2003年7月10日(木曜日)
1 年ぶりのネタ帳です。ご無沙汰しております。
1 年ぶりなので、パソコンが「ネタ帳」を素直に変換してくれません(w。あ、今のはちゃんと変換してくれましたね。えらいえらい。
最近、他所で教科書まがいなものを HTML で書いていたりして、すっかり strict な HTML 書法に慣れてしまいました。おかげで行頭にいちいち全角スペースを入れるのも面倒くさいです。段落分けもついつい <P>
タグだけで、、、ってここでまで書くことじゃないですね。
今回は、最近私が興味を抱いたニュースから、2 つのテーマに付いてどうしても書きたくなり、急遽ネタ帳という場を借りて執筆させていただくこととさせていただきました。まぁ、これから書くんで、2 つとも書けずに、1 つだけで終わってしまう可能性も大きいのですが、なぁんて相変わらずリアルタイムに気ままに文章をしたためる癖はいいかげん直した方が良いのかもしれませんが(w。
(※後記 : やっぱり 1 つしか書けなかった ;_;/)
ジャンル:コラム
危険度:中
著作権だとか、ライセンスだとかに関するお話です。
この手の話題自体は前々からいつかは書きたいとは思っていたものです。こう見えても私は結構この問題にはナイーブなんです。ただ、某所でオープンソースの本来の意味だとか GPL ライセンスやら BSD ライクなライセンスやらと言った話題に触れることがあって、今まで簡単にフリーソフトウェアだとか言っていたものが、実は本来の意味でのフリーソフトウェアではなかったんだとかいったようなことを理解するようになって、以前にも増してこの問題には意識が真面目になってきちゃったかなぁと言う気分だったりもするわけです。もう訳わからんですねこの文章。
ただ、基本的には私の中の考え方が変わった訳ではなくて、これは以前別の場所で書いたのだったか、あるいはあいさつ過去ログを漁っていればおんなじようなことを書いている記述が見つけられるのかも知れないのですが(w、例えば作家なり、芸術家なりがいて、その人が何かしらの作品を作り上げた場合、作者と作品の関係はまるで親子の関係に似ている、という考え方なんです。
どういうことかというと、権利と言うことを考えると分かりやすいのかもしれませんが、親は子供に対して、いくつかの権利があると思っています。
1 つは、自分がその子供の親であることを宣言する権利。これは当たり前のことなんですが、一番重要なことなんだと思うんです。例えどんな経緯があれ、例えば身勝手な事情で生んですぐに捨ててしまっていたような酷い親であっても、その子供が生きている限り、そしてその人自身が生きている限り、この子の親は私です、って宣言する権利があるのは、やっぱりその子を生んだ親にだけ与えられた特権だと思うのです。もちろん、人間の場合は子供にだって意思があるのですから、倫理的、道徳的な問題はついてまわることになるとは思いますが、作者と作品の関係の場合はそういった問題がないだけに、よりいっそうそういうことが言えるんではないかなぁと思います。
もう 1 つは、その子供を育てる権利です。何らかの働きかけをして、なるべく自分が思ったとおりの人間に育てようとする権利を、親は子に対して持っていると思っています。もちろん、実際にどう育つかは、その人の努力と献身、そして思いやり次第、そしてその子が実際に環境から与えられた経験と、素質なんてモノもある程度は関係してくるのでしょうか。やっぱり親子の場合は子供は人間なので、いろんな要素がありすぎで問題は複雑さを増す一方なのですが、作品の場合は、その作品をどうにかする権利があるのは基本的には作者だけで、作者が許可する場合にのみ、他の人が更に手を入れたり、あるいは作者に意見を献上したりして、そういった声が作者に影響を与えて、それによって間接的に作品の形も変わって来たり? そう考えると、作品の場合も子供の場合と同じで、周囲の環境によって与えられる影響ってのも結構あったりしなくもなかったりするわけですが、それでもやっぱり、親と子の関係よりは、より関係を単純化して考えられるんではないかと思うのです。つまり、基本的にその作品をどう育てるのかを決められるのは、やっぱり作者だけなんではないかと。
