2001年1月25日(木曜日)
去年の暮れに買ったうどんがまだ手もつけられずに冷蔵庫の中に眠っている。。。去年の夏に買ったメンマが2瓶、片方は開封済み、もう片方は開封すらされずに冷蔵庫の中に眠っている。。。去年の春に買った梅干しが中途半端に残ったまま冷蔵庫の中に眠っている。。。そして明日は給料日。
気がつけば、私もそろそろ23だったりする。今年度に入ってからまだ一度も体重計に乗っていない。そういえば社内割引で購入を予約した例のはがきツールもまだ引き取りに行っていない。なんかとりとめない文章だな(苦笑)。
つまりこういうことだ。いくら残業しても仕事が進まないときに夜更かしして苦しんでまでこんなことをしている必要はないということだ。でも必要はないというのは、例えばファッションデザイナーが「流行はなくても生きていける、でも流行がなければ生きている意味がない」とか言っているのと同じで、それでもやりたいならやればいいのだ。それだけのことなのだ。
だめだ、何かいいたいような気がするんだけど、何を言いたいのかいまいち整理がつかない。
ジャンル:独り言
危険度:小
怪人=悪とか、モンスター=悪とか、バイキンマン=悪とか、私たちが子供の頃は正義の見方と悪の見分けが単純で非常に分かりやすかったような気がする。最近は純粋に子供番組でさえ、その単純な配役設定だけで押し通すような作品は少なくなって、モラルに対する考え方がどんどん繊細になっていっている。悪い人なんて一人も出てこないのに何故か起こる不思議なことに立ち向かい闘う少女のお話や、人斬りを辞め、人を切れない逆刃の刀を腰に差し、流浪にさすらう剣客のお話、古代遺跡の眠りから甦ってしまった特殊な力をもつ怪人達の殺戮への欲求から、「みんなの笑顔」を守るために本当は振るいたくない拳を、心に涙して振るい通した一人の冒険家のお話など、物語の中で、キャラクター同士の閉じた因果関係をしっかり描いた、それなりに物語性の高いお話が多くなってきた気がする。
個人的には、この流れはとても喜ばしいことだと思っている。「死」との対面。「正悪」の定義。「いじめ」と「勝負」、「躾」と「虐待」、「喧嘩」と「戦争」の区別。恐らく子供たちが、普段何気なく接している漫画やテレビ番組の中で、そういった、いつか触れなければならない基本的なモラルに対する議論が自然になされること。それはとても大切な事だと思う。
メディアに「存在意義」はない。言い切ってしまうのは危険なことだけど、メディアが存在しない時代でも、人や動物は生きていたのだ。でも、人間が社会を形成する動物である以上、交流は避けられないことだ。そんな時彼の人が、特定の人間や人種、種族を指差して、「あいつらは悪いやつだ」とわめいたとき、それを鵜呑みにして同調し、共に指を差す集団の中で、孤立する結果になっても物事を慎重に観察し、見つめられる心を、私たち世代の人間はどれだけもっているだろうか。あるいは私たちより上の世代の人間は?
案外こういった、正悪に対する同調意識というのは、世代が古くなればなるほど根深い物になってしまうのではないかと思う。逆に言えば、世代が新しくなればなるほど新しい考え方が生まれて、ある世代からは女性差別が少なくなり、またある世代からは肌の色など偏見の対象ではなくなり、更にある世代からは、パソコンが単なるオタ君の遊び道具ではなくなっていたりして、そうやっていくうちに、誰が悪い、何が悪いということに対する目安が、目に見えて区別しやすい対象からは外れていき、いつ誰が何をしでかすかわからなかったり、そうしたことが本当に良いことなのか悪いことなのかの区別さえ、誰もはっきりと判断できなくなったりして言っているのではないだろうか。
わかりにくくなっていることが良いことなのではない。
ただ、明らかに一昔前までの常識や、更にその前までの常識で間違っていたものは存在したな、ということは言えるのだから、その分人間が成長しているんだなと思えばそれはそれでとても前向きな考え方であるとは思うのだ。怪人だから倒していいとか、魔族だから殲滅すべきだとか、黒人だから見下していいとかいうのではあまりにもナンセンスなのだ。逆に、あの人はエリートだから大丈夫とか、あの銀行は一流だから大丈夫とか、あの人は肉親だから心配ないとか、必ずしもそうはいえないことに対する警戒が、少しずつ高まっていっているのも事実だ。
傾向と統計だけが全てを語る訳ではない。
そんな時代の中で。
そんな時代の中で、人間ばかりが利口に?なって、作品がその時代に適応しないはずがないのだから、この流れは当然のことともいえるんだけど、そのことが個々の作品に新しい価値観を植え付けていることは特筆すべきじゃないだろうか。
元々、この手の物語の王道は、まず悪が存在し、人々が困ぱいもしくは絶望し、そんな中で現れた救世主つまり正義の味方が、悪を殲滅すべく立ち上がる。その、最後の結果に繋がるまでの辛い道のりとやらがいかにして描かれようと、この展開だけは譲れない。絶対に譲れないのである。ある物語では正義の味方はずるがしこいかもしれないし、また別の物語では正義の味方は純粋でまっすぐかもしれない。しかし作品の個性はあくまでそのレベルで描かれる。人物を描くことは物語の基本なのだそうだが、人物を描くまでで作家の仕事は終わり、というのがかつての正義モノの基本的なスタイルだった。物語自体は自分で考えなくても、ある意味既に出来上がっていて、用意したキャラのキャラクター性に任せて筆をあそばせておけば作品は出来上がるという寸法だ。それなりに人気も出るし、非常にコストパフォーマンスの高い仕事ではある。
しかし、そんなありきたりの展開が許されない現代において、正義の味方を描く作家にひとつの大きな課題が課せられるようになった。それは、その物語を描く作家本人が、人間のモラルということをどのように捉えているのか、そういった根本的な思想を主張に変えて、作品の中で訴えかけなければならなくなったのである。読者はそこに織り込まれた思想が自分の思想とあっているかどうかで作品を選ぶのではなく、そこに筋の通った思想がどれだけ形になって物語を形成しているかで作品を選ぶのである(多くのSF作家は古くからそれをやってのけてきたわけなのですが)。そんな面倒な作業やってられるか! とヘソを曲げて多くの作家が流行りのミステリーやスポコンに流れていったのはいうまでもない事実だ。
人の考え方などというのは十人十色なのであり、ある人は笑顔が全てといい、またある人はエコロジーこそ正義といい、またある人は人には人それぞれの正義があるなどと語り、人間じゃない奴もいる、という人もいれば、モンスターとも仲良く過ごせるような世の中であって欲しい、という人もいる。そういうそれぞれの考え方が、そのまま作品の個性になってくれているおかげで、最近はどの作品を見てもそんなに飽きることなく読めてしまえるものが増えていると思うのだ。
ただ、そんななかで、かつての正義と悪の構造を利用した痛快なギャグマンガを見つけてしまったりすると、それはそれで唸ってしまうのではありますが。。。ぱいんとか。。。