2000年7月13日(木曜日)


 前回の「そうめん」に対して2通ほどメールが寄せられています。
 まぁ1通は別の用件のメールの最後にちょろっと、「食器は洗おうよ」と書いてあっただけなのですが(^_^;)、もう一通はどうやらまたフィクションじゃないものを書いているんじゃないかと心配してくれているメールで、鍋で発生したカビが非常に危険なものであることとかを教えてくれていました。
 一応誤解を招かないように書いておきますが、あれは一応れっきとしたフィクションなのであります。まぁたしかにそうめん茹でたままほったらかしにしていた鍋に白い斑点が付着して落ちなくて困ったのは事実ですし(^_^;)、あれを書いていた頃私がまったく仕事がなくて落ち着かない職場での日々を送っていたのも事実ですが(@▽@;)。


日付け別indexに戻る

最初のページに戻る

まるのみに戻る



 大人

ジャンル:コラム
危険度:中

 最近私は「余裕」という言葉を連発します。何かというと「余裕がなくて」と言い訳し、よからぬ事件が起こったときにも、事件を起こした人間が冷静にものを考える余裕もない世の中なのかとか考えたりしていたりするし、良い作品に巡り会ったときにも、これだけのものが作れる余裕があるなんてなーなんて偉そうな羨ましがり方をしていたりする。
 こういう、何かというと決まった単語を連想し、そこから思慮をめぐらせる癖がついてしまった人間は気をつけたほうがいい。たいていの場合、その単語に対してコンプレックスを抱いているのが原因で、例えば変質者は自分は変質者じゃない、普通の人間だ、を連発するし、おたくは自分はおたくじゃなくてマニアなんだーを連発する。「自分が子供の頃なんて」を連発するのはたいていいじめられっ子出身だし(しかもロリコンだったりするし)、何かというと誉め言葉を連発する人というのは実はその人自身が一番人に誉められたがっている欲求を内に秘めていたりするのだ。
 実際今の私というのはまさに「余裕」コンプレックスで、どんなに永い休息の時間を与えられても、まるで砂糖水をやかんいっぱい飲み干しても咽の渇きが潤わない糖尿病患者のように、心のどこかにせわしなさをいつも抱えていて、それに押しつぶされて何も出来ないでいる自分がいたりする。夕方、買い物から帰ってきて倒れ付すように眠りだし、真夜中に目を覚まして飯抜きのままメールチェックして長い返事をせこせこ書きしたため、無意味にエロサイトを回りまわった挙げ句結局朝方近くに眠りについて、昼間の1時ごろに目を覚まして頭が重くて何もする気もしなくてそれ以前に時間がもうほとんどなくて気持ちまで投げやりになってしまうような週末を送ってしまうような。そんな生活を送っておきながら、心のそこではもっと余裕を〜って叫んでいたりする。時間と体力さえあればなんでも出来ると思っている。何かというとすぐ時間と体力がないせいにしている自分がいる。

 まぁ今回は何も自分のことを書こうというわけではなくて、私の周りに結構こういう人いたなぁということについて書こうかと思うのである。みんなの周りにもいないだろうか? よっぽど何かというとすぐ、「大人」という言葉を使いたがる人。
 例えば、あの人ってなんだか大人になりきれてないよね、とか、そういう話になると、妙に弁舌に熱が加わる人。それから、「自分はまだまだ子供ですから」を連発する人。さらには自分の中に独自の「大人論」みたいなのを持っていて、「本当に大人になるということはつまりこういうことだと思うのだ」みたいなことをまるで研究生が論文を読み上げるがごとく語りだしてしまう人。
 私も一時期そういう種の人間でありかけたこともあった気もするけれど、そういう気持ちというか考え方というのは今ではすっかり抜け落ちてしまって、年月が過ぎれば過ぎるほど「大人論」を語れる人間が陳腐に見えるようになっていってしまった。私ももう若くないのだろうか。

