2001年4月19日(木曜日)


 来週はネタ帳を書きます。2週連続ゴミ出しとかやったら今度はゴミ出しするネタがさっぱりなくなってしまいまして(^_^;)。一応29日にM3に行ってくるんで、来月頭にゴミだし、も不可能ではないのですが、多分ゴミ出し4月号はそのまま休刊、5月号にそのネタはまわされる形になると思うです。
 あとそれから、5月の3〜5日は実家の人々に付いていって温泉旅行に行ってきます。いちおう、タダで旅行が出来る(あとで請求されたりして^_^;、親父の誕生後祝い&妹の誕生前祝い&両親の結婚記念&アニキのケガ復帰祝いを兼ねてという異様にめでたい名目がついてしまっている(おいらだけ祝いの名目がなかったりするのがなんともらしいというか;_;/、なんと言っても温泉であるというかなり強引な3本立てではある。おいらの性格から言ってこういう誘いは正直乗り気がしないことが多いのですが、今回はこの「温泉」という言葉にヤラレマシタ。。。疼いてる。。。心身ともに温泉を求めてるよ。。。じじぃになったな、ヲレも。。。(;_;)/


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 先輩

ジャンル:実話
危険度:大

 高校1年のときの話である。毎年全国大会までコマを進める市立習志野高校吹奏楽部はその年のコンクールもシード権を持っていて、県大会は本選からの出場だった。コンクール予選で結果発表の際に客演として彼らの演奏があり、私はそのとき初めて、全国高校レベルの演奏というものを耳にしたのである。
 言ってみれば当時の私は吹奏楽人としては初心者だった。今現在、何か初めてのことに挑んでいるものがある、という人には、当時の私の心境はわかっていただけるのではないかと思う。初心者の感性というのは素直なもので、やはり一般に評価されるものに対しては特に疑問を抱くこともなく感動できてしまうものなのである。
 で、そのときの私も当然のように彼らの演奏に感動し、そして口に出して、「やっぱり全国レベルは違うなぁ」と漏らした。本当に素晴らしい演奏や舞台に出会ったときに感じる、背中にゾクゾクっとくるような感覚は得られなかったものの、高校生レベルで彼らのようにこのままずっと聴いていてもいいな、って思わせてくれるような演奏が出来る学校はなかなかなかったんじゃないかと正直今でも思っている。
 ところが、そんな私の感想に対して口をはさんだ先輩がいた。彼は私の言葉を聞くや否や、すかさず「今の曲のメロディー、歌ってみろよ」と言ってきたのだ。純情無垢だった(つまり、おばかさんだった)当時の私はそのとき一生懸命、たった今市立習志野高校吹奏楽部が演奏した曲のメロディーを思い出そうとし、そして思い出せないことに気がついてしまった。先輩は、そんな私の様子を満足げに見やりながら、フンッ、と鼻で笑った。

 当たり前のことなのかもしれないが、そのとき彼らが演奏した曲の曲名さえ、今は覚えていない。それどころか、とても自慢げになんて言えることではない、むしろ恥に思うべきことだが、私は自分が定期演奏会やコンクールなどで実際に演奏したり身近に関わってきた曲でさえもその多くのタイトルを既に忘れてしまっているくらいだ。自分の記憶力の弱さを十分に認識している今だからこそ言えることだが、そんな私がはじめて耳にする曲のメロディーを、たった1回で覚えることなど、到底不可能なことだ。しかもそれが「かえるの歌」並に単純明快なメロディーであるならまだしも、客演とはいえコンクールの舞台にチョイスされるような楽曲のメロディーがそんな簡単なものであるはずがないのだ。
 しかしそのときの私は、メロディーが思い出せないのは自分にとってその演奏がそれほど印象深くはなかったからだ、と結論付けてしまっていた。そして多分その先輩も、そういうことが言いたかったんだろうと思う。しかしその後、何度か演奏会などに足を運んでみたり、あまり一般的ではないいろんな音楽に触れてみたりして行くうちに、実は素晴らしい演奏だったからといってそれが必ずしも印象深いものであるとは限らないこと、そして演奏がよいからといって作品までもがよいものになるわけではないことに気が付いていく。私が作曲に興味を抱くようになるのもそのぐらいの頃からだったと思う。

