2003年10月16日(木曜日)


 自宅のすぐ近くに新しくデパートが建った。どんなに近くに、どんなにでかいモノが新しく建てられてみた所で、おいらと言う人間が早々変わってくれると言うものでもないなというお話。まぁ、至極当たり前のことなのですが。

 しかしここ最近、再び小説を読むようになったおかげで、やっと頭の中のフィクション回路、詩的描写回路が運転を始めたようです。まだちょっと、動き方に偏りが見られなくも無いですが (たぶんこの偏り方は Stephen King の影響ではないかと。。。)、これからもネタが思いつき次第、ちょくちょくとここのレパートリーを増やしていけたらなぁと、胃痛に頭を悩ませながらも嬉しく思ったりするのであります。あーイタタタタ。。。


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 スパゲティー・カルボナーラ

ジャンル:フィクション
危険度:中

 パソコンに向かって作業をしていたが、怠惰に頭を乗っ取られてアニメを見ていたら、モニターのデジタル時計が 13:00 を告げていた。アニメは先日ソフトウェア専門のお店で買った DVD だが、今、パソコンには DVD ディスクは挿入されていない。データはハードディスクの中だからだ。アメリカの裁判所はこれを違法だと主張しているらしいが、冗談じゃない。変な圧縮が掛かっていて、アルミ板から直接読み出していたのでは重くて見れたものではないのだ。これは不可抗力だ。文句があるならこんな酷い作り方をする DVD の製作会社に言ってくれ。

 そんなことはどうでもいい。

 とにかく俺は腹が減っていた。働かざるもの喰うべからず。とはいえ、喰わなきゃ多分この後も仕事をしないまま、だらだらと一日を終えてしまうのだろう。

 雨は小雨になっていた。朝は晴れていて太陽も出ていたが、そのときから既に空気が湿っていたので厭な予感はしていたのだ。朝日の眩しさに釣られてつい洗濯をしてしまったが、一時間ほど前に慌ててすべて取り込んだ。いろいろとやる気が起きなくなってしまったのは多分その辺りからだ。

 帽子だけかぶり、肩掛けかばんを持って外に出た。傘はこの間、電車の中に置きっぱなしにしたまま無くしてしまった。ビニール傘を差して外に出る気には、今日はなれなかった。風が少し強かったが、あまり前を見ないようにして歩いた。

 いつもなら駅まで歩いてゆき、定期券で改札を抜けて、中にあるハンバーガー・ショップで昼食を済ませるのだが、今日はこの天気だからということもあって、駅まで歩いていく気にはなれなかった。それなら鍋の中のカレーを食べればよいものなのだが、そういう気分でもなかった。朝っぱらからキリキリと、胃袋が悲鳴をあげていたのだ。この痛みは朝食を食べればすむかと思ったのだが、6 枚切りのパン 1 枚と、加熱済み豚肉ミンチの塩漬け缶詰 1/3 では、この痛みを鎮めることはできなかった。丁度、自宅から目と鼻の先に、つい最近建った大きなデパートがあるので、そこで昼食を済ませることにした。

 デパートは混雑していた。当然、一階の食堂コーナーもだ。テーブルはびっしりと人で埋まり、お盆を抱えたまま途方にくれる人々や、壁寄りのテーブルではない、棚のようになっている場所を借りて立ったまま食事をしている子供まで見かけられた。ありふれた光景だが笑っている場合でも無さそうだ。ともあれ、この胃痛を鎮めてくれるメニューはあるかとしばらくは建ち並ぶ店の前を徘徊し、品定めを始めた。

 やがて、何かを諦めるような気持ちで立ち止まった。壁の写真には輝かしくてかった卵の黄身を乗せた白色のパスタ、スパゲティー・カルボナーラが写されていた。固茹でのデュラム・セモリナ粉、ホワイトソース、柔らく炒められたベーコンに生の卵の黄身が、俺の胃痛を鎮めてくれることにわずかな希望を抱きながら、俺は行列の後ろについた。

