2000年1月13日(木曜日)
何かをやっていて、いまいち調子に乗らないとき、いまいち波に乗らないとき。そんなときに私は、あることをします。さてその、あることとはいったい、何でしょう。
答えは、うんずの内臓音源向けに作られた音楽データを聴きながらボーっとする、です。
4オペレーター8アルゴリズムのFM音源が6音、サンプリング周波数最高20kHzで量子化精度8bitのPCM音源が8音。しかもPCM音源が楽器として割り当てることの出来る波形メモリ領域はわずかに64KB。それが、うんず内蔵音源のスペックです。
しかし、そんな低能な楽器であっても、それにロマンを抱いていた時代が、私の中には確実にありました。FM音源なら自分で音色を作り、PCM音源なら手元にはない楽器の音をどうにかしてそれに似せた音を工夫してマイクに吹き込んで使ってみたり、普通に売られている音楽CDの欲しい楽器だけがたまたま単体で鳴っている瞬間だけを切り取ってこっそり使ってみたり。しかも私が当時使っていたうんずはHRという機種で、これがどういうわけか内部にものすごいノイズの発生源を持っている機種でとにかく音質は最悪だったにもかかわらず、とにかくこいつで自分が頭の中で考えて作った曲が演奏されることがとても嬉しかったし、こいつで曲を作ることに燃えていたのであります。
私のDTM野郎としての原点が、ここにあるわけですね。
さすがにノイズだしまくりのHR君はFresh君にとって代わられてしまいましたが(^_^;)、より音質の優れているDTM音源で音楽製作なんかしている今の私でも、ときどき、否、結構しょっちゅう、この、へっぽこなはずの、うんず内蔵音源の音が恋しくなります。なんでなんでしょうね。何故かこの、うんず内蔵音源ってヤツには、なんていうかその、温かみのようなものを感じるのです。私はね。
ジャンル:コラム
危険度:小
あれ? 「がまん」って、「我慢」っていう字でいいんだっけ? と思って辞書を引いてみたところ、こんなことが書いてあった。
もちろん「がまん」は「我慢」でよかったのだが、その意味として最初に紹介されていたのが一般的に使われる「我慢」の意味ではなく仏教用語で、「自己にとらわれ、心のおごり高ぶる煩悩」とあった。つまり「我慢」とは、仏教では煩悩その物をさす言葉らしいのだ。
これはおもしろいなぁ、と私は思う。私はかつて大学院へ進学すべく受験勉強に励んでいた頃、一切の創作活動を我慢していた。今ではホームページの更新は再開したが、音楽製作や趣味でのプログラミングなどは卒業研究が無事片付くまで我慢することにしている。
しかし、裏を返せば、人が「我慢」しなければならないのは、「我慢」しなければならない欲求があるからなのである。今の私にとってはそれは音楽製作などの大掛かりな創作活動というわけだ。そして、仏教用語ではそんな欲求そのもののことを「我慢」と呼ぶのである。
だとすれば、この言葉の表すところとはすなわち、人とは常に我慢を持ち、我慢しながら生きている動物である、とすることが出来るのである。日本語とは、かくてこのように奥の深い言葉なのであろうか。
しかし関心ばかりもしていられない。ことさら現代日本人に至ってはこの「我慢」というヤツに押しつぶされ、ついには身近にいる町の住人を無差別に切り殺したり地下道に車で入り人を轢き殺しまくったりする者まで現れた。
ともすれば人間の抱えうる我慢などというものはいささか限度のあるものであり、度を越して我慢を抱えすぎれば八方塞になった挙句溜まった鬱積は爆発し飛び火を起こして世間に多大なる迷惑を被る結果を招くのである。
しかし困ったことに日本の社会は教育社会も大人社会もますます我慢を強いる世の中へと突っ走っていっている。そして日本には古くから、忍耐こそ人の生きる道とばかりに、我慢というものが一つの美学として成立してしまっている。
ところで、努力と我慢はまったくの別物であるということを理解している人間はどのくらいいるだろうか。
努力はすればするほど自分の実力を確実に向上させることが出来るものである。実力が向上すれば結果が出せる確率も当然向上する。結果が出せる確率が上がれば自信もつき、挑戦意欲も沸いてくる。
我慢は努力をするときに努力していること以外の誘惑に負けないためには必要かもしれない。しかし「我慢」単体で見た場合、ただ単に何かを我慢しているだけでは何の足しにもならないし実力の向上は望めない。しかも我慢してさえいればいつかは何かしらの見返りが来るものなのかといえばそんなこともまったくない。我慢だけしていても、何にもいいことはないのである。
とはいえ、日本人に生まれ、現代に生まれてきてしまった以上、我慢は避けて通れないものである。
そこで、この日本を快適に生きるために、如何に要領よく生きてゆくかが肝要になってくる。要領よく生きれば、無駄な我慢はする必要はなくなり、その結果、効率よく豊かな老後が、じゃなかった、今を生きることが出来るはずである。
要領のよい生き方を分析するために、まず下に我慢を3種類に分けて表記してみることにする。それは、絶対に避けては通れない、しなければならない我慢、するべきではあるが他の方法でいくらでも発散できる我慢、そして、しても意味のない、する必要のない我慢の3つである。
しなければならない我慢 | 他の方法で発散できる我慢 | しなくてもいい我慢 |
厭な客の言動 厭な客を無視すること 厭な客をぶん殴ってフクロにすること 民主政治 不当な増税 自殺 薬 禁煙席での喫煙 クラシックコンサートで咳(せき) 某宗教団体の歌を歌う 公衆の面前で「最高ですかぁっ!!」 |
破壊、殺人 強姦、猥褻行為 性欲 夏の夜の蚊の音 隣の部屋でのやり取り 野次馬根性 甘いもの 浣腸 |
自己表現 希望進路 人前でおなら 学校でうんこ 昼寝 上司のたれ口 使えない先輩 だるい人付き合い 「自称」恋人のしつこい電話 |
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え〜、なんだかちっともよく分からないですね(^_^;)。
ジャンル:コラム
危険度:中
下手に資金力がかさむとちょっとした事ですぐに「自称・消費者」で「正義の味方」のネットユーザーの皆さんに「巨悪な存在」扱いされてしまうかわいそうな団体。
同じような理論展開を広げていくと、「世論」=「貧乏人の僻み」、「真相」=「マスコミの勘違い」などが成立することになる。「マスコミ」=「巨悪」という見方をする人間も多いが、情報操作もモラルの持ち方でいくらでもありがたいものになるとも思っているのであんまりお勧めは出来ない。