2003年7月24日(木曜日)


 私がここで書いているのは下らない駄文な訳ですが、世の中にはこのような駄文にすら劣る書き物がたくさん転がっていたりするものです。例えば、古くなったまま更新されない、プログラムの仕様書。ちっとも内容が実際とは一致しないものをいくら眺めてみたところで、そのプログラムの解析には糞の役にも立ちません。
 最近のマスコミ報道も、そういう質のものが増えてきているように感じます。下らない政治家のスキャンダル報道に、いったいどれほどの価値があるのでしょう? そのくせ、国債の半分が公的保有になっても、そのことはちっとも問題として取り上げられなかったりする。

 私は、自分ではあまりけじめのしっかりした人間だとは思っていません。例の創作物だって今は手付かずのまま寝かせちゃってるし。だけど、仕事とそれ以外のけじめぐらいは、しっかり持たせなきゃいかんということぐらいは守って生きていきたいと思っています。
 まぁ、それでも、遅刻はするし、勤務時間中に息抜きと称してニュースサイトを眺めていたりする私ですが (駄目じゃん>ヲレ ;_;/)、せめて自分の作る成果物ぐらいは責任を持てるものにしたい。無責任なこと書いてお茶を濁すのはなるべくこのネタ帳の中だけにしていきたい。そう思うのであります。

 あー、なんだか、とってもマイナスアピール<ネタ帳(w。


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 民主主義

ジャンル:コラム
危険度:大

 大ッ嫌いだ

 それは本当の民主主義だとは言わないだとかそんな理屈こねたっておいらは納得しない。絶対にだ。

 とにかくおいらは多数決というやつが本当に嫌いなのだ。そして多数決で何でも押し切ってしまおうという人間も大ッ嫌いだ。というより、おいらのなかで多数決とはトラウマ以外の何者でもないのだ。

 昔、父方の祖父母が松戸に住んでいたことがあった。幼少の頃の話だ。
 当時家に車が無かったうちの家族は、祖父母の家に遊びに行く際には当然電車を使っていた。総武線の黄色い電車に乗って津田沼で降り、新京成線の、新津田沼という駅まで歩いて、松戸駅行きの、白い、ちんたら走る電車に乗り換え、ゆっくり揺られていくのだ。
 正月だのなんだのでしょっちゅう行っていたし、夏休みなんかでは兄貴と2人で行ったことだってある。だから、それが間違いだなんていうことは絶対ありえなかったのだ。

 なにがって? それは、当時の新京成線が、松戸駅まで開通していた、という事実をだ。

 それが小学校の頃だったか、中学に上がってからだったかも、実は今となってはいまいちよく覚えていないのだが (厭な思い出は忘れがちないい性格なのだ ^_^;)、確か社会化の授業だったこと、そして教師が男性であったことははっきりと覚えている。クラスの顔ぶれや、教師が具体的にダレだったかまでは覚えていない。それに、この出来事自体も、おいらの記憶の中では、よりネガティブに脚色されてしまっている可能性もある。が、この事件が私の中に、多数決というものに対する決定的なまでの不信感を植え付けたということだけは、確かなのだ。
 授業の中で、新京成線の話題が出てきたのだ。それで、よく知っている路線だっただけに、とても嬉しくなってしまって、思わず、「知ってます! 松戸まで行く電車ですよね?」と、手を挙げて切り出してしまった。
 思えばそれが間違いだった。教師は大きくリアクションを取って、「え? 新京成で松戸!? まさか、そこまで開通してないでしょ!?」などと答えたのである。
 結局、そのときおいらがどう言い張っても、その教師は「んなこたぁない」の一点張り。そのうち、回りの連中までもが、どういう根拠か知らないが、何故か雰囲気的に教師の味方となり、最終的にはおいらが嘘つき呼ばわりにされてしまったのである。

 あまりにも下らなすぎてソースを出すのもばかばかしいのだが、あくまで参考として、新京成線は昭和 30 年の時点で既に松戸まで開通し、昭和 50 年には複線化も完了している。おいらが生まれるよりも昔の話だ。こんな、ありきたりの事実さえも、多数決の前には無力なのだ。そうして導き出された答えは、多くの人間に多大な恥をかかせる。
 しかしそんなことよりもとにかく、そのときおいらは悔しくて悔しくて仕方が無かったのだ。何故、事実を主張していただけのおいらが、こんなにも敗北感を味わわなければならないのか!? 正しいのはおいらなのに。まるで、じいちゃんばあちゃんちに遊びに行った、楽しい楽しい思い出までもが、ズタズタに否定された気分だった。悔しくて悔しくてたまらなかった

 多数決の前には、ただただ敗北するしかないのか?
 多数決という現象に対して、ひたすら屈しつづけるしかないのか?
 人の生き方とは、かくてそういうものなのだろうか?

