2002年5月23日(木曜日)
スパゲティー・ナポリタンを炒めて、出来上がったところでお皿を洗っていなかったのを思い出し、仕方がないのでどんぶりに盛って食べました。少し麺を茹で過ぎてしまっていたこともあって、フォークで絡め取ろうとするとどうしても途中で麺がちぎれてしまってすごく食べにくかったです。やはりスパゲティーはどんぶりに盛って食べるものではありません。
そう考えると世の中、いろんなものがよく考えられて作られているんだなぁという事に気づきます。ご飯を食べるときに使う、茶碗と箸もそうです。洋食系のレストランに行ってライスを注文すると、ご飯はお皿に盛られて出てきます。ステーキやハンバーグを食べるのに使うナイフとフォークを、ご飯を食べるときにもそのまま使います。もし、このときご飯が茶碗に盛られていたらどうでしょう? フォークとナイフでは食べにくくて仕方がありません。なぜなら両手がふさがっていて、お茶碗を持つことができないからです。ところがこれがフォークとナイフではなくて箸ならば、逆に茶碗でなければ食べにくくて仕方がありません。なぜならお皿は大きく平べったいので、左手だけでは持ちにくいからです。テーブルの上に置いた状態のお皿からお箸を使ってご飯をすくい取る場合、箸をなるべく水平に寝かせる必要があり、やってみるとそれが意外と難しい作業であることがわかるはずです。
錦糸町の駅ビルにある洋食レストラン(確か「浅草亭」とかいうお店だった気がします)では、ご飯はお皿に盛られて出るのに、ナイフとフォークの変わりにお箸を使わせます。それがこのお店のスタイルなのであって、悪いことであるとは言いません。実際テーブルマナーに慣れてない方からしてみれば、この方がむしろ食べやすいと思うものなのかもしれません。
しかし、それならばせめてお皿ではなく茶碗にご飯を盛って出してはくれないものかと思うのは、わがままというものなのでしょうか?
ジャンル:コラム
危険度:小
ところで、ふと、思うことがある。
かつて、はらぺこでも散々馬鹿にした、とある香港映画のことだ。
その映画は、近未来(?)を舞台に、終末(?)を描こうとした作品である。
内容がどうしようもなくくだらないことは確かなのだ。しかし私はこの作品の中で、どうしようもない誤解をひとつだけ抱いてしまっていた。
その映画の中で、おそらくは電脳中心と思しき電気街に立ち寄り、どう見てもただの電気屋のオヤジとしか思えないおっさんに頼み込んでとある日本人科学者の所有するコンピューターサーバーをハッキングする、という話があるのだが、その中でこのおっさんが「○○台のパソコンとモデムを用意しろ!」と周囲の人間に指示するシーンがあって、それが当時の私にしてみれば苦笑いものの話だったのだ。
この映画がビデオとして出回っていたのが 1999 年の初夏の頃。当時ネットといえばルータタイプの ISDN がようやく売れ始めた頃で、自宅でのネットワーク環境は大半が 56Kbps のモデムという時代だった。K56flex か V.90 かでもめていた(…よりはちょっと後かな^_^;)ような時代だ(藁)。
もしもネットワークのインフラが本格的に行われるようなことがあれば、時代を担うのはおそらく光ファイバーケーブルによる通信網の普及か、CATV や CS 衛星放送の普及によるものであるとほとんどの人が予想していたはずだ。少なくとも、限界と言われ続けてきたアナログ技術がデジタル技術を凌駕するなどとは誰も考えなかったはずだ。
あれから僅か3年で、時代は ADSL を中心としたネットワークの本格的なインフラを迎えようとしている。ソフトバンクとマクドナルドの提携のニュースはご存知だろうか? あのマクドナルドが、某TH大(通称TEC)の「インターネット・カフェ」と同じ轍を踏もうとしているのである(と言って笑ってくれる読者が何人いることやら。。。^_^;)。ネットワークは庶民にとってより身近なものとなり、かつてあの映画の中で描かれたような、電脳中心の街中で繰り広げられたような光景も、あながちうそとはいえない時代がくるのだ。。。
まぁ、いくらなんだって、白昼堂々他人のシステムハッキングするために何台も道端にパソコン並べて、大のオトナが一生懸命手入力でパスワード打ちつづける光景ってのもどうかと思うけどね( ̄▽ ̄;)。
ジャンル:コラム
危険度:中
a + biここで、a を実数部、b を虚数部と言う。このとき b の係数となっている i を虚数単位と呼ぶ。i の定義は √-1 、すなわち
