99年6月1日(火曜日)


 ここしばらくフィクションを書いていませんが、それ以前にここしばらくフィクションを読んでいなかったりします。
 一番最近に読んだ本は流行りの「五体不満足」というノンフィクションで、私より一つ二つ年上の方が書かれた本です。早稲田大学在学中と言うことらしいのですが、本で読む限り私なんかよりもずっと充実した学生生活を送られているようで、ジジイ相手に接客重ねたぐらいで地に足がついた気でいた自分が何だか恥ずかしくさえ思えてきます。
 とってもいい本ですよ、「五体不満足」。まだ読んでいない方は是非とも読んでみて下さい。


日付け別indexに戻る

最初のページに戻る

まるのみに戻る



 ボールペン

ジャンル:フィクション
危険度:小

 隣の席に座っていた女性がおもむろにルーズリーフをカバンにしまい込む音がしてふと目が覚めた。教壇の講師は講義も締めくくりの言葉に入り始めていて教室中が帰る身支度の音の大合奏になっていた。僕はと言うと1ページ目の半分ぐらいまで書かれたノートに大きな涎の水たまりを作っていてまずその処理に困ってしまった。時計は正午ぴったりを差している……本来この授業が終わる時間は12時半なのでおそらく食堂はまだ込み合ってはいないだろうという考えがふと僕の脳裏をよぎった。そこでとりあえず涎の処理は適当に、そうだな、ジーパンのシミにでもしてしまうことにして、道具をカバンにしまって急いで教室をあとにした。
 食堂は思った通り十分座れるくらいにまだすいていた。そしてさらに都合がよいことに同じ学科の顔見知りたちがたむろしている一角を見つけることが出来た。とりあえず連中のもとに挨拶に行って重たいカバンを置き、小銭袋の中身を確認した上で食事を買いに行った。席はすいていたが厨房やレジは込み合っていて長い行列を作っていた。僕はその入り口でメニューに「上カツ丼」の4文字があることを確認し、お盆を持ってすぐさま2番目に長い列に並んだ。12時を過ぎるとここの厨房は定食、カレーと丼モノ、麺類、の3部隊に別れる。定食が一番並んでいて、麺類が一番すいているのだが、麺類はラーメンにしてもうどんにしても蕎麦にしても注文があってから麺を茹ではじめるため、カレーと丼モノのこの列が一番時間がかからずに済むのだ。
 食事を済ませると込み合ってきた食堂をあとにし、僕らはツルんで空いている教室に流れ込んだ。そこは古い校舎の教室で、冷房器具は大きなロッカーみたいな形をした不格好なヤツだ。新しい校舎の教室は天井にエアコンが作られていて、運転させると教室全体が冷えてしまうのだが、ここのヤツはこんな不格好なのが3台ほど入っていて、1台回せばその場に固まっていた僕らには十分な程度の涼しい風が流れてきた。この大がかりなようでちっとも大がかりじゃない冷房器具が僕らには返って親近感がわいて居心地が良かったのだ。
 フナイは今日もトランプを持ってきていて、昼休みはやっぱりトランプ大会になった。
 僕らがやるトランプゲームというのがまたちょっと変わったゲームなのだ。セブンブリッジなのだが、札を捨てるときにUNOのような要素が取り入れられていた。例えば、2を捨てると次の人は無条件で場札から2枚を引き、それを手札としなければならない、Jを捨てると次の人は飛ばされてしまう、9を捨てると逆回りになる、などと言った案配だ。そしてさらにユニークなことには、人数が5人以上いるときはトランプを2組分使ってプレーしてしまうと言うことだ。
 今日もそんな不思議なトランプゲームをしながら、今日のこれからの授業予定のこと、レポート課題がちっとも進まないこと、ヨシカワが今日もパチンコで擦ってきたこと、巨人が相変わらず外国人選手で損をしていること、そんなくだらないお喋りを交わしてはバカみたいな声で笑った。