 今の私にとって「大人」という言葉は形容詞的に使えるような言葉ではなくて、単なる現象を表す単語になってしまった。確かに個人差は否定できないかもしれないが、人は誰でも年を取れば大人になるのである。それを決めるのは性格でも考え方でも経験でも、ましてやセックスの回数でもセックスを交わした人数でもどんなプレイを経験してきたかでもない。敢えて詩的な表現が許されるなら、時が勝手に人を大人にしてしまうのだ。
 子供はいつだって親を見て育っている。親がいろいろ仕掛けたり説き伏せたりしなくたって、子供は勝手に成長するのである。これは、時にはしつけも必要だ、という議論とはまったく別次元の問題である。当然、親が子を虐待すれば、刷り込まれた虐待の記憶が形成するのは「歪んだ大人」であり、これまた結局は大人であることに間違いはないのである。
 これはつまりどういうことなのかというと、つまり大人というのはその個人が成長という名の進化を人生の中で遂げるにおいて、いわゆる一つの最終形態のことを言うのではないかと思うのである。なぜなら人はある程度身長が伸びるともうそれ以上は伸びなくなるし、体力にも絶頂期というものがある。さらには脳味噌が知識を吸収できるのも若いうちだけで、こいつに限界が訪れるのも結局は時間の問題なのだ。つまり、人間は単純な時系列的に、ある時期を境にとたんに進化しなくなってしまうのである。さらに体力は衰えてゆくわ、記憶は抜け落ちてゆくわ、体は縮んでゆくわで待っているのは退化なのだ。

 だからどんなに他人に子供っぽいだの大人になりきれていないだのわがままだの責任感がないだの包容力がないだの言われようが、それ相応の年を食っているのならもう十分に大人なのであり、しかもそいつに向上心のかけらも反省の意思も見られないようであれば、なんとも素晴らしいことに誰よりも早く最終形態なのである。やった!君が一番大人だ!(笑)

 本来議論とされるべきは実は大人になったかならないかということではない。大体いちいち議論するようなことでもなくて、社会に適応できない性格の持ち主は人に敬遠されて孤独を味わいながら死んでゆく運命なのだ。それだけのことなのだよ。
 でもそういう人間もまったく人との触れ合いに恵まれないかというとそんなこともなかったりして、必ず社会に適応出来なさそうな性格や考え方の持ち主を傍から見ていて、どうにかしなきゃと他人のことなのに必死になってくれている人とかもいたりする。そういう人間のつながりがどこかにありつづける限り、現の世もそう捨てたもんでもないんじゃないかなとか思えたりもするものなのである。あれ? ちょっとかっこよく締めすぎた?


 吹き出物

ジャンル:実話
危険度:小

 通勤の電車の中での出来事である。
 私はいつものように津田沼駅の3番線から発車する始発ではない快速に乗った。始発に乗らないのはその分何十分も前に家を出なければ座れない上に座っても足が伸ばせずにじっと縮こまっているのはそれはそれで辛いものがあるからである。それに3番線に停車する電車は進行方向左側の扉が開き、その先の駅ではずっと右側の扉が開くので、うまいこと列の最後に並べば開かない扉に寄りかかったまま目的の駅まで乗っていけるのだ。
 その日は具合のいいことに扉の縁のスペースがぽっかり空いており、座席の隅に寄りかかりながら扉の脇の手すりにつかまれる最高の場所をキープできた。しかしそのために体は進行方向側をどうしても向いてしまい、背を向けた目の前の青年の脂ぎった肢体が正面から押し寄せてきて非常に息苦しかった。青年はおそらく私より年上で、私より太っていて、ぼさぼさの髪の毛にはフケも見えたからおそらく私よりも不潔だった。青年はこの込み合っているのにもかかわらず平気で文庫本を広げていた。もちろん向こうでつり革に手をかけながら座席とのスペースを十分すぎるほど取って週刊誌を広げている中年男性ほど質悪くはないと言えるだろう。しかしそのうえ青年は非常に落ち着きがなく、脂ぎったお尻をもそもそと動かしては私の体に擦り寄ってきたり、足を踏みそうになったりしてくるので、早くもぶん殴りたい衝動に駆られ始めていた。

