2001年6月7日(木曜日)


 昨日、帰りの電車を降りる津田沼駅で、M・ばれーバイト時代に某コーナーのコーナーマネージャーをやっていたT氏とばったり遭遇した。
 某PCパーツメーカーに勤めている彼はいたって元気そうで、気さくに私に声をかけてきた。私は相変わらず適当に相槌を打つばかりだったのだが、かつて上司だった人とはいえ久しぶりの再会というのは相手に関わらず悪い気はしないものだと正直に思った。

 ところで今朝、小一時間遅刻する勢いで出勤途中、水道橋駅を降りたところで上司のK氏とすれ違った。もちろん上司とは自分の会社の上司のことだ。私はこの人の通勤経路が水道橋で乗り換えがあることを知らなかったので正直かなりあせったのだが(だって遅刻だし)、それ以上に彼のあまりにも思いつめたような表情が妙に印象に残った。
 あの顔を見たとき、「今日何かあったのかな?」と考えるのではなく、「この人でさえ普段はこんな神妙な顔で通勤しているのか」と思ってしまった自分の、未来はいったいどこにあるのだろうか。


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 サトリ

ジャンル:フィクション
危険度:中

 2週間分溜めてしまった洗濯物を干し終わったら、世間はもうお昼の時間とやらになっていた。日曜日にしては珍しいくらい早起きだったのに、結局今日もこの時間まで飯を食っていない。それどころか歯も磨いていないし顔さえ洗っていない、そういえば夕べは風呂も入っていなかったりする。何しろ先日購入したゲームソフトが妙に面白いものだから、ふと頭の中が空白になる時間にぶち当たってしまうと、まるで中毒のように、いや、ようにではなくてまさに中毒なのだが、おもむろにPCの電源を入れてはゲームを起動させてしまうのだ。今朝の目覚めがまさにそんな、空白のひとときだった。そのうえ夕べから偶然見つけた裏モノビデオのムービーデータをダウンロードしていた関係でPCの電源は入れっぱなしだったので、寝起きからゲームプレー開始に至る諸動作が実にスムーズだったのだ。それで結局2時間ぐらい時間を潰して、思い出したように洗濯機のスイッチを入れて、またゲームの続きをはじめて、洗濯が終わっても1時間ぐらい気づかなくて、それでやっと洗濯物を干し始めて、いまやっと一通りの作業が終わってほっと息をついたところだったのだ。
 ゲームばかりやっていると気づかないものだがちょっと一仕事入れるといろんな感覚神経が活発に仕事を開始してくれる。だからさすがに腹が減って、飯を食うために外へ出かける準備をした。風呂は今更あきらめるとして、とりあえず顔を洗い、ドライヤーで髪を整え、シャツだけ着替えて財布を持ち、ハーフパンツにサンダルという出で立ちで部屋を出た。
 歩き始めながら頭を回転させ始める。そういえば昨日の夜はけんたで揚げ鶏肉を食った。昼はむくどでひき肉のサンドイッチと揚げジャガイモを食った。その前の晩は帰りが遅くて、深夜も営業しているまつやの煮牛肉ぶっ掛けご飯を食った。そして、いつも昼飯を済ませる通りにはこの3つぐらいしかネタがない。いや、ファーストフードじゃないレストランならいくつかあるのだが、この格好で一人ではいるのは気が引ける店ばかりなのだ。
 少し考えて俺はそのまま駅へと向かった。定期を持ち出してきたのは正解だったかもしれない。そういえば仕事の関係で参考書を買いに行きたいと思っていたところだった。空腹を小一時間我慢することにして、アキバまで買い物に行くことにした。

 次の快速より10分早く出る各駅の一番前の車両に乗り込んだ。電車は思った通りに空いていてシートの端っこに座ることが出来た。とりあえず横のしきりに倒れこむように寄りかかって目をつぶる。しかし夕べは比較的よく眠れたからなのか、そうやってもあまり眠気はやってこなかった。
 結局2駅ぐらい過ぎたところであきらめて目を開けると、向かい側のシートに、しっかり正面を見据えて座る少女の顔が目に入った。ちょっとダサ目な花柄のワンピースが、しかし妙に似合う白い肌の少女だった。見た目おそらく高校生じゃないかと思う。
 少女はじっと正面を見詰めていた。正面には俺がいる。彼女は俺のことを見ているのだろうか? 端整な顔立ちでなかなか好みなタイプなだけに、心底どぎまぎするものがある。
 俺はなんとなく気恥ずかしくなって、あえてあまり目線を合わせないようにした。目をつぶってしまえば楽なのだが、眠くない明るい昼間に目をつぶってじっとしていると言うのは結構体力がいるのだ。何気なく、天井に視線を泳がせる。車内の天井をにぎわす宣伝ポスターを一つ一つ眺め回す。何か注目に値するような情報がないか、一つ一つ入念にチェックする。
 最近創刊されたコミック雑誌の宣伝ポスターにふと目が止まる。子供の頃読んでいた漫画と同じ、懐かしい絵柄が踊っていた。だから俺は、なんだか無性に腹が立った。
 最近は子供の頃から読んできたコミック雑誌をつまらないと感じるようになった大人のための、過去の遺物を再現していたずらに注目をひきつけようと言う商売が流行りのような気がする。過去の作品の復刻版を出すならいい。しかし、今更過去に終わった物語の続きを読みたいとは思わない。それでもその続きを思い描くのが読者の手によってであるならばまだ許せる。原作者が、終わらせた作品の続きを書くのは怠慢じゃないかと俺は思うのだ。往生際が悪いというか、わざわざ汚点を残していると言うか。常に新しい世界観を築き上げる挑戦から諦め、まるで現実の結婚生活にうんざりし、初恋に燃えた青春時代を回顧しながら屋台のおでん屋で涙酒浴びるどこかのおっさんみたいに鬱陶しく感じるのだ。
 なんてことを思いながら、心の中でそのポスターに名をはべらせている漫画家たちに悪態をついていたら、ふと正面から冷たい視線を感じた。
 視線の方に目をやると、少女の目つきが先ほどまでとは明らかに変わっていた。これは多分、もしかして、俺のことを睨みつけているんじゃないだろうか?
 しかしそう思って彼女の顔をぼんやりと見返していると、今度は一瞬何かを思い出したような、あるいは我に返ったような、あっけに取られたような、そんな顔をしたかと思うと、何気なさを装いたげなわざとらしいそぶりで天井を見やり、そしてさっきまで俺が眺めていた漫画雑誌の先天ポスターをまじまじと眺め始めた。