 話はこの先輩に戻るのだが、多分吹奏楽部時代の関係者も何人かこのページを読みに来ているはずなので、非常に書きづらい、とても声を大にして言えるようなことではないのだが、正直私はこの先輩に対してはあまり良い思い出がないのである。
 具体的にどんなことがあったのか、を書くより、どんな人だったのか、を書いたほうが話が進めやすそうなのでそうすることにしよう。まず、彼は典型的な権力主義者だった。…いや、そう書くと多分本人は真っ向から否定すると思う。彼は自分では常に実力主義を通していたし、確かにあの部活のあのメンバーの中ではそれは嘘ではなかったと思う。当然だ、あの中では常に演奏の実力がそのまま権力だったからだ。
 中学のときから楽器をたしなんでいた彼は1年の夏には既にレギュラーメンバーとしてコンクールに参加していた。しかし県大会本選の後、不慮の事故(。。。さすがに彼の名誉のためにこればかりはそういう事にしておいてあげたい)のために右腕を骨折してしまった彼は関東地区の大会には出場できなくなってしまった。
 彼が出場できなくなったためなのかどうかは定かではないが、その後、彼の所属するパートに対して、ある決定が下された。すなわち、コンクールで演奏する曲で、特に彼らのパートがメインになる部分が、関東大会ではカットされることになってしまったのだ。そして、そのことについて、同じパートの彼の先輩だった人が、彼に対して頭を下げたのである。何でその人に頭を下げる道理があったのかはよく知らないが、いちおうこの話は彼が私やいろんな人に自慢げに証言していた内容を大体そのまま書き記してみたものである。
 そしてそんなことがあってから、彼は少なくとも同じパートの先輩に対してはかなりぞんざいな態度を取るようになったらしい。私が多くの先輩に対してぞんざいな態度を取っていたのは単に礼知らずなだけだが、彼は私のような礼知らずではなかっただけに、実に計算高い人間だったな、と今では思ってしまう。
 こんなこともあった。これも私がまだ高校1年生だった頃、ある合奏練習の日、私は風邪を引いていて、酷く咳き込んでいた。あの高校の音楽室というのはとても埃っぽくて、合奏のときは防音のために部屋中毛布を敷き詰めていたものだから余計埃っぽくなっていたものだ。
 当然のごとく私は咳をした。演奏中はさすがに我慢するようにしてはいたものの、指揮者である先生が演奏についていろいろと指示を出している間も私は、周りから見ればオーバーアクションではないかと取られるほどに酷く咳き込んだ。
 合奏の後、その先輩は私を廊下に呼び出し、胸座を掴んで脅しをかけた。事なかれ主義者の私はそのとき腑に落ちない顔をしつつも素直に謝ったような記憶があるが(違ったかなぁ)、そのときも今も、そのときの私があんなふうに怒られなきゃならない正当な理由があったようにはどうしても思えないのである。
 当時指揮棒を振っていた顧問の先生というのはいわゆる名コーチというやつで、彼が指揮棒を取ると演奏にはみるみる箔がつき、そして部員も音楽がよくなるものだからますます自信がついてやる気が出てしまい、そういった好循環をバンドにもたらすことの出来る実力とカリスマを持った人物だった。しかしそのことが災いしてか、私が入ってきた当時は部員の間に一種の倦怠感のようなものが生まれてしまっていて、この人のおかげで私たちは県代表でいさせてもらえる、みたいな、ある意味崇拝にも似たような感情が彼らにはあって、その念が嵩じて挙げ句の果てには「この人には逆らえない」的なありもしないプレッシャーにさいなまれ、それがゆえに一方では不当な理由で陰口をたたかれたりもしていた。部員たちの思い込み(っていうのかなぁ)が、この人をして一大権力者という虚像を作り上げてしまっていたのだ(と、少なくとも今の私はそう解釈しています…当時の私も先生が絶対的な権力者という風にはちっとも見えていませんでしたよ)
 で、当然あの先輩もこの先生を完全に崇拝しまくっていた一人だった訳で、結局はその日私に飛ばした怒りの檄も、彼の権力主義的性格によるものだったんかなぁとか思ってしまうとすんごくげんなりしてしまう思い出の一つだ。
 先輩の人生における計算高さを象徴する出来事といえばやはり某大学を学校推薦で合格したことだろうか。決してレベルの高い大学という訳ではないが、彼と同年代の先輩諸氏は誰もが、彼の学校推薦について首をひねっていたのは事実だ。

