。自転を利用した立体写真よりも,明らかに立体感が強い。

 秤動を利用した場合でも,それほど大きな視差を使う必要は無いようだ。

今度はバッチリ。しっかり球体に見える。

 次は,南北に基線を引いたステレオグラム。
 南の猫さんの画像を送ってもらい,私の撮影した画像と合わせる。撮影機材が違うので,調整が大変だ。私は天体望遠鏡+コンパクトデジカメ,南の猫さんはデジタル一眼レフ+望遠レンズ。経験的に,ステレオ写真は左右どちらかの解像度が高ければ,それに引っ張られて高解像度に見えるので,私の写真の解像度を損なわないようにしながら,コントラストと色調を合わせ,大きさを揃える。そして,ステレオ化。月の出に近い時間帯の画像でもあり,光っている部分が下に来たほうが安定感があるので,NZの画像を右,日本の画像を左に配置した。

 やや画像処理がきつく,エッジが立っているため,周辺部の立体視に影響しているが,とりあえず,中央部が膨れて見える画像が実現した。このときの基線長は約7600km。この距離を自転利用で作り出すとすると,東京近辺の緯度なら,6時間ぐらい撮影間隔を空けないと実現しない。これだけ間隔が開くと,月の欠け際の様子はだいぶ変わってしまうので,拡大撮影には使えない。アデレードあたりにパートナーを求めれば,ぴったり同時撮影して,拡大撮影に耐える画像が得られそうだ。

右がNZの月,左が日本の月。世界中どこで見ても同じ月。でも,ちょっとだけ違う。
(撮影日:2006.07.14)


 ともかく,北半球と南半球の合作による「ステレオ月写真」の完成だ。
 初めての試みだから,画質はそれほど満足のゆくものではないが,「南北基線方式」の撮影で,立体画像を作ることが出来ることが,証明された。


 南の猫さんと月を同時撮影した夜,私もかなりの枚数,月を撮影しておいた。
 これは,いつもの「自転利用」による方法で,ステレオ写真に加工する。
 この日,拡大撮影をしていたのは私だけだったので,自分の撮った画像だけで,月のアップのステレオ写真を作った。これはもちろん,作り慣れているので,きっちり立体視の出来る画像が完成した。

やはり拡大撮影のステレオ画像は,これが本命。神酒の海に乾杯!

 その後,時間が取れたので,より満月に近い月で,北半球と南半球の同時撮影を再度,試みた。

撮影条件は7月14日と同じ。
秤動を利用した立体画像よりも立体感が弱いが,
ちゃんと月の中央部が膨れて見える画像が得られた。
(撮影日:2006.08.10)


 こうして,わずか3名の努力により,3種類の異なる手法による,月の立体写真が出来上がった。


7.新聞紙面で立体視を実現させるには?

 「ステレオ月面写真」の紙面掲載には,もうひとつ,クリアしなければならない問題があった。
 コラムの紙面はそれほど大きくない。おおよそ,横11.5cm×縦22.5cmのスペースに,文字と写真や図版を収める必要がある。一方,「ステレオ月面写真」は,幅10〜11cm程度が,最も見やすい大きさだ。これをそのままのサイズで掲載したら,文章が入らなくなる。縮小画像でも立体視が可能な写真を作っておきたい。
 画像幅が4〜6cmぐらいになることを想定したステレオ写真作りに取り組む。

 Marks氏のステレオ写真が満月の全体像のものであるから,こちらは得意とする拡大像で,違いを明確にしたい。
 拡大撮影で,しかも小さな画像でも,それらしく立体的に見える地形を選び出す。どうせ縮小印刷するのだから,拡大率の高い画像を用意しても大丈夫だろう。

 過去の撮影データも含めて,適当な地形を洗い出し,試作。

コペルニクスのアップ。これは,いつもHPで表示しているサイズ。

XGAのノートパソコンで幅5〜6cm程度になるように表示。
実際の紙面掲載を想定した実験である。

テオフィルス近辺。
深さの違うクレーターの連なりが面白い。

 とりあえず,この程度なら,新聞紙面での立体視も可能だと思われる。
 しかし,原画のインパクトには程遠いような気もする。
 この点については,紙面に,「ステレオ月面写真」のURLを紹介していただくとのことなので,月の立体視に興味を持ってくださった方を,こちらでフォローする体制を取ることにした。