 この漫画、好きなの? と、ためしに俺は心の中でつぶやいてみた。
 少女の表情にこれと言った反応は見られない。

 面白い柄のワンピース着てるね? と、今度はつまらないことを口に出さずに尋ねてしまった。
 また睨まれるかと思ったが、それでも少女の表情にこれと言った反応は見られない。

 ……無視しなくたって、いいじゃん。俺は相変わらず頭の中だけで、そんなことを、誰かに話し掛けるような口調でつぶやいてみせる。演技ではない。俺の中ではもうそうとしか思いようがなかった。多分彼女は、俺の頭の中で考えていることが聞こえてしまうのだ。いわゆるサトリとかいう。。。

 話し掛けるのは諦めることにして、俺は再び視線を電車の天井に向けて泳がせ始める。今度は天井の宣伝ポスターにはめもくれず、本当になんとなーく天井を眺め回した。
 腹は減っているが、眠くはなかった。むしろ頭の中は比較的すっきりしている。何より今日は天気が良くて非常に清々しい。こんな日にあれこれ考えるのはやめようと思った俺は、今度は頭の中でリズムを取りながら、即興でフュージョンのメロディーを奏で始める。
 今回の楽器編成はこうだ。まず4リズム楽器はドラム・ピアノを中心に軽快なリズムを奏でる。前奏の旋律はオルガンのソロによってまず奏でられる。はじめにサビが入って、そこでブラス隊がアンサンブルでテーマを乗せる。導入Aメロはやっぱりギターソロで攻め、サビ前Bメロは清々しくアルトサックス、サビのアンサンブルに追っかけのオブリガートでトランペットが朗々と激しくソロを浴びせ掛ける。
 トランペットの激しいソロを演奏しながら、ふと正面に視線を送る。目の前の少女は相変わらずどこを見るともなく、なんとなく斜め上方に視線を泳がせている。しかし俺にははっきりとわかった。
 少女はそっけなくしているように見せかけながら、ひそかに俺の奏でるメロディーに合わせて右ひざでリズムを刻んでいたのだ。
 いやあるいは単に俺の目が勝手にそういう風に見えてしまっただけかもしれない。とにかく、心の中で声を大にして「か、かわいい〜っっ」と叫びたくなる衝動を必死にこらえつつ、俺はさらにメロディーを奏で続けた。華麗なるピアノ・ソロ、パーカッションだけをバッキングに唸るチョッパーベース、王道的な展開でこれでも勝手くらいにソロ演奏を堪能しまくった。頭の中で。
 そう、別に口に出して歌っているわけではないのだ。確かに素振りは俺の体にも多少出ているかもしれない。逆にいえば頭の中だからこそ、思いつく限りの楽器を混ぜこぜに持ってきてバンド演奏させることも出来る訳で。
 そして、だけど誰も聞こえていないはずの、俺の頭の中の演奏にノッて、ひざでリズムを刻んでいる少女が目の前にいた。俺はそんな目の前で起こっている異常事態が妙に嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。こんな不思議な体験が出来たこともそうだが、それ以上に自分の思い描く音楽に、こんなに敏感に反応してくれているということが何より光栄だったからだ。

 頭の中ですべての演奏が終わり、心が静かになった。それで目の前の少女はふと、俺の方に視線を向けた。当の俺はと言うと、さっきからずっと彼女の顔を見据えている。
 少女はそれで観念したような表情で赤面した。俺は頭の中では特に何も言わないでおいた。ただ、なんとなく面白くて、思わず笑顔になった。少女は恐らくそんな俺の表情を見つけて、気恥ずかしげに下をうつむいてしまった。

 電車は今やっと、市川に到着したところだ。