2000年7月20日(木曜日)


 味噌汁を作った。味噌汁を作るのは久しぶりのことである。前回味噌汁を作ったときに使った残りの大根が、葉っぱが変色してびちゃびちゃになってしまうくらい久しぶりだ。いや、この大根が味噌汁を作るのに使用したものであるならば、イの一番に葉っぱを使うはずだ。そういえばこれはメカジキのあらを煮物にするときに使った大根だった。だとすればその大根を使うよりももっと前に作ったのが最後なのだから相当の月日がたっていることになる。
 大根は葉っぱ以外は大丈夫そうだったので葉っぱだけ捨てて残りの半分を千切りにして味噌汁に入れた。私は味噌汁を作るのにちゃんと煮干しを使って出汁を取る。別にインスタントの出汁を否定するわけではないが、煮干しを煮込む程度の手間がインスタントにすることによって激的に楽チンになっているとはとても思えないのだ。そんなに横着したいなら初めから味噌汁なんぞ作らずに、お湯を注ぐだけのやつを使っているだろうし、もとよりよっぽど余裕のあるときでなければ味噌汁なんて作らないのだ。ましてや出汁入りの味噌なんて他の料理に応用が一切利かなくなってしまってまるでダメなのである。
 ところで夏場の味噌汁には要注意である。味噌を使っているから日持ちがよさそうに見えるが、煮立って繊維の緩んだ大根などの野菜、だしが抜かれてシオシオの煮干し、野菜以上にでろでろにとろけているワカメは菌類や細菌類の格好の餌食なのである。
 私なんかは器用に1回分だけを作るような真似が出来ない人なので、味噌汁を作るときは大体一気に4回分ぐらい作ってしまう。そうすると、たとえ今日はどうしても味噌汁を食べる気分になれないんだ!という日であっても必ず朝晩一日2回はじっくり火を通さなければならない。しかも白味噌はあまりぐらぐら沸騰させると変色して味が悪くなってしまうので、コトコト煮立っているぐらいの火加減をうまく調整してそれなりに長時間(最低6分)煮立たせなければならない。これが結構大変な作業なのだ。
 しかしそれを怠れば結果は目に見えて無残なものとなるであろう。出来ることなら味噌が腐って醗酵する匂いだけは嗅ぎたくないものである。


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 選択肢

ジャンル:フィクション
危険度:小

 嶋田浩子の調子が悪いのは誰の目にも明らかだった。本来の彼女ならこんなところで、と思うようなミスを何度も繰り返した。合奏練習でホルンパートが加わる部分はしょっちゅうつまずいてしまっていた。
 今日も合奏練習は散々だった。指揮棒を振る顧問の水谷先生はついに怒りを露にした。しかし水谷先生が、「嶋田、おまえは今日も音程は合っていないし音は揺れるし、どうでもいいところで間違えるし入るべき場所で入らないし、おまけに繰り返しはしないと指示した場所で一人で繰り返す。いったい本気でやる気あるのか?それで合奏に参加しているつもり?何とか答えたらどうだ?」と問い詰めても、嶋田はただただじっとうつむいているばかりで、返事すらしようとしなかった。それでしかた無しに、水谷先生は指揮棒を置き、今日の合奏を中断してしまった。

 コンマスの指示でその日の残りの時間はパート練習に割り当てられたが、俺と嶋田しかいないホルンパートはその日は必然的に個人練習になった。嶋田は俺の一つ上の先輩で、だから俺から切り出してパート練習にはしにくかったし、こうなってしまってからの嶋田先輩はあまり俺に構ってくれることもなくなってしまったのだ。
 部活終了の時間になって、次第に楽器の音が学校から消えていった。楽器を片付けてみんなが次第に音楽室に集まってきた。嶋田がいつもいっしょにいたグループは、別に何か特別なことがあるというわけでもなく、ごく自然に、何事もなかったように嶋田を迎え入れていた。誰も嶋田を心配するようなセリフは言わなかった。嶋田が明らかに調子を崩して最初の頃は、結構そういうセリフも聞こえてきたのだが。まるでそのことが嶋田を責め立てているみたいで、逆にみんなも気を使っているのだろうと思う。早くいつもの嶋田に戻って欲しい。彼女たちからはそんな気配りを感じ取れた。
 そこへ来て同じパートの俺はというと、こうなってしまってからほとんど嶋田先輩と口を利く機会がなくなってしまった。