 後方に人がいた。俺は多分、この人よりは先に列にいたつもりでいた。高校生ぐらいの青年と、その母親と思しき二人組みだった。母親の方が、じゃあ私が並んでおくから、などと言い、それと同時に青年の方が列を離れた。恐らく空いている席でも探しに行ったのだろう。そしてその直後、母親の方が俺の横に並んだ。どうやら俺の姿が、彼女の目には映っていないようだった。が、結局はこの違和感に気づいたのか、すごすごと俺の後ろに並びなおしたようだった。俺の胃袋はますます痛むばかりだった。

 カルボナーラを注文すると、男性店員は「パスタが茹で上がるのに 15 分から 20 分ほど掛かってしまいますがよろしいでしょうか?」と聞いてきた。男性の店員はこの店舗では、隠れて見えなくなっている厨房を除けば彼ひとりだけだったようだ。すぐ横では商品の受け渡し口で、女性店員が出来上がりに時間が掛かってしまったことをひたすら謝りながら商品の載ったお盆を差し出していた。俺は「お願いします」とだけ答えて、619 円を払った。丁度いい。20 分もあれば、なんとかテーブルにありつけるかもしれない。

 しかし数分後には、ブザー・バイブ機能付きの電子番号札を左手に握ったまま、俺は呆然と立ち尽くしていた。席は一向に空く気配を見せない。多くの家族連れは食事を終えてもまったりと談笑に耽っているばかりだった (幸い、勉強道具やカードゲームを広げる学生集団などは見かけられなかった)。時々、どこかで誰かが立ち上がっても、すぐそばで見張っていた別の人間が、抜け目無く領地を分捕るのである。さすがに、こういう状況で 4 人掛けのテーブルの前に一人で張り付く気にはなれなかった。幸せな家族連れは何を差し置いても優先されるべきだ。一人身の小汚い男性がその幸せを邪魔してはいけない。

 お盆を抱えて困惑の表情を浮かべた中年男性が、俺のまん前を横切った。お盆の上に乗せられていたのは、高温に熱せられた鉄板に、まだ生の牛肉とピラフが盛られた人気料理だ。こいつは素早く混ぜ合わせて、鉄板の余熱を利用して肉をしっかり焼いてあげなければならない。しかし鉄板に接している部分だけが切なく焦げる肉の香ばしい匂いが俺の鼻腔にまで漂ってくるので、思わず咽せっ返して咳払いをしてしまった。近寄って来るなよ負け犬め。まったく、ああはなりたくないものだ。しかしそう思いながらも俺は、あと 10 分かそこいらしたら同じ運命をたどるかもしれない自分を想像し始めていた。失意の表情で、けたたましくブザーの鳴る番号札を店員に差し出す俺。本当に申し訳無さそうに、出来上がるまでに時間が掛かってしまったことばかりを丁寧に詫びながらカルボナーラを差し出す女性店員。「いや、商品はもういらないんです。悪いけど、処分しておいてください。」と、バツが悪そうに言い捨てる俺。「え? あの、でも、困ります…」 困惑顔の女性店員に罵声一発。「仕方が無いだろう!? 俺はゲームに敗れたんだ。」

 いささか気分が悪くなって、俺はまた、ふらふらと、意味も無く足を動かし始めた。筒型のコーヒーショップの周りを、一周、二周し、パック入りのコーヒー豆をなんとなく眺めてから、今度は逆周りに歩き始めた。コーヒーショップの裏手が抉り取られた一つの空間になっていて、そこにも小さいながらいくつかのテーブルが用意されていた。もちろん、ここもしっかり人で埋まっていた。しかし、丁度俺がその場を通り過ぎようとするところで、端から二番目の席に座っていた子連れが立ち上がった。周囲に緊張が走る中、俺は慎重にその席に近づいた。というのも、隣に座っていた老婆、立派な物腰で、貴婦人がそのまま老いたといった感じの老婆が、俺ではないまったく別の人を手招きしていたからだ。手招きされているその人も子連れの母親だった。しかしその人は遠慮をしている様子だった。俺はテーブルの横まで行き、老婆に「空いていますか?」とだけ尋ねた。すると老婆は残念そうな顔をして、俺ではなく、子連れの母親の方を見て、「あらー、私さっきからあちらの人に席をお譲りしていましたのに。」と言った。子連れの母親は手を振って、「いえ、結構ですから。」と、今度ははっきりと言ったが、それでもどういう訳か、立ち去る気配はないようだった。俺はどうすればよいのかわからなくなって、その場で立ち尽くしてしまった。

