詩とジャズの始まりの頃
 アメリカン・ポエトリー・コラム (21)



野坂政司



 詩の朗読とジャズの演奏の組み合わせは、多くの可能性を秘めたパフォーマンスである。とりわけ、文学の享受される場をビート・ジェネレーションが書斎や図書館から路上や喫茶店へと解放した一九五〇年代後半は、美術や音楽においてもジャンルの越境が一部で試みられていた時であり、詩の朗読とジャズの演奏の組み合わせは、芸術的表現の枠組みを拡大する方向に傾いていた当時の環境にあって、遅かれ早かれ広く行われるようになったに違いない。
 まず、パフォーマンスとしての詩とジャズの組み合わせの発展について考えてみたいが、ちょうどこのことを扱っているものに、ケネス・レクスロスの「詩とジャズ」がある。これは『エスクワイア』(一九五八年五月号)に発表されたもので、詩とジャズの表現形態が内容の貧しい一時的な流行へと押し流されていきそうなその頃の世間の風潮に対して、彼はその本来あるべき意義と可能性を正面から訴えている。ここではフレッド・W・マクダラー(編)『ケルアックと仲間たち』(一九九〇、思潮社)に収録された木下哲夫訳で読んでおきたい。レクスロスは「事態はいよいよ手に負えなくなりつつある」とその文章を始めているが、彼の懸念がどのようなものであるかは次の引用から理解できるであろう。

 ……T・S・エリオットがリトル・リチャードやハーレム・グローブトロッターズとツァーに出る日もそう遠くはない。流行とくれば大方内容薄く、不毛なものと相場が決まっている。手軽な金儲けのことしか頭にない能なしがこのことを、ベビーゴルフや金魚呑みと一緒くたにして一時的な社会の病におとしめてしまうとするなら残念至極だ。(同書、五四頁)

 サンフランシスコ・ポエトリー・ルネッサンスの中心人物にしてビート・ジェネレーションの良き指導者である彼は、当時、五三歳になろうというところだったが、この最初の段落だけを読む限りは、詩とジャズのパフォーマンスに対して闇雲に懐疑的な批判の声を投げかける頑固親父のような印象を抱きかねない。ところが彼はこの道に関して実際は筋金入りの先達者なのであった。彼は自分が詩とジャズを組み合わせた朗読の実践者として長い経験を持っていることを述べる。

 少なくともわたしについて言えば、真面目に受け止めている。わたしが始めたのはかなり昔のこと、シカゴの『グリーン・マスク』でフランキー・メルローズのピアノ、その場に居合わせたラッパ吹きなら誰彼となくご一緒した。音楽は安酒場にお似合いの粗っぽさが売り物で、言ってみればファンクの祖先みたいなもの、こんな言い方でわかってもらえればの話だが。一方詩の多くはサーヴィス、サンドバーグ、それにスウィンバーンが読まれることまであった。が、それで全てというわけでもない。『荒地』もジャズと共に朗読された。発表直後のこと、しかも全編だ。バート・ウィリアムズとバート・サヴォイの両名とも客席にいて、とても愉快な冗談だと思ったという。(同書、五四〜五五頁)

 エリオットの『荒地』は一九二二年に出版されている。この前後の時期のシカゴは、詩に関しては、イギリスも含む英語圏全体で重要な場所であった。二〇世紀の英語圏の詩は、ロンドンでもなくニューヨークでもなく、シカゴにおいて一九一二年にハリエット・マンローが『ポエトリー』を創刊したときに始まったとも考えられているほどである。
 エリオットはパリのソルボンヌで一年間滞在して一九一一年にハーバードに戻ることになるが、ちょうどその時期に書かれた「J・アルフレッド・プルーフロックの恋の歌」はロンドンの『ポエトリー・レビュー』に送られたものの掲載を断られ、結局はシカゴの『ポエトリー』に掲載されたのである。彼は一九一五年にはイギリスに定着し、一七年に詩集『プルーフロック』が出版される。その後、彼は『エゴイスト』の副編集者を経て、二二年に『クライテリオン』を創刊し、『荒地』をそこと、ニューヨークの『ダイヤル』に同時に発表する。この時はエリオットが自分の作品を出版できる立場になっていたわけで、現代詩の最前線を突き進む環境が整備されたと考えることができる。ただ、読者の側から見れば、『荒地』を受け入れられない層からの否定的な反応が英米を問わず一般的であった。
 そのような文学風土の中で、レクスロスがジャズと共に『荒地』を朗読したシカゴは特異な場所であったと言わなければならないであろう。一九二〇年に発効した禁酒法により、二〇年代のシカゴではアル・カポネが君臨していた。シカゴ周辺に秘密酒場が一万軒あるといわれていたほどだから、遊ぶ場所は至る所にあったと考えられる。そのような環境なら容易に職が得られるということで、この都市に多くのジャズ・ミュージシャンが引き寄せられたのである。この辺の事情について油井正一『生きているジャズ史』(シンコーミュージック、一九八八)から「シカゴ・スタイル」の説明を引いておきたい。