 小学校に入りたての頃は、誰もが授業では盛んに「ハイッ!」と大きな声で叫びながら手を挙げていたクラスメイトたちが、やがて、仕方なしに小さく手を挙げるだけになるようになり、やがて、教師に指名されるまでひたすら肩をすぼめて黙りこくるようになっていった。
 誰もがみんなそうするから、おいらもそうしないと、なんだか恥ずかしいような気がしてしまって、やがておいらも、あんまり自分から手を挙げて発表するということをしなくなってしまった。
 とにかくいじめの多い小中学校だったけど、そんなことよりも、こういうところでおいらは、確実に、多数決という権力に、押さえつけられていったんだなぁ、と今では思う。

 たった一人だけ、多数決に囚われなくても良いんだということを知らしめてくれた先生がいた。小学校 3、4 年のときの担任の先生である。名前も顔も、今でもはっきり覚えている。
 その先生は国語がとても好きで、どの授業も熱心だったが、国語は特に熱心に教えていた。だから、多くのクラスメイトが、その先生の国語の授業に至っては絶対的な信頼を抱いていた。
 そんな先生が、あるとき、その国語の授業の中で、黒板に「えばる」と書いた。
 おいらはそのとき、どういうわけか、懲りているはずなのに手を挙げて、こんなことを口走っていた。「先生! えばるじゃなくて、ばるです!!」
 このときのクラスメイトのブーイングは尋常ではなかった。当然だ。国語に関しては絶対の自信を以って授業をしてくださる先生であるということはクラスの全員が認識していることだった。当然、おいらだってそれは認識していた。だから、クラスの誰もが、この先生がまさかそんな基本的なミスを犯すわけが無いと信じていた。きっと、「えばる」だって正しい国語なんだ。誰もがそう、信じて疑わなかったのだ。
 しかしそんな中、先生は至って冷静だった。いや、むしろはっとしたような顔になっていた。いつも以上に真剣な顔だった。そして、傍らにある国語辞典をとっさに開き、ページをめくっていた。そして、辞書を閉じると黒板へ向かい、赤いチョークで「えばる」をバツで打ち消し、「いばる」に訂正したのである。

 実は、「えばる」は必ずしも間違った日本語ではない。しかし、それはあくまでも「いばる」の転であり、より正確には、やはり「威張る (いばる)」なのだ。先生はそういうところまでしっかり解説してくださった上で、生意気なことを言い出したおいらに感謝の礼までしてくださったのである。
 このとき、例え周囲の誰に否定されようとも、絶対に正しいと言い切れることを主張し続けることの意義を、おいらは学んだのである。

 もっとも、おいらのばあいは間違ったことを間違ったまんま、よく調べもせずに主張してしまうことも多々あるので、それはつくづく気をつけなきゃあかんなぁとも思う今日この頃。ただ、調べてもよく分からないことについては、発言してしまってから訂正されるんでも良いかなぁとも思っていたりする。とにかく、知らないまんまで済ませてしまうよりは 100 倍ましだと思ってる。

 考えてみれば、おいらの生き方はことごとく、多数決に対する挑戦であるような気がする。うんずとか、うんずとか、あとうんずとか(w。最近では IE 使わずに Mozilla 使ったりとか。
 もちろん、こういういかにもアンチ○○的な行動に、まったく考えが無いわけではない。うんずを選んだのは、当時のパソコンで標準で FM 音源 6 和音、PCM 音源 8 和音が使えるマシンというのは他に無かったからだ。3 万色が標準で使えるグラフィック機能もすごく魅力的だった。それに引き替え、にちでんの 98x1 は、ゲームソフトは確かにたくさん出ていたけど、市販のゲームをやるためにパソコンが欲しいとは思わなかったし、当時は相変わらず 16 色グラフィックが標準で、FM 音源も後付けで増設しなきゃならなかったりして、一太郎とエロゲーのためのつまらないマシン、という印象しかなかった。MSX は、今更 8 ビットモニターなしは無いだろうとか思ったし、X68k は、今思えばとんでもなく魅力的なマシンだったんだけど、当時はあまりに未知数すぎて、恐くて手が出せなかった。
 周囲のにちでんユーザーの何人かが、「パソコンはソフトが揃ってなくちゃ使えないよ」と言っていた。でも、おいらは当時から、「ハードは在りもの以上のことはできない。けど、ソフトやデータは欲しけりゃ自分でいくらだって作ればいい」と思っていたし、今だってそう思っている。
 結局、発展の鈍かったうんずは拡張性に恵まれず、86 音源や Sound Blaster の登場で音回りですら 9821 より劣るマシンに落ちぶれてしまったまま姿を消すことになるわけだが、それでもフリコレとの出会いなどから、作ることの楽しさをたくさん学んだ、素晴らしいマシンだったと今でも思っている。
 Mozilla はなんでかって? それは使ってみれば分かる。何なら今すぐにでもインストールしてみればいい。タブブラウジング、ポップアップ広告ブロック、高い機動性 (Mozilla Firebird のみ)、ブックマークの使い勝手、優れた拡張性と、それを意識させないシンプルな操作性 (これも Mozilla Firebird のみ)、そしてなにより、いちいちソースを眺めなくてもダイアログ操作で Flash が保存できちゃう手軽さ(w。ていうか、これ知ったらいちいち他のダウンロード支援ツールとか導入するのもあほらしく思えてくるでぇ。まぢで。