 私がその青年の悪意のない、しかしネチコい攻撃への対処に四苦八苦しながら辺りを見回していると、今度は私の右脇で、座席の脇の手すりにつかまってたっていた小柄な女性が、頭を私の上腕に軽く押し当ててきた。私は少々びっくりして、ついそっちに目をやってしまう。女性は目を閉じて、おそらく半睡状態なのだろう、そのままふらふらと、私のほうに少しだけ状態を預けてくる。しかし手すりが支えになってくれているおかげで、完全に私に寄りかかってくるということはなかった。むしろその、微妙に触れたり触れなかったりする感覚が中途半端に私の精神的なナニモノカを刺激してきて、煩わしいとは思わないもののなんだかやりきれない気持ちにさせる。
 顔立ちはなかなか良かったし、小柄な女性は私の好みでもあるので、悪い気はしなかった。

 ふと、一人の女性の顔に目が止まった。それは、彼女が私の視線に対してまっすぐ垂直の方向を向いていたからかもしれない。これが少しでも違う角度であったならば、私は彼女の顔に目を留めることはなかったのかもしれない。
 とてもきれいな顔立ちの女性だった。私程度の価値観で言うならば十二分に美人といえる顔だった。ただ、彼女の顔には少々吹き出物が多く出ていた。吹き出物はそれほど存在感確かなものではなかったが、おでこから両目の脇に至るまでびっしりと浮き上がっていた。
 私は、せっかくのきれいな顔を汚しているこの吹き出物に憎らしさを感じ、そして、働く女性の心労を想った。この手の吹き出物は太ったり不潔にしたりして出てくるものではない。生活習慣の乱れ、そして精神的な疲労が、こういった吹き出物のような形で出てきてしまうのであろう。
 女性は、一瞬、何かに反応したようなしぐさを見せ、誰かを睨みつけたようであったが、すぐさまもとの方向に向き直った。
 私は電車の進行方向に向かって突っ立っているのだが、彼女は左側の、つまりすぐそばにあるドアのほうを向いていた。朝日が直接入り込んでくるわけではないが、夏場の強い日差しは外界を光で埋め尽くしていたから、扉の窓から入り込んでくる朝の光は彼女の顔面を白く映えさせるには十分なエネルギーをもっていた。
 彼女の目はきりっと釣りあがっていた。働く女性の、決意の眼光がそこにはあった。顔に吹き出物を作るほど、精神的には滅入っているはずなのに。方や私の右肩脇には疲れきって朝から目を閉じている女性がいて、私もこの朝が辛くてへこんで何もかも投げ出したくなりそうだというのに。彼女のその、強かで前向きな表情を見ていたら、この程度の日々にくじけている自分が情けなくなって、少しだけ元気が戻ってきたような気がして来た。

 そんなわけで、目的の駅につくまで私は、じっと彼女の顔に魅入ってしまっていた。人間という生き物は人の視線にとても敏感で、普通私がそのときしたようにまじまじと横から顔を見つめられれば少しは気にかけるものである。しかし彼女の固い決意の表情はまったく崩れることなく、じっとドアの窓のほうを向いたまま微動だにしなかった。
 今思えばそれはそれで奇妙なことであった気もする。もしもあの時そのことに気がついていれば、これから起こる出来事の予兆として捉えることが出来てしまい、少なくともここにこうしてネタとして書かれることはなかっただろう。
 果たして電車は目的の駅に到着した。錦糸町は快速から各駅停車に乗り換える多くの人間が先を急いで電車から降りようとするためちょっとした混雑になる。
 そんな中、私が注目していた吹き出物の女性は、彼女の斜め後方にいた中年男性の肘をいつのまにかしっかりと小脇に抱え込み、その男を引き連れて人ごみの中、さっそうと電車から飛び出し、近くにいた駅員に「すみませーん」と声をかけていた。駅員は二人の側に近づき、事情を確認するとすぐに、男を駅員室があるほうに連行した。女性は二人の後についていった。

 一部始終を見ながら人ごみにまみれてホームに降り、そして階段を降りる頃にはすっかり目が覚めて興奮状態の中、口ばかりがあんぐりと自分の中の驚きの感情を主張していた。とにかく突然の出来事で訳がわからなくて、脳味噌はすっかりうどんと化していた。
 そして改札を抜け、駅舎の外に出て、朝の光をいっぱいに浴びた頃に、この物語のタイトルはニキビにしよう、と、そんなことをふと閃いていた。なぜそのまま、「ニキビ」にしないで「吹き出物」にしたのかというと、ニキビというとどうしても、思春期の少年少女が顔に作る、あまりにも健康的で甘酸っぱい響きを思い起こしてしまうからだ。