 理系の学部だから、と言うのもあるのだが、僕が連んでいる連中はとことん女っ気のない人たちだ。だからといって特別むさい集団というわけではないが、色めきだつような大学生活を体験した覚えがない。何しろ田舎の大学で、周りにもお付き合いになれそうな短大やなんかが無いというのも痛い。
 が、そんな連中は別として、僕に女の子の友達がまったくいないわけではなかった。友達と言っても会えば挨拶を交わす程度の仲で、評価するなら「害のない仲」といった感じだ。

 僕が3限に受ける授業は今昼休みにトランプをしていた教室で行われるので、僕と、同じ授業を受けるカネコとハセとヨシカワはトランプをしていたそのままの席で授業を受けることにした。フナイは周囲が人で混雑してきたのを異常なほどに気にしながら(彼は重度の人間嫌悪症なのだ)、急いで自分が持ってきたトランプを片づけ、この時間受ける授業のない彼とオオタキとキタムラとムラカミはさっさと教室を出ていってしまった。
 そして代わりに知った顔の別の一団が入ってきた。ヤツとヤマグチとシーナだ。
 ヤツ、というのは、あいつ、とかそういう意味ではなくて、実際に「谷津 秋」と言う名前なのだ。彼は高校以来の連れだ。なんだかんだで腐れ縁になってしまったのである。で、それと一緒についてきた二人が、うちの学科では非常に貴重な女子生徒の二人だ。
 彼らは僕らを見ると安心したような顔をして、僕らの陣取っている席に混じって座ってきた。ヤツが「あれ?トランプは?」と聞いてくるので、僕が「トランプなら今頃学生ホールでしょ」と答えると、本当につまらなさそうに「なんだぁ、教授来るまで遊んでられると思ったのに」と言い捨てた。

 この時間というのは一日のうちでもっとも眠くなる時間で、この時間に寝ていてもいいような授業が入っていると非常に助かる。しかし今日の3限は数値計算というやつで、波形データ処理なんかをやってみたいと思っている僕にとって欠かすわけにはいかない授業だ。そこで、チャイムが鳴る5分前ぐらいから首を机にもたげさせて、教授が来て授業が始まる10分ぐらいの間仮眠を取ることにした。こうするだけでもずいぶん集中して授業が聞ける体制に出来るものなのだ。
 しかしちょっと気を抜いた隙に熟睡モードに入ってしまっていたのか、気がつくとすでに教授が授業をはじめていて、黒板の半分ぐらいが白いチョークの文字で埋まっていた。
 僕は慌ててカバンの中からノートと教科書を取りだし開いた。そして黒板に書かれた内容を急いで書き写そう、と思ったがそういえばシャーペンが無い。と言うか筆箱がない、無いのである。どういうことだ!? さっきの授業の時だって、、、いや、さっきの授業は1コマ分しっかり爆睡したからシャーペンは使っていないのだ。しまった!!
 そんな感じで完全に思考回路がブッ飛んでいると、隣に座っていたシーナが「どうしたの?」と訪ねてきた。よほど取り乱していたのだろう、と思う。事情を話すと彼女は「ごめん、ボールペンでいい? 代えのシャーペン持ってないの」と言ってくれた。僕は喜んで、そのボールペンを借りることにした。
 プラスチックの透明の柄で、中のインクの芯が見える、ごくありふれた水性ボールペンだった。そのキャップをはずすと僕は急いで黒板の内容をノートに書き写しはじめた。
 始めの30分は好調だった。10分間の(ウソ、実際は20分寝ていた)仮眠の効果はあったのだ。しかし、30分を過ぎた頃からだんだん睡魔が僕を襲いはじめた。夕べはバイト先の仲間連中とネットでずっとチャットをやっていて、ほとんど徹夜だったのだ。とてもじゃないが、さっきの1コマ分の睡眠だけでは足りない自信がある。自信? 自信って、どんな自信だよ、、、うーん、だんだん思考回路が、、、、、、はっ、いかん。授業に集中しなくてわ。えーと、qの計算式の分母が0にならないようにするピボット選択はまず|aik|がk≦i≦nの範囲内で最大になるときの行をmとし、、、k行とm行を入れ替え、、、、、、gを、、、、、、、、、

