99年3月16日(火曜日)


 宇多田ヒカルが歌ってる。

 うーん。
 やっと邦楽アーティストにも、こういうサウンドが使われるようになったか。
 ちょっとうれしいむらちさんなのでした。


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 食べ物の恨み

ジャンル:フリートーク・フィクション
危険度:中

 「ATTACK OF THE KILLER TOMATO」という映画がある。
 いつも人間にかじられたり加工されたりして食べられているトマトが反旗を翻し、逆に人間を襲い始めた、というストーリーの映画で、台車に乗せられた巨大トマトの張りぼてを縄で引っ張りながら逃げる演技をしたり、秘密会議室というのが本当に人間6人とテーブルしか収まらないくらい小さい部屋だったり、弱点のへたくそな歌で弱ったトマトを一生懸命踏みつぶしたりする、要するに超駄作、Z級映画と呼ばれるものだ。
 今回はその映画がいかに駄作であるかを語るわけではなく、喰われる者が喰う者に抱く感情について少し考えてみたいと思う。

 例えばすべての食べ物に対して、それが自分であったときのことをいちいち考慮するのは非常にナンセンスなことだ。動物は喰わなければ生きていけない。動物がそういう運命を背負っている以上、食物連鎖が起きることは至極当然の自然の摂理として受け止めなければならない。すべての動物が喰うことをやめてしまえば地球上の動物は1週間で絶滅することになる。
 興味深いのは、人間は食べると言うことに文化を持ち込み、彩りをもたらしたと言うことだ。例えば人間は料理をする。生きた魚を刺身にしたり、まるまる太らせた豚を真っ二つにして肉を塩でもみ、腸詰めにしたりする。生きたまま串を通されたり火あぶりにされたり塩にもまれたりなべにぶち込まれたりする動物たちはどんな気持ちでそれらの仕打ちを受けるのだろう。
 また人間は、大量の食糧を確保するため、そして料理に彩りを増すために、農業を営み、家畜を飼育し、作物の品種改良を重ねてきた。今人間達が食している野菜のほとんどは、元々自然界には存在しなかったものだ。そして品種改良の概念は家畜動物にも適用されている。乳牛なんかがその代表的な例で、アレは牛が毎日大量の乳を作ってしまい、搾り取らないと耐えられないような体に作り替えられているのだ。人間の崇高な技術によってね。

 もしもこの世に、人間の天敵に当たる別の知的生命体が現れて地球を支配したら。それを想像してフィクションを描いてみよう。


 昨日、こっそり小屋から抜け出した俺は、ジャイアント達の食卓で、白菜や昆布や、こんにゃくのようなものと一緒に、バラバラに刻まれたアリーゼが巨大ななべの中で泳いでいるのを見てしまった。
 アリーゼは俺と一緒の小屋で生活を共にしていた12歳の少女だ。彼女はその前夜、初潮を迎えたとたんにジャイアント達につれて行かれた。何でも初潮を迎えたばかりの処女の人間は最高の美味なのだそうだ。
「いやー、やっぱりメスの仔ヒトの鍋は最高だねぇまったく。」
「なんていったって麦とほうれん草と葡萄酒だけを与えて育ててきたからね。臭みも全くないし。」
 そんな会話を交わしながら、ジャイアント達は楽しそうに食事をしていた。アリーゼは見る影もなく食い尽くされ、白骨だけが残った。俺は涙をのんだ。

 今日も搾乳を待つ女性の列が、搾乳小屋の前に並んでいる。

 一人のジャイアントがやってきて、朝食の代わりに俺に手枷をつけた。
「小屋を変える。来なさい。」
 そういってジャイアントは、俺を別の小屋へと引っ張っていく。
「おまえには種馬として枯れるまで働いてもらう。感謝しろよ。」
 つれてこられた小屋には、品種改良によって性欲をあらわにした8人の女性が巨大な円形の寝台の上に横たわり、互いに体を交わらせていた。男の俺を見るやいなや女達は激しく興奮してよだれを垂らし失禁し、俺に飛びついてきて愛の巣の中に引きずり込んだ。
 「仕事」を終わらせると彼女たちの発情は一様に収まり、そしてジャイアントに促されて別の部屋へつれて行かれた。明日からはこの調子で、毎日20人の女性を相手にしなければならないらしい。