 わたくしの説を申し上げます。
 ニューオリンズの紅燈街を追われたジャズはシカゴに定着しました。キング・オリヴァ、ジョニー・ドッズ、ルイ・アームストロングなどが、シカゴのダンスホール、カフェ、劇場(無声映画の伴奏兼アトラクション)などで、ニューオリンズ生粋のジャズを演奏したのです。頃は一九二〇年代。
 いつの世にも、新しい感覚をもって、いちはやくモードの先端を行くのは、一七歳から二十歳までの若きジェネレーションです。
 オースチン高校の学生たちは、たちまち、ジャズの魅力にひかれ、同志をもってジャズ・バンドをつくりました。かれらは、とくに、ニューオリンズ直系の、ジョニー・ドッズや、ルイ・アームストロング、キング・オリヴァといった黒人の演奏に傾倒したようです。
 黒人に対する人種偏見の非常に強かった時代に、白人の少年たちがこれらの黒人の芸術をりっぱなものとして尊敬したこと自体、大変立派なことだと思うのです。
 そこでかれらは、黒人のジャズの精神を、白人の知性をとおして濾過したのです。
 ここが重要です。かれらが知性を通して濾過したということ。それによって、ここにニューオリンズ・スタイルともディキシーランドともいえない、たいそう芸術的な演奏が生まれました。(同書、一七一〜二頁)

 一九〇五年生まれのレクスロスは『荒地』が出版された二二年にはちょうど十七歳だった。油井正一さんが指摘するように、「黒人に対する人種偏見の非常に強かった時代に、白人の少年たちがこれらの黒人の芸術をりっぱなものとして尊敬したこと自体、大変立派なこと」だけれども、この時期に、ジャズに魅せられた若いミュージシャンたちが詩を読む白人の少年に付き合って演奏したことも、大変素晴らしいことだと思う。少年レクスロスの周囲にジャズの精神と詩的感受性との出会いがすでにこのような形で生じていたことを考えると、五八年に、詩のパフォーマンスがビートの周辺で曲芸まがいのものに堕していく気配に彼が抗議の声をあげた理由がよくわかるように思う。なぜなら、東西の古典古代からの詩の歴史を鳥瞰できる豊かな教養と社会的実践の行動力の持ち主であるレクスロスが望んでいたのは、詩の読者が消えつつある現代文明のなかに、詩人と読者とが真に交流することであったからである。彼は、先に引用した箇所の少し後で次のように書いている。

 大きく見れば、現代文明において詩という芸術は死に絶えつつあり、その原因は読者の不在にあると私は考えている。……こんなことになったのは読者との実際に血の通った交流が不足したためだと私は思う。もちろんそれと同時に社会的、経済的な要因があることは言うまでもないが。一個人にはそうした大要因をどうこうすることはできないとしても、詩人を生の聴衆と接触させるための努力を続けることは可能な筈だ。(レクスロクス、前掲書、五六〜五七頁)

 彼は、象牙の塔の中に閉じこもって高尚な詩論をたたかわせるのでもなく、ただ受けを狙って身振り豊かに言葉を振りまくこと満足するのでもなく、知性と行為を統合したところに詩の言葉を考えていたのだと思う。それは、彼がジャズをどのように認識していたかを知ると、非常に良く理解できるだろう。詩とジャズが効果的に出会うためにどれだけの準備が必要かということに関して、彼は十分に承知していた。

 本当のジャズというものは全く自然発生的に吹きまくられるもので、即興でなければジャズでないという信仰が広く行き渡っている。まったくの戯言だ。もっとも自然発生的な即興演奏とは、膨大なメロディーと和音とリズムの定まったパターンの蓄積を駆使して初めて可能になるのであって、これはミュージシャンなら誰でも知っていることだし、この蓄積に生きた演奏の新鮮な生命を注ぎ込むことが眼目なのである。……偉大なスウィング・バンドの演奏は高度な編曲と、リハーサルの繰り返しなくしてはありえない。だから、詩人が何の準備もせずにノコノコとバンドの前に現れるや、夢のような詩と音楽がただちに紡ぎ出されるなどと考えるのは、愚の骨頂なのだ。(レクスロクス、同書、五七〜五八頁)

 彼の姿勢が良くわかる。彼は自然発生的な即興演奏を知性を通して創造しようとしている。その意味で、決して偶然に左右されるような感覚的・本能的方向性に身を任せるような態度をとらないのである。だからこそ、彼は次のようにリハーサルの重要性を繰り返し強調することになる。