 隣の席に座っていた女性がおもむろにルーズリーフをカバンにしまい込む音がしてふと目が覚めた。教壇の講師は講義も締めくくりの言葉に入り始めていて教室中が帰る身支度の音の大合奏になっていた。僕はと言うと2ページ目の半分ぐらいまで書かれたノートに大きな涎の水たまりを作っていて、、、うん? 作っていて、、、ちょっと待て。
 僕はことの重大さに少し当惑してしまった。僕の涎の被害にあったのはノートだけでなく、右手に握られていたはずのボールペンまでもが僕の口からの体液でベトベトになってしまっていたのである。
 その様子は隣で帰る身支度を終えたシーナの目に留まった。「ああっ!」
 彼女のその驚く声に僕は得も言えぬ罪悪感に襲われ、身をちぢこませて「あ、ご、ごめん、なさい」とだけ苦笑いしてみせながら呟いた。
 彼女は、シーナはそのとき、ものすごい恥ずかしいことであるかのように顔を赤らめた。そして、「あの、そのぺん、それ、、、」と、何だか変な口調で問題のボールペンを指さしている。
 僕は、もしかしてこのボールペンは実はものすごい大切なものだったのでは、と思い、ますます申し訳なくなってきて、「ごめん、きれいに洗って返すから」と取り乱すように謝った。
 が、それでますますそれ以上に取り乱したのは彼女の方で、「ええっ! そんな、とんでもない! そのペンもう君にあげる!」と言ってさっさと教室から出ていってしまった。
 ノートの涎は着々と深刻なほどにシミを広げていった。僕は彼女のその異様な反応に唖然としたまま、ただただ涎のノートの上に転がっているボールペンを見つめるしかなかった。

 「そのボールペン、オナニーにでも使ってたんじゃねーの?」
 あのとき後ろの席でその経緯を見ていたヤツが、卑猥な冗談を言って笑っている。僕はその冗談には敢えて答えなかったが、信憑性はあるな、と思った。僕があんまりまじめな顔で考え込んでいるので、ヤツは心配になって「おーい、そこ、つっこむトコだべ」と言ったが、僕の耳には届いていなかった。
 駅に向かうバスは相変わらず込み合っていて、中の臭気が初夏を否応なく感じさせていた。バスで帰るのは僕とヤツとハセとヨシカワの4人だけで、ちゃっかりと一番後ろの椅子を陣取ることに成功していた。いつもはシーナとヤマグチも同じバスなのだが今日はその姿が見えなかった。もしかしたら授業が終わってすぐのバスに乗って帰ったのかも知れない。
 僕は何となく、カバンの中からさっきのボールペンを取り出した。何度見ても、別になんの変哲もない、ただの水性ボールペンだ。とてもこれが、何らかの思い出の品には見えないし、特別高そうにも見えない。っていうかキャップに書かれているロゴは非常によく見慣れたもので、そこら辺のコンビニとかで100円ぐらいで売っているものだったと思う。
 ボールペンを鼻に近づけて、匂いをかいでみた。あんまり近づけて匂いをかいでしまったので、次の瞬間思わずむせってせき込んでしまった。
 それを見ていたハセが嬉しそうに驚きを持って「え、うそ、そんなになにか匂うの?」と聞いてきた。僕は会話の流れから変な誤解をさせてしまったことに気付き、慌てて「いやいや、俺の涎の匂い」と答えた。「ホントはしょんべんの匂いでもしたんじゃねーのぉ?」と、ヤツが相変わらず卑猥な笑顔で僕をなじってきた。
 豪快なエンジン音を唸らせて、バスは景気良く走っていた。