 あんまりいやな思い出ばかり書くのもどうかと思うので(さりげに失礼^_^;、よい先輩の思い出も書いておきたいと思う。
 その人はOB、いや失礼、OGの先輩なのだが、私が高2のときに音楽教師の教育実習生としてやってきて、そのままその年のコンクールの指揮者を引き受けてしまい、指揮は専門外のはずなのに当時顧問だった先生をはるかに凌ぐ指揮者ッぷりで見事に指揮棒を振りつづけたというツワモノである。
 金管パートの人で、その前からよく金管パートの面倒を見には来ていたのだが、当時の金管パート現役部員の間ではとかく権力者として名が通っていた人で、女性ながらに抜群の発言力を持っていた。その発言力たるや、当時いっしょに音楽の授業を受けていたやはり金管パートの某氏(部長だった方^_^;が授業中顔面を蒼白させ、そして彼女(先輩ね)が反応の悪い生徒相手にイラつかせて見せるたびに、ますます緊張して縮みあがってしまうほどだ。後に彼女はそんな某氏の反応をひそかに面白がっていた、と話している(笑)。
 そんな彼女だから指揮棒を取ったときの発言力たるやそれはそれはもう迫力モノだったワケだが、私個人的には指揮棒を振っていたときの彼女よりも、ソロコンに向けて指導してくださったときの方が印象深かったので、そのときのことについて書こうかと思う。
 私にソロコン出場を勧めたのもまさに彼女だった訳だが、それ以前に男子は全員出場を強制していたのも確か彼女だったような気もする(^_^;)。お世辞にも打楽器奏者として実力があるとは言えなかった私にとって、選択肢としては一番ごまかしの利く鍵盤打楽器しかなかった訳だが、とりあえずソロ演奏につかえる曲の楽譜というのがなかなかなくて(そりゃあ買えばあるけどさっ)、結局たまたま1つだけ楽譜があったソロ用の曲で出場登録を済ませたところで、その曲がまたものすごい細かい音符のオンパレードで、先にも書いたとおり記憶力のない私にとってこれを残りの2週間でどうにかしろっつってできるもんかいなぁとか初っ端から不安になっていた訳だが、そんな折にこの先輩、「村山にどうしても演奏ってみて欲しい曲がある」と言って、1冊の、教則本のような楽譜を私に差し出した。
 それは、バッハの無伴奏チェロ組曲というやつで、実際に多くの音大で、打楽器を学ぶ新入生がマリンバの練習用にやらされる曲なのだそうだ。
 当初やらなきゃならなかったかもしれない、それこそ曲名すら覚えていない(笑)曲と比べてもとりあえず音符の並びからして小難しそうな雰囲気は薄く、これなら残り2週間とかでも何とかなるかも!と少しだけ自身が沸いてきた訳なのです。
 ところが休日をはさんで約5日にわたる風邪を引いてしまった私、まだ3日ぐらいしか譜面をさらっていない、と言う状況で、先輩の発案による小リハーサル。実はこのとき既に、バッハのこれらの楽曲に譜面づらだけで虜になっていた私(本当によいメロディーだと、他人の演奏を聴くまでもなく譜面を見るだけで、あるいは少し譜面をさらってみるだけでどうしようもなくその曲が好きになってしまうことって実際結構あるんです)、圧倒的に練習日数が少ない訳でまともに演奏できる自信はちっともないのですが、それでもこの音符の並びから感覚的に感じるものをなるべく盛り込んで演奏してみよう、そう思いながらリハに挑んだ訳であります。
 リハといっても別に鑑賞者を大勢集めてどうすると言う訳ではなくて、どちらかと言うと先輩による個人レッスンと言う感じだったりして、むしろ演奏時間を計った上で演奏スケジュール(繰り返しの有無とか、部分的にカットしたりとか)を設定するのが主目的なのですが、それでもこの先輩を前にして本番のつもりで演奏すると言うのは、(特に金管パートの人にとっては)かなり緊張するもので、私も例外なくそれなりに緊張していたと思う。
 で、演奏終わって。もちろん練習不足ということもあって、お世辞にもまともな演奏とはいえなかったが、それでも先輩は私の演奏をそれなりに評価してくださった。何を評価してくれたのか。まず、演奏終わって、最初にしてくださったアドバイスが、「やりたいことはよくわかるんだけど、もっともっとそれを大げさにやってみてごらん」だった。で、それ以上のアドバイスと言うのは実はそんなになかったんだけど、いろいろと指導してくださいまして。指導を受けながら、そのとき初めて先輩の背が自分より低いことに気がついて、そのとき初めて先輩を女性として意識するようになったのはヒミツですが(笑)。
 そして最後にこう言ってくださったんです。「村山は、音楽がわかってる」って。
 果たして私は信じられないことに市の大会を通過し、県の大会で部門1位を獲得してしまう訳ですが、そんな事実やそのときの審査員方のコメントよりも、何よりも先輩のその一言が、私には一番嬉しかった。

 私は多くの先輩方から、いろんなものを学び取って現在に至るのだと思っています。たとえそれが、良い意味での影響であれ、反面教師であれ、あるいは悪い影響なんてのも多少はあるのかもしれないけど。そういったかけがえのない思い出が、今の自分を形成しているのは紛れもない事実です。そんな、今の自分が、お世辞にも立派な人間になっているとは言えなかったりもしますが、それでも今を何とか生きていられるのは、絶対にこの人たちのおかげでもある訳で、そう思えば思うほど、感謝せずにはいられない訳なのであります。