ここまで私は、どちらかと言うと著作権という問題のみについて、私なりの考え方を書き連ねてみました。私の中でのこの考え方は今も昔もほとんど変わっていないのですが、ただ、この問題に関してはというと、考え方と言うよりは、むしろ興味の方向性については、変わってきている気はしています。
ここ最近、著作権やライセンス、更には特許や商標などといった、いわゆる「知的財産権」だとか、「知的所有権」だとかにまつわるいくつかのニュースに、興味を抱きました。
一番最近のニュースでは、やはり SCO の UNIX ライセンス問題でしょうか。ZDNet が一連のニュースについてまとめてくれていますが、たしかに SCO の主張は狂言の域を出ていないという印象は受けるのですが、それ以上に GPL などといった、ソフトウェアの製作者たちがそのソフトウェアに設定したライセンスが、法的に有効なものであると言えるのか、といった問題には大変興味があります。
もう一つ、最近のニュースで気になったのは、さくら出版という倒産した (。。。ということになっている?) 会社からマンガの生原稿が流出し、マンガ専門店の大手まんだらけにて販売された問題についてです。こちらについては同キーワードでググってもらって調べていただくのが一番手っ取り早いかと思われますが、マンガ業界における原稿の扱いと、それにまつわる作者の (本来当然持ちうるべき) 権利について、(やっと) 論議が持ち上がってきています。
他には、音楽業界を中心とした違法コピーやそれを助長する技術にまつわる問題、こちらはアメリカの音楽著作権保護団体がかなりえげつないパフォーマンスを展開していたり、かと思えばファイル共有サービスが技術としては合法であるとの判決が下されたり、その一方で音著団体との合意を取り付けた Apple の iTunes などの楽曲ダウンロードサービスが非常に好調であったりと動きが非常に活発です。音楽業界はどういうわけか国際的に見てもその著作権を保護することを目的とした財団法人が出来上がっていたりして、少なくとも著作財産権については、画一的という制限はあるにせよ、かなり成熟したものになっているという見方が強いようです。
そしてそして、日本でもひっそりとですが、著作権にまつわる大きな変革がありました。著作権法の改正です。これについてはどこの大手マスコミサイトにも触れられていない (!!) のですが、バーチャルネット法律娘 真紀奈17歳というサイトでとても丁寧にまとめられておりますので、こちらをぜひご一読頂きたいと思います。最も問題だと思うのは、今回の改正によって、著作権侵害として訴えられた人間は、著作権を侵害していないことを証明しなければならなくなったという点です。それにしても、著作権法の改正はほぼ毎年 (?) のようにしょっちゅう行われているようなのですが、マスコミはこれについてはちっとも触れようともしないのには本当に驚きです。
あとは、かなり古くから取り沙汰されている問題として、Unisys による LZW 圧縮法の特許問題というのがあります。実は、今年 2003 年を以って、アメリカでの LZW 特許はやっと期限切れを向かえたわけですが (日本では 2004 年の 6 月まで)、少なくともこの特許問題がコミュニティーに与えた打撃、そして影響はとても大きいものであったことには変わりありませんでしたし、特許という仕組みが (至ってソフトウェアによる) さまざまな技術の発展を停滞させている可能性もさんざん示唆されてきました。
こういった、一連のニュースに触れてきてみて、最近私が最も興味を抱いている問題。それは、知的○○権を保護するための、法や団体などと言った仕組み、あるいはもっと言うなれば、知的○○権を保有者が宣言し、それによって何らかの権利を主張すると言う行為が、人間社会の文化的営みに対して与えられる、メリットやデメリット、といった要素です。
知的○○権という言い回しについては、GNU がかなり鋭い指摘をしているとおり、本当は避けたほうがよいのだと思うのですが、ここではとりあえずソフトウェアとそうでないものを分けて考える (ソフトウェアが簡単に複製できるものであるという性質を考慮する) ことについては本意ではないので、あまり気にしないことにします。
