2000年5月11日(木曜日)


 なーんで研修生がこんな帰り遅くなってんねん疲れたわまったくこんなんやってられっかっちゅーにほんまもうあれや、今日は風呂入らんと買うてきた菓子パンかじってさっさと寝るわ。って言いたいところなんだけど、ああ、せめてこのページだけは書かないとやっぱりこんなものでも毎週楽しみにしている風変わりな人がいないわけではないみたいだから別に責任感じているわけでもないんだけど期待にはそわなくちゃね。ってーわけで、今回は多分1話だけです。ってそーいえば前回もそうだっけか(;_;)/


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 夜空

ジャンル:フィクション
危険度:小

 この町に越してきて2ヶ月目にして、初めて私はこの、漆黒の夜空の存在に気づきました。
 本屋のビルの階段を下りるとそこは横断歩道のあるビルの谷間で、商店街だからネオンの明かりがそれなりにあってそれなりに人通りもあってそれなりに賑わっている風を醸し出している、そんな場所なのであります。
 私はその日はサービス残業というわけで会社ではずっと文書とにらめっこでしたし、さっきの本屋でも今度は漫画雑誌にずっとにらめっこでしたから、とにかく頭はボーっとするし目がかすむわけです。だから気分的にもなんとなく口をぽかぁんと開けて上を向いていたかったですし、それに目がかすむわけですから、こんなに視界がぼんやりするときは夜空にちりばめられた星を眺めて目を休めようという閃きもあったわけなのです。
 それがふふ、見上げた夜空にはうふふふふ、星なんて1つも浮かんじゃあいないじゃないですか。恐ろしい漆黒の闇が、なんだか自分の魂を体ごと吸い込んじまいそうな深い闇夜がひひひひ、頭上の世界を覆い尽くしているじゃあないですかあひひ、ふひひひひははははははぁあなた知ってました?
 私がそのとき味わったそれはまさに恐怖でした。ええ私だっていくら若いとはいえ生を授かってそろそろ30年になります。これまでの私の人生だってそれなりにいろいろなことがありましたし、本気で死のうと思ったこともあれば心のそこから殺したい奴なんてのもいましたしどうしようもなく誰かを抱きしめたくなる寂しさも味わってきましたよ、でもね。でもですよ。あの日感じた以上の恐怖なんて。…あれ以上の恐怖を味わったことなんて私は1度だってありません。あなたにはわかりますかね私の気持ちなんて。私はあの日は本当に怖くなって背筋が固まって表情が強張って、無心のまま信号が赤なのも踏み切りが降りているのもわからないままとにかく機械か人形のようにアパートへ向かってとぼとぼと歩きつづけたわけです。無心だなんて書くと非常に聞こえがよろしいようですが要するに恐怖で何も考えられなかったというか真っ白になってしまったんですな。

 私は今住んでいるこの町の、すぐ隣の町で生まれました。そこもここと同じぐらい栄えていて、まぁここと比べると商店よりは住宅のほうが多かったようですが、あのころ住んでいたあの町が今いるこの町と同じように星がまったく見えなかったのかというとそれは実はいまいち記憶に残っていないのであります。確かに何も見えない夜空だったような気はします。しかしこんなにも恐怖に満ちた深い闇ではなかったような気もするのは、生まれ故郷に対する感慨が記憶に施すエコヒイキなのでしょうか。
 とにもかくにも、私がここに越してくる以前までの約10年間を過ごしたのが、この町からは多少離れたかなりの田舎町ですから、その約10年間の生活が私の中に、星の沢山散りばめられた夜空があたりまえであるという思考回路を、知らず知らずのうちに埋め込んでいたのは確かなのです。この町に来て、星のない夜空というものをすっかり忘れてしまっていたということに、初めて気が付いたのです。

 人は英知で夜空の星を地上にもたらしたなどという人がいます。よく物語なんかでも、あるいはドラマや漫画なんかでも、ビルの窓越しに夜景を眺めて「綺麗…」なんて言ってみたり、屋上から夜景を眺めて「この街も捨てたもんじゃあない」とか言ってみたりなんてのはよくあります。でもそれって、この漆黒の闇のもたらす寂しさと、常に隣り合わせなんじゃないかって、今になれば思うのです。私たちは星を手に入れたんじゃあない。夜空の星に見限られたんだって。そんな気さえしてしまうんです。

 山本満はバーで絡んできた見ず知らずの作家風情にそんな話を聞かされながら、左手のグラスで寂しげに眠っている氷をいたずらに溶かしていた。特にもう一杯煽ろうという気にもなれず、満は名残惜しげに左手を添えていたグラスから、ついにそっと手を放した。
 ですからねミツルさん、人間は本当は、こんな星のひとつも見えやしない街じゃあ生きてはいけないんですよ。まともな人間がこの辺にどれだけいると思います? 一人だっていやあしない。結局はそういうことなんですよ。私だってね、、、。
 そして満は、そんな酔っ払いをそのままほったらかしにして、さっさと店を出てしまった。
 満は夜風の心地よさに気をよくしながら、おぼつかない足取りでゆっくりと帰路についた。その店から歩いて5分という距離に、自分の住んでいる寮がある。そこは商店街から少しはなれたところにあって、その分道は少し暗いところを通る。
 ふと、空を見上げてみる。
 なるほど、確かに何もない空だった。
 星などひとつも見えない夜空。
 真っ暗闇に覆い尽くされて、雲が浮かんでいるのかすらわからない夜空。
 そのくせ、あえて視界に入れてみると、のしかかるような存在感に満ち満ちた夜空。
 誰だって気付いている。
 気付かなかったわけじゃあない。気付きたくなかったのだ。
 なぜならそれが、人の性なのだろうから。本能が、夜空を見上げることを拒むから。
 そして今日も人々は、見上げたくない夜空の変わりに、仮初めの輝きを放つ街の夜景を楽しむのだ。