 家に帰って食事や風呂を済ませると、いつものように俺はパソコンの電源を入れ、ハマっていたロールプレイングゲームの続きを始めた。とある町で起こるはずのイベントがなかなか起こらず、先に進めないでいたのだが、町の住人との会話でそれと匂わせるセリフをしゃべるものを見つけて、それをきっかけにやっとゲームが先に進み始めた。武器屋の娘との会話の中で、それまで出てこなかった選択肢が出てきたのだ。
 ロールプレイングゲームというのは妙なところでリアルさを感じることがある。プレーヤーキャラクターが気付いていないはずであることについては選択肢が出ないようになっていることだ。先の筋書きをある程度知っているようなゲームなんかの場合、こういう部分が結構煩わしく感じる。
 でも、煩わしく感じているのは何もゲームの中の話だけじゃないな、と、俺はふと思う。嶋田先輩のことだ。俺はあの人と二人っきりの教室で個人練習をしていても、なかなかうまく会話を切り出せないでいる。うまいセリフが思いつかないのだ。だから、会話をしない。それしか選択肢が用意されていない。ゲームが先に進まないときのジレンマのように、俺はあそこでは時が進んでいる気がしなくて辛かった。

 ここのところの俺は楽器の腕がちっとも上達しなかった。嶋田先輩があの調子で、アドバイスを受けることもなくなってしまったからだ。かといって雑誌や教本を広げてみたり、ビデオやCDを聞いて研究するほど、俺は練習熱心でもなかった。
 しかしさすがにこのままではまずい、と思った俺は、いろいろと資料をあさってみようと音楽準備室に立ち寄った。吹奏楽専門の雑誌が並べられた棚があって、俺がそれをあさっていると、部屋の奥の方で会話が聞こえた。
 いつも嶋田と一緒にいるグループのうちの何人かだった。とりとめもないお喋りを交わしていた。その中に、ふと、嶋田の名前がポロっとこぼれた。それで話題が一気に嶋田のことで持ちきりになった。
 誰かが、「シマダもねー、お父さんが死んじゃってからずっとあの調子だもんねー」と言った。
 俺は嶋田の父親が死んだことなど知らなかったので、驚いた。それで思わず彼女たちの方に振り向いて、「え、嶋田先輩のお父さん、亡くなられたんですか?」と会話に割り込んでしまった。
「あれ、堀君知らなかったの? おんなじパートなのに。」
「最近なかなか、会話しにくくて。」俺は少し照れて右手を頭の後ろにやりながら答えた。
「そっか。シマダのお父さんね、作家さんだったらしいんだけど、自殺しちゃったんだって。」
「自殺、、、ですか。」
「シマダ、いっつもお父さんの話ばかりしてたからねー。」俺に事情を説明してくれた先輩とは別の人が、そう漏らした。
 俺はなんだか頭が真っ白になってしまって、両手に雑誌を抱えたまま、音楽準備室を出た。そのまま音楽室の机の一つに腰を下ろして、雑誌をなんとなく広げたまま、しばらくボーっと思いに耽っていた。自分にとって大切な人が自殺するというのは、どういう気持ちなのだろうか。想像もつかなかった。

 しかしそれを知ったからといって、俺のシマダ先輩に対する行動の選択肢が増えたわけではなかった。相変わらず会話を切り出す言葉も見つからず、ジレンマは募る一方だった。むしろ彼女の不調の理由を知ってしまっただけに、返って彼女とは居辛かった。逃げ出したい衝動と戦いながら、とにかく無我夢中で楽器をかき鳴らした。

 調子が悪いのはどうやら俺にも感染ってしまったようだった。その日の合奏は俺も嶋田先輩も細かいミスを立て続けに連発し、水谷先生に「どうなっているんだ最近のホルンパートは!?」と罵倒されたりした。
 結局その日も早いうちに合奏は切り上げになり、残りの時間はパート練習に割り当てられた。周りの人間が楽器をケースに片付けて各パートごとの教室に移動しようとするなか、俺は一人楽器を握ったまま楽譜とにらめっこしていた。こ、こんなはずではなかったのに。と、難しい顔をしたまま。
「どうしちゃったの?いっつもあんなに練習していたのに。」
 とんでもなく意外なセリフが聞こえた。久しぶりにその声を聞いた気がした。話し掛けてきたのは、隣でもたもたと楽器をケースに収めていた嶋田先輩だった。
 俺はそのあまりにも唐突な展開に虚を突かれて彼女の方を振り向いた。あんたがそれを言うかあんたが。一瞬そんな思いが頭をよぎったが、口ではドギマギしながら、ただただ、「あ、いや、その、どうしちゃったんでしょうね、俺。アハハハハハ」と笑ってごまかすことしか出来なかった。とても恥ずかしくて、あんたのせいだよとは言えなかった。
 驚いたのは、彼女はいつもあんな調子でも、一応彼女の視界の中に俺の姿は入っていたということだった。そうでなければ、「いっつもあんなに練習していたのに」とは言わないはずだ。
 そして悔しかったのは、彼女の方からそうやって話し掛けてきたときでさえ、俺の中では行動の選択肢がやっぱり1つしか出なかったことであった。