まず、著作権が守るべきものは、著作者、すなわち作家や作曲家、漫画家、芸術家などと呼ばれる人々の、仕事に対するモチベーション、すなわち創作意欲であると思います。それは実際になにを作る人なのか、その立場や、あるいは個人個人でも考え方のまったく変わってくるところではあると思うのですが、ある人は、創作活動に対して正当な (そしてまっとうな) 対価が得られることを重視しているのかもしれないし、ある人は、たくさんの人々に、自分の作った作品を見てもらえることを重視しているのかもしれないし、ある人は、たくさんの人々に、自分の名前を知ってもらえることを重視しているのかもしれないし、またある人は、自分と同じ嗜好を持った限られた人々に、自分の作品を高く評価してもらえることを望んでいるのかもしれません。ポルノを描いている作家が、果たして自分の作品が多くの読者にとって実用的であるのかどうかが気になって気になって仕方が無い、というのも本当にあることだったりします。創作者としての自分の実力を誇示したい人、有名になりたいだけの人、莫大な富を築きたいという野望を持つ人がいる傍らで、今日の晩飯でさえ心配しなければならないほど、利益を必要としている作家さんがいるのもまた、事実です。
そういったさまざまな事情を、著作権は包括的に保護できる法律でなければなりません。はっきり言ってむちゃくちゃなことかもしれませんが、究極的には、作品に対するありとあらゆる権利を、その作者が独占できるような法律にできれば、それらは一息に解決できるものとなるでしょう。
しかし私は、著作権法はそんな法律にはなって欲しくないです。何故なら、作者以外の人間が、作品に介在できる共有性がなければ、文化の発展はありえないと思うからです。
例えば著作権法が、作品の世界観と言うアイデアまでも、作者が完全に独り占めできる法律であった場合はどうでしょうか? (実際そういう法律なんだという気もしなくはないのですが。。。ディズニーとかの例を見るからに) ある漫画家が、自分の作ったキャラクター、および世界観を用いて作られる作品、いわゆる二次著作に対して金を取る権利があるならば、作者は同人作家から大量の金を徴収できることになります。そして、もしもすべての漫画家がそのような権利を行使したならば、きっと今のようなマンガ業界の発展はなかったでしょう。
同様のことが実際に行われているのが音楽業界です。カバーを出すアーティストは JASRAC に対してちゃんとそれなりの対価を支払っています。また、音楽業界の場合は、学生がコンサートを開いて演奏する曲についても、その曲の (あるいは楽譜の) 使用料を徴収します。当然学校・学生にそんなお金を払う余裕がいくらでもあるわけではないのですから、例えば吹奏楽コンクールなどで自由曲として演奏するような楽曲も、使用料を徴収されないクラシック曲から選曲したりして回避しようとします。吹奏楽用に編曲されたクラシック曲と言うのは実は結構少なかったりするので (しかも二次著作とはいえ、吹奏楽向け編曲の楽譜に対する使用料が課せられることもあったり)、苦肉の策として大編成のオーケストラ向け、もしくは管弦楽向けに作られた楽曲を、指揮を振る先生が一生懸命編曲したという例まであったりします (実話です。。。あ●やませんせ〜いヽ(´∇`)ノ )。とにかく、この法律のおかげで確実に選曲の幅が狭くなっているのは事実です。
文化の発展は、何も作品が作られることにのみあるわけではありません。作品が、正当な評価を受けることもまた文化ですし、作品が、いろんな形で広く親しまれるのもまた、文化であると思うのです。子供たちが絵を模倣し、聴きなれた歌を歌い、もしくは演奏し、あるいは大好きな物語をモチーフとして演劇をしたり、マンガのコマ割りの中に自らの妄想をしたためてみたり、音楽を耳コピして作った MIDI データや録音したサウンドデータを同士に配って聴かせたり、、、そういった活動もまた、文化の立派な一つの形態だと思うわけです。だってそうでしょう? 芸術とは、あるいは創作とは、結局のところ、子供の遊びの延長に過ぎないわけですから。それに対して対価が支払われるようになったことが、あるいは話をややこしくもさせているのかもしれませんが。