 この空気に耐えられなくなってその場を離れたのは、それまで隣のテーブルに腰をおろしていた老婆その人であった。結局彼女は、子連れに自分が座っていた席を譲る形で立ち去った。子連れの母親は、まだ若干困惑していた俺に今度は手で指し示して「どうぞ。」と、それまで消極的な席の取り合いの対象となっていたテーブルを勧めてくれた。俺はありがたく礼を言い、そして逆の隣のテーブルに座っている親子、さっきから立ち尽くしていたために俺の肩のかばんやらが邪魔くさかったかもしれないこの人たちにも、軽く会釈をしてから、その席に腰を下ろした。腰をおろして、かばんをテーブルに置き、帽子を脱いで坊主頭を晒したところで、丁度番号札のブザーが鳴った。

 間一髪だった。そしてグッド・タイミングだった。受け渡し口で、やはり時間が掛かったことをひたすら謝る女性店員に、感謝の気持ちを告白してしまいそうな心境だった。もしも、あとほんの数分早くパスタが茹であがっていたら、俺は商品をつき返していたか、もしくはやはりこの場の何人かがやっていたのと同じように、お盆を抱えたままうろうろと、いつまでも徘徊しつづけていたことだろう。

 テーブルに戻るとかばんと帽子を向かいの椅子に置き、代わりにカルボナーラのお皿が載ったお盆を置いた。スプーンとフォークを持ち、おもむろにパスタと卵の黄身をかき混ぜて、食べ始めた。さて、ここで一つ、自分自身に問い掛けてみることにしよう。固茹でのデュラム・セモリナ粉にホワイトソース、柔らかベーコンに卵の黄身は、君の胃痛を和らげてくれているだろうか?

 不意に、隣の席から男性の声が聞こえた。俺の右隣には先ほど、消極的な席の取り合いになってしまった子連れの母親が座っているが、その向かいには彼女の連れの人と思しき男性が、いつのまにか、娘を膝に抱えて座っていた。俺は彼女が、恐らく身を削る思いでこの席を手に入れたことを知っていた。にもかかわらずその男性はさも不服そうに、今自分が腰をおろしている席の、テーブルの狭さにけちをつけていた。「ホラー、あっちのテーブルとか広いところいっぱいあるじゃん。空かないもんなの?」 無神経な大声で不平を言う馬鹿旦那相手に、妻は苦渋の表情を呈して小声で何かを言いながら首を振っている。「空かないのかよぅん。じゃあもういい。このテーブルでいいよ。」諦めたような苦笑を浮かべて、男は両手を振り上げた。しかしこの男性の表情からは、それが実際にはさも簡単なことであるかのような認識でいるとしか感じられなかった。俺は、右斜め前に向かって座っているこの男に、表情を悟られないように注意しながら、食事を続けた。

 カルボナーラは悪くは無かったが、感動するほど美味しいものでもなかった。食事を終えると俺はそそくさと席を立ち、そしてすぐそばに突っ立っていた男女に、もの欲しそうな顔をした男女に、なるべく愛想よく努めながら席を譲った。さて、敢えてここでもう一度聞いておこう。固茹でのデュラム・セモリナ粉にホワイトソース…。