 家畜の牛は、自分が殺される日を知っているのだそうです。
 育てた牛を殺して市場に競りに掛ける季節というのは決まっていて、その季節になると牛たちはみな、夜な夜な声を上げて鳴くのだそうです。
 もしも自分が、いつか誰かに喰われるために今を生かされているとしたら、それはどんな人生なのでしょうか?


 剣道

ジャンル:フリートーク
危険度:無

 男女混合でも一向にかまわないと言うすばらしい格闘技。もちろん防具の中は厳しい稽古でかいた汗でムレムレになり、常にすさまじい異臭を放ったりもするが、その匂いさえ気にしなければ女性でも出来るのがこの競技のすばらしいところだと私は思うのだ。

 剣道の基本はまず「気合」にある。
 まぁ何の格闘技でも、あるいはいかなるスポーツ、いや、スポーツに限ったことではないのだろうが、「気合」というのはとても大切な要素であると思う。人は「気合」を爆発させる鍛練を積むことで精神力を育み、立派な人間に成長して行くのだろう。
 剣道の場合、気合を込めるための、大声を出す訓練から始まる。方法としてはいろいろあるだろうが、例えば広い運動場の向こうの端っこから大声で自己紹介をさせ、きこえなければやり直し、なんてことをやったりする。
 男女を問わず、恥ずかしがりやは剣の道を学ぶ資格すら与えられないのだ。

 剣道において「声」が占めるウェートは実に大きい。
 例えば剣道の試合において、「始め」の声がかかってまず最初にすることは、相手を「声」で威嚇することである。そのかけ声は人によって様々であるが、一般的には「やーっ!」や「うぉーぃっ!」などが多く、特に女性剣士のほとんどは「やーっ!」を使う。一方、男性剣士で「やーっ!」を使う人はほとんどいないようで、中には「っさぁーっ!」や「すりぃーーっ!」、「ほんれほれぃっ!」などといった特殊なかけ声を使う人もいた。
 そしてなんと言っても特徴的なのが、技を仕掛けるときに必ずその時打った部位の名前を叫ばなければならない、ということだ。つまり、相手の面(お面のこと、通常は頭)を打ったなら「めんっ!」、胴(胴当てのこと、通常は右脇腹、逆の場合もある)を打ったなら「どぉっ!」、小手(小手当てのこと、通常は右腕の手元)を打ったなら「こてぇっ!」、突き(胸ぐらから首にかけての中心を剣先で突くこと)ならば「つきぃっ!」と叫ばなければ、それがどんなに相手のその部位を正確に捉えていても一本には絶対にならないのだ(例えば「どぉっ!」と叫びながら面を打っても3人いる審判のうちの一人も旗を上げてはくれないだろう)。
 しかし時として、たとえ技が正確にはきれいに決まっていなくとも、声さえしっかり張り上げておけば審判が勢いで旗を上げてしまう、というケースも少なくない。それほど、剣道において「声」という要素はとても重要なものなのである。