知的○○権という言い回しで括られてしまいがちなもう一つの要素に特許というのがあります。これは著作権とはまったく別の概念で、技術の発展が発明家、ひいては企業に優先的な利潤をもたらすための仕組み、といった性質のものです (って感じの認識でよいのよね? ね? だれかフォローきぼんにゅ<ヲレ弱っ)。こちらが守らなきゃならんのは当然技術の発展な訳ですが、Unisys の問題などが示すように、情報技術、特にソフトウェア技術においては、特許の存在が却って技術の発展の妨げになってしまっているようです。
多くの人がこの状況の説明として、情報技術の進歩の速さを理由にしています。私の考えは実はそうではなくて、速さというのはあんまり関係なくて、それよりはむしろ、LZW に代表されるような技術はアルゴリズムやデータ構造の一種で、性質としては数学の公式に近いものであり、ソフトウェアの発展とは、実は新しい知識の積み重ねである、という側面が、一番大きいのではないかなぁとか思っていたりします。
具体例を示すなら、例えばお菓子の箱を包むビニール包装を、ぴりぴりっと切って簡単にはがしてくれるあの赤いテープ、あれなんかも特許を取得した発明だったりするわけですが (確か)、あれはまさにビニールの包装を開封するための部品としてしか使えないものですよね。つまり、他に応用の利かない技術といえます。かつて特許といえばこんな感じの、用途や目的が非常に限定された技術に対して与えられていたものであったと思うのです。しかしソフトウェアはどうでしょうか? LZW はデータ圧縮のためのアルゴリズムですが、このアルゴリズム自体はさまざまなデータ形式にて採用されています。画像データとしては GIF 、TIFF などが挙げられますし、主にプリンタとの通信プロトコルとして、あるいはドロー系の画像ツールで扱える保存形式として広く使われている PostScript でも、圧縮フィルタとして LZW を採用していたりします (PostScript の発展系である PDF でも一部でそのまま利用されていたりします)。画像とまったく関係のない応用例としては、これまためちゃめちゃ古い話になりますが、モデムを使った通信において用いられていた物理的な圧縮プロトコルである V.42bis なんてものにまで、LZW 圧縮法が使われていたりもしています。つまり、ひとえに圧縮といっても、その用途は非常に多様なのです。それだけではありません。LZW 圧縮法をさらに発展させた圧縮アルゴリズム、というのは聞いたことはありませんが、LZW 圧縮法自体は、LZ 圧縮法というアルゴリズムを更に発展させたものです。こう考えれば、LZW を基礎とした更に新しい圧縮アルゴリズムというものも、あるいはあり得たかもしれません。もちろんそれがないことと、特許問題については直接の関係はないかもしれませんが、じゃあ LZ 圧縮法に特許が存在していて、しかもそれにたいして Unisys が行ったような強い強制力が行使されていた場合、LZW 圧縮法は誕生していたでしょうか?
さすがに長々と書いていて疲れてきてしまったので、他にも商標だとかライセンス (契約) だとかいった要素もあるのですが今回は省略することにして、要するに何が言いたいのかというと、人間の文化的な営みを阻害するような法律・財団・仕組みであるならば、そんなものはまったく以って必要無い、ということなんです。そして、最近はそういう必要無さげな法律・財団・仕組みがなんだか増えてきちゃっているような気がしてなりません。
ところで、最近私は Perl を使った MML コンパイラなどというものを作っていたりするのですが (現在開発停滞中。。。;_;/)、こいつが出来上がった暁には、私が今後作る音楽データは MML を基礎として、GPL ライセンスで配布しようかなぁなどと考えていたりします。。。よーするに、ソースを公開して改変自由!! ってことですね。少なくともネット上で、音楽データを無料データとして配布したり、版権フリーな素材として配布している方はたくさんいらっしゃるとは思うのですが、シーケンサーソフトの生データや楽譜を公開して、改変自由、しかも改変したものについては積極的に公開してくれ、なんてことを言う DTM 作家って言うのはさすがに見たこと無いんで (いるかもしれんけど。。。ていうか、フリコレにはそういうデータがあったような気もするけど)、新たな試みとしては結構ウケなんでは無いかなぁ、なんて。。。ダメっすかね? (^_^;