i × i = -1となるような値のことである。そんな数は世の中には存在しないので、これを嘘の数、すなわち虚数と呼ぶのである。
微積分や三角関数を扱う場合には複素数の概念が非常に便利な場合が多い。特にフーリエ解析などは微積分も三角関数も多用するため、複素数の扱いに慣れていないと直感的な理解に窮することになる。また、3 次元グラフィックスを扱う上でも特定の平面上にない点を含む空間中の曲線を、平面に対する法線方向を虚数とする複素数の式として表現することができるため、研究内容によってはやはり使われることもあるようである。
しかし自然現象によって視覚的に説明のつく実数という概念に対して、現象として視覚的に説明のできない虚数と言う概念は、多くの人間には到底理解できない代物であると言わざるを得ない。
こんなにも利用価値のある複素数を、それを学ぶ多くの学生たちによって、存在しない数ならそんな概念自体存在する必要なんてないじゃないか、と否定されてしまう。複素数とはそんな、儚くも悲しい存在なのである。
そう、いつの時代もコンプレックスなどと言うものは、常に周囲の多くの人間によって否定されるべき悲しき存在なのだ。
ましてやコンプレックスに陥る本人自身によって、自分はコンプレックスになど陥っていないんだと自己否定されてしまうのが、コンプレックスと言う概念なのである。
複素数とは、実数 a と虚数 b によって成り立つ数の概念である。
コンプレックスとは、現実 a と虚構(妄想?)b によって成り立つココロの概念である。
このとき虚構を表す心のベクトル b は単位 i によって説明される。そう、人の心の中で疼く儚き一方的な想いは、常に人間の身勝手な「アイ」によって説明されるのである。
つまり、人間とは他人をアイしアイされながら、なおも他人の一方的で身勝手なアイを疑い、否定し、さらには軽蔑し、忌み嫌ったりもする、そんな動物なのだ。
コンプレックスをもたない人間も存在するかもしれない。
しかしできることなら私は、コンプレックスをもたない人間は存在しないと思いたい。
コンプレックスのない心に、アイは存在しない。
アイのない人生ほど、無味乾燥で、つまらないものはないんじゃないか。そう思うのである。
そして、そのことは、実はほとんどの人間が、否定しながらもおのずと気付いていて、知ってしまっていることなのではないか、とも思うのである。
しかしそれでも実態は、コンプレックスを否定する風潮が、この社会には根付いている。
コンプレックスは欲望を生み出す。満たされない欲望はストレスを生じさせる。鬱積したストレスは人を犯罪行為へと走らせる。そのことによって、特定の人間に身体的、精神的、社会的、さらには物質的損害をも与えることになる。
だからほとんどの人間は、自分の中のコンプレックスをココロのどこかで認めつつも、それを頭の中では否定し、そしてそのことで思い悩んでいる自分を、必死になって隠そうとするのである。
自分の中のコンプレックスが他人に知れれば、自分にとってその愛しき存在の多くは、自己防衛のために自分を避けるようになり、それがひいては社会的自己迫害にも繋がりかねないという本能的危機意識が、自分の中のコンプレックスを隠蔽させる。そういうものなのではないだろうか。
しかし、しかしである。もしも世界中のすべての人間が、コンプレックスを抱く人間の心理状態を理解し、コンプレックスを抱く人間を正しい姿として認めることができたならば。そして、誰もが自分の中のコンプレックスをさらけ出し、さらには他人の持つその人特有のコンプレックスを容認することさえも許されるならば。
そのときには、コンプレックス(現実+虚構)は、真実へと昇華し、そして人間の抱く一方的で身勝手なアイは、あらゆる概念をも抱き受け止める、真の「愛」へと生まれ変わるのではないだろうか。
人が人を素直に愛し、そして愛されることを素直に喜べる。そんな時代が訪れることを、私は願って止まないのである。
ところでどうでもよい話ではあるが、近年たびたび盛り込まれてゆこうとする、表現規制に携わる法律の数々は、人々から毒を抜き取り、コンプレックスを抹消する方向へと向かっているように思えてならない。
毒のない世界が生むのは、ある特定の意思や想いに対する社会的な総アレルギー状態であり、そのことが他人との自然な交流をも否定しようとする「孤独な集団」を作り上げ、さらには各個人の自信喪失、そして全国民的引きこもり現象をも誘発してゆくことに、世の有識者とやらはいつになったら気付いてくれるのだろうか。。。