 一般的な少年剣道場の練習風景を描いてみよう。
 まず着替えを済ませると道場の拭き掃除から始まる。たいていの場合使っている道場というのは小学校の体育館なんかを借りていたりして、上げ下げ式のバスケットゴールが下げっぱなしになっていたりする。このバスケットゴールを滑車を廻して上げたり、掃除用具入れからモップを引っぱり出してモップ掛けをするのは上級生の仕事で、乾拭きで雑巾掛けをするのは元気な下級生の仕事である。
 ここで例えば季節が冬だったりすると、準備体操の前に体を温めるためにかけ声にあわせて走ったりもする。
 次に全員整列して着座する。上座にはこのときまず先生(師匠)が座し、下座最前列の一番右にリーダー格(小学6年生で特に選ばれた人間)、それにならって上級生達が並ぶ。2列めには下級生が、3列めには新入生が並び、最後列に中学生、それから先生ではない(2段以下の)大人の方々が並ぶ。そして黙祷を捧げ、礼を交わす。
 儀式めいたことを済ませると次に先生に代わってリーダー格の3人ほどが上座に立ち、彼らのかけ声のもと、準備体操、そして素振りが行われる。素振りは道場によってもまちまちだが、最低でも200本はどこの道場でもやっているようである。
 素振りが終わるとここでやっと面を着け、打ち合いの稽古が始まる。稽古はまず切り返しに始まり、基本的な技の練習、すなわち面打ち、小手打ち、胴打ち、小手面、小手銅、面体当たり引き胴などをやる。さらに実践的な技、例えば相手の竹刀を祓って面を打ったり、相手が小手を打ってきたところをかわして面を打ったり、相手が面を打ってきたところをあわせて胴で抜いたり、鍔迫り合いから相手が仕掛けて引いて行くところを追って面を打つ、などと言った練習を行う。
 そうして程良く疲れてきたところで今度は間髪入れずにかかり稽古にはいる。かかり稽古というのは上級生や先生が元に立ち、彼らが要求する技をどんどん打ちに行くというもので、しっかり声を出して素早くどんどん次の技を打っていかないとなかなか終わりにしてもらえ無いという一番疲れる稽古である。まぁ大抵の門下生はこの稽古をもっともいやがるものである。
 このかかり稽古にもいろいろな様式があって、元に立つ上級生や先生の所にどんどん並んで時間内にとにかく打ちに行き、笛の合図で交代、というやり方から、4から5人の上級生や先生が輪を作り、やはり並んで時間内に打ちに行き、笛が鳴ったら次の先生の所へすぐに行って打ちに行き、5人なら5人すべてと相手するまで続く、というものもある。
 かかり稽古のあと、今度はさらに「じ稽古」というのが待っている。「じ稽古」の「じ」がどんな字なのかはよく知らないが(いいのかそれで^_^;)、行ってみれば試合稽古のようなもので、それが時間も何も無制限で行われるようなタイプの稽古である。これも休む暇無く仕掛けなければならないと言う点でかかり稽古によく似ているが、かかり稽古と決定的に違うのは必ずしも元に立つ先生は技を要求しないと言うことである。つまり自分で相手の隙を見つけて打ちに行かなければならず、判断を誤れば容赦なく竹刀を祓われたり打ち返されたりする。また、実践を模した稽古であるので向こうから半ば本気で打ってくることもあり、それをいかに対処するか、などと言ったとっさの判断力を養うための稽古である。厳しい先生の元では地獄のような稽古だが、反面実践のような楽しさを味わうこともできる稽古であり、かかり稽古ほど不評ではないようだ。
 そして最後にまた切り返しで締めくくり、打ち合いの稽古はすべて終わる。
 面を外すとまた最初のように整列・着座し、黙祷をして礼を交わし、その日の稽古は終わるのである。
 もっとも稽古が終わるのはリーダー格以下小学生達のみであり、中学生や大人達にとってはこれからが本当の稽古なのだ。というのも彼らはかかり稽古やじ稽古の間、ずっと元に立って下級生達の技を受けていたので、ここまでではあまり稽古にはなっていないからである。

 以上、ごく一般的な剣道場の風景を書いてみたわけだが、何故こんな事を書いたかというと、実際今、私はものすごい「叫びたい」心境だからなのである。あまり大声を出したことのない人には分からないかも知れないが、大声で叫ぶというのは精神的にとてつもない快感をもたらすのである。きっと中学までの頃のように剣道場に通えば、毎週毎週気兼ねなく大声を張り上げることが出来るのだろうなぁと思うと体がうずうずしてくるのだ。

 はぁ、、、久しぶりに剣道がしたくなってきてしまった。