 実は私は,このサイト(「ちょっとそこまで,星を見に…」)に関しては,あえて,いたずらにアクセス数を増やさないように配慮している。売名行為の自粛と言う意味と,ネット上では有名になりすぎないほうが幸福な場合が多いと言う経験則に基づく方針である。むやみにアクセス数を増やさないことのメリットは,掲示板に書き込むゲストの快適性や情報管理の容易さにも繋がる。そのため,このサイトのポリシーとして,「集客目的の自発的営業活動は一切行わない」と言う基本方針を立てているが,被リンクについては,特に問題の無い限りは,大部分許容している(つまり,非自発的なサイト紹介までは規制しない)と言う経緯もあり,今回は後者の対応と言うことで,URLを新聞紙面に掲載することにした。ポリシーを捨てたわけではないので,念のため。公益性に寄与する被リンクであれば問題は無いという判断だ。


8.ステレオ月面写真のこれから

 立体映像と言うのは,ブームの波が繰り返されるようだ。

 前述の,銀塩写真黎明期の19世紀末から20世紀初頭のステレオ写真ブームがあり,その後,映画が普及し始めると,ステレオの動画が作られたり…。
 もう少し近年では,1970年代にホログラムが普及し始め,1980年代には博覧会などで大規模なステレオ映像を提供するパビリオンが流行し,1990年代にはCGによる立体画像やランダムドットステレオグラムが流行し,裸眼立体視を楽しむための本が多数刊行された。
 ……こうしてみると,大きなブームはあまり無かったものの,その時代ごとに,目新しいステレオグラムが現れ,ちょっとしたブームを起こす,と言った流れがあるように見える。立体映像には,コンスタントに支持者が居て,ステレオカメラなどの関連用品も,販売数は多くないが,継続的に販売されてきた。爆発的な流行は無いものの,エンターテイメントとしての一定の支持は得られているのではないだろうか。


 世の中にはさまざまな立体映像の見せ方があるが,人の肉眼で立体映像を認識させるための,立体視の基本的な原理には,それほど大きな違いは無い。要は,見せ方の工夫(=演出)と,「何を見せるか」……すなわち,立体画像の素材(=ソフトウエア)の問題ではないかと思う。
 月のステレオ画像は,素材としての面白みは十分にあると思うが,万人受けするものでもなさそうだ。大々的に売る込むような種類のものでもない。月のこと,天文学のことに興味を持つきっかけ作りとして活用してみては,いかがだろうか。


 私の「ステレオ月面写真」は,国立天文台の「四次元デジタル宇宙プロジェクト」のいちばん初期のコンテンツの制作時に,提供した経験がある。「四次元デジタル宇宙プロジェクト」は,国立天文台の研究成果を立体CGの動画で,直感的に分かりやすく紹介する,いわば普及教育活動のためのプロジェクトである。そのコンテンツの中に,実写による月の立体画像である「ステレオ月面写真」が使われたことは,これが,エンターテイメント性のある教育機能=エデュテイメントの素材として有効であることを物語っているのではないだろうか。

 「四次元デジタル宇宙プロジェクト」に取り込まれた「ステレオ月面写真」は,スクリーンに投影され,偏光グラスで立体視する方式に加工された。さすがに,口径76mmの望遠鏡では,拡大投影に使うために十分な分解能が得られなかったのが心残りだ。やはり,このような目的には,より高解像度の画像が欲しくなる。口径20cmぐらいの望遠鏡に画素数の多いデジカメの組み合わせで撮れば,100インチぐらいのスクリーンで立体画像を楽しむことも出来ると思う。

 現在,Web上に公開しているステレオ月面写真は,おおよそ横幅が400〜600ピクセルであるが,ほとんどの画像は横1200ピクセル前後で作成している。このサイズの画像をはがきに,横幅が10〜11cm程度になるように印刷すると,裸眼立体視(平行法)で見やすい写真になる。新書サイズぐらいの写真集や「立体月面図」を作ることも不可能ではない。

 作成方法や見せ方を工夫すれば,「ステレオ月面写真」には,まだ,さまざまな可能性が残されている。


 月のステレオ写真の作成方法は,それほど難しくない。月のクレーターが写せる程度の機材と腕前があれば,じゅうぶんに楽しむことが出来る。ステレオグラムを鑑賞するのも面白いが,撮影〜ステレオ画像の作成過程そのものを楽しんでみるのも良いと思う。地球上からの撮影で,宇宙旅行に行ったような臨場感のある月の立体画像が得られる意外性も,自分でステレオ写真を作ってみると,良く理解できる。望遠鏡を持っている方は,是非,御自分の手でステレオ写真を作成して,この意外性と面白さを楽しんでみては,いかがだろうか。


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