 食器を返却口に収めると、俺は歩き出した。胃痛は治まらなかった。そんな予感はしていた。正確に言えば、そんな予感しかしなかった。しかしまぁ、終わってしまったことについては仕方の無いことだ。午後からの作業に備えて、恐らくコーヒーをたくさんのむだろうから、このわがままな胃袋のためにコーヒー用のクリームを買っておくことにした。コーヒーのクリームは先ほどの円柱型をしたコーヒーショップではなく、それとは別の、輸入食材の専門店で買うことにした。お気に入りのウィルキンソン・ジンジャエールやインカコーラ、それから今朝食べた豚肉の缶詰なんかを売っているお店だ。

 店はこの時間帯にしては空いていたようだったので、買い物篭をさっさと取ると、ジンジャエールとインカコーラを 2 本ずつと、コーヒー用のクリームシロップを籠に入れ、レジ前の列に並んだ。あと一人というところで、隣の使われていなかったレジに別の店員が入り、「前にお並びの方からこちらにどうぞー。」と呼びかけた。ふと、俺のすぐ後ろに並んでいた中年女性が、素早く今開いたばかりのレジ前に立とうとしたが、抜け目無く俺がその前をさえぎり、レジに籠を突き出していた。どうしたことだろうか。俺は別に、この女性に先にレジを譲ってもいいと思っていたのだ。なのに体が勝手に反応して、この女性の行動を阻んでしまった。女性は諦めて、元の列に並びなおした。俺は、もうこれ以上、醜い争いを繰り返したくなかったのだ。俺の胃袋は、ますます不機嫌に悲鳴をあげ始めていた。

 買い物袋を下げて、俺は外に出た。雨はほとんど降っていないようだったが、それでも強い風に吹き流されてわずかな雨粒が、勢いよく俺の右頬を殴りつけてきた。空は雲が一面重く垂れ込めていて、太陽はどこにあるのか分からないほどだった。風は相変わらずじっとりと湿っていて、10 月とは思えないほど生ぬるく感じられた。自動ドアを出てすぐ右手に、小さな公園がある。まだこのデパートの敷地内。象を模して作られた滑り台と、ベンチが申し分程度に置かれただけの、ちっぽけな公園だ。こんな天気だと言うのに、小さい女の子が数人、元気よく遊んでいた。暗雲垂れ込む灰色の世界に降り立つ、輝ける天使達。

 「あーっ!!」 そのうちの一人が、なんとなくその場に立ち呆ける俺の心の片隅で、小さく力強い、悲痛な叫びを上げた。声のしたほうを見やると、赤い色の風船が紐をなびかせて、風に乗って逃亡を図っているところだった。風船はいくらかしぼんでだいぶ小さくなっており、もう空高く飛び上がるだけの余力は失っていた。俺は、やめておけばよいのに、弱々しく低空を這う逃亡者の方へ、軌道を読みながら小走りに近づいていった。最初、彼のあまりの身軽さに、下から抱え込もうとする手からするりと体をかわされてしまったが、すぐに振り向いて、地に引きずるか細い尻尾を踏みつけると、そのまま糸を手繰り寄せ、捕獲に成功した。少女が二人ほど駆け寄ってきたので、そのうちの一人に風船を手渡した。少女は安堵の笑顔で「ありがとうございます。」とお辞儀をして、また、駆け足で公園の方へ戻っていった。

 俺は歩き出した。雨がまた少し強まってきていた。俺は帽子を深くかぶりなおした。さっき、風船を追いかけたときに、荷物を持っていたほうの肩を少し痛めてしまったようだった。しかしこの痛さはむしろ少しだけ嬉しかった。少なからず自分の行動を名誉に思えたし、何よりさっきから止まない胃痛を紛らわすには丁度良かった。雨は今度は弱まる気配を感じさせなかった (実際、部屋に戻ってから間もなく、雨は急激に激しく降って、まるで嵐のような状態になった)。さっきの子達はこの雨の中でもまだ夢中で遊びつづけるのだろうか? ベンチには保護者らしき女性もいたようだったのでさすがにそれはないかとは思った。しかしそんな、自分にとってはどうでもよいことであるはずのことをわざわざ心配する自分が、なんだか可笑しく思えた。そして、少しだけ気持ちが楽になったような気がした。