 ミュージシャンは詩句を記した紙を譜面代わりに目の前に置き、これをキュー・シートにも使うし、また細々した演奏上の注意事項もここに書き込む。それから何度も注意深いリハーサルが行われ、一回毎に録音され、再生され、厳密な分析が加えられる。リハーサルは相当に念のいったもので、ふつうのバンド演奏のリハーサルと比べても遙かに凝っているが、自発性を抑えてしまうことのないように、その逆に自発性を高めるように常に努力を払う。……ジャズと詩の競演は、ちょうど山登りのように厳密で協調性を必要とする精密な作業なのである。全員が完全に統合されていなければならない。したがってバップのレコードの記録されて不滅の金字塔となった激烈な演奏合戦の類はここでは役に立たない。岸壁にとりついて一本のロープで結ばれた六人の男たちのようなチームワークが要求される。わたしに限っていえば、人の声をバンドの中のもう一つの楽器と考えるようにしてきた。(レクスロクス、同書、五八頁)

 知性による制御が強すぎるという印象を抱く人はもっとゆるやかな構造のパフォーマンスを志向するかもしれないが、詩とジャズの競演の実践的方法論として、これは今日においても有効性を失わない視点であると認めざるを得ない。では、レクスロス自身は実際にどのようなパフォーマンスをおこなったのであろうか。実践の人である彼は、この批判的文章を書いた時期に、自分自身が質の高いパフォーマンスを実際にやってみせている。
 「詩とジャズ」が発表された一九五八年に、サンフランシスコのノース・ビーチのクラブ「ザ・セラー」で、レクスロスが地元のジャズミュージシャンたちと競演したパフォーマンスの録音が、CD4枚組の「ハウルズ・ラップス・ロアーズーーサンフランシスコ・ポエトリー・ルネサンスの記録」(ファンタジー、一九九三)に再録されていて、今でも聴くことができる。この時に彼が朗読したのは、ウェールズの詩人、ディラン・トマスが一九五三年十一月九日、ニューヨークで客死したすぐ後に書かれ、五六年に発表された「ザウ・シャル・ノット・キル(お前は殺してはいけない)」で、二一分二六秒のパフォーマンスである。ジャズの演奏部分と詩の朗読部分が、時に重なり合い、時に掛け合い、全体が緊密な構造のもとに統御されていて、ひょっとするとこれは完全なライブ・パフォーマンスではなく、レコード演奏に合わせて朗読しているのではないか、と想像する人もいるかもしれないほどである。このCDには、ビート・ジェネレーション研究者のアン・チャーターズが解説を書いているパンフレットが添附されているが、そこにリハーサル風景の写真が載っている。五十代前半のレクスロスが白いTシャツ姿で実に若々しい。彼とミュージシャンたちとの間には程良く昂揚した気分と若干の緊張感が窺われ、「詩とジャズ」で披瀝したリハーサルのビジョンが確かな形をとって現れている。このようなリハーサルがあって、「ザ・セラー」での完成度の高い名演が生まれたのだと実感する。
 二〇年代前半のシカゴはさておき、五八年当時のサンフランシスコにおいてレクスロスの他にはケネス・パッチェンがいたことを忘れてはならないだろう。一九一一年生まれなので、レスクロスより六歳年下になるパッチェンは、レクスロス以上にパフォーマンス・アーティストとしての幅広い活動を展開した詩人だった。
 まさに五八年は、LP「ケネス・パッチェン、ザ・チェンバー・ジャズ・セクステットとともに自作の詩を朗読する」が出た年であり、翌五九年にはLP「ケネス・パッチェン、カナダでジャズと共に朗読する」が出ている。その五八年のLPは今では入手が不可能だろうけれども、そのパフォーマンスの一部は、前回も触れたCD3枚組の「ザ・ビート・ジェネレーション」(ライノ、一九九二)のなかに、録音時間が一分十五秒という非常に短い小品の「黄色の手袋をつけた若者による二人の男性の殺害」という作品が収録されていて、聴くことができる。
 このパフォーマンスも詩とジャズの統合の完成度が高く、質の高いものになっている。アメリカ文学に関する『文学伝記事典』(ゲイル・リサーチ)という大判で重厚なシリーズ本があり、その第十六巻のアン・チャーターズ(編)『ザ・ビートー戦後アメリカの文学的ボヘミアン』二分冊(一九八三)に、パッチェンについて六頁分の記載がある。そのなかに、パッチェンがサンフランシスコでザ・チェンバー・ジャズ・セクステットとともに詩を朗読している写真(一九五八年頃のものと書かれている)が載っている。ステージ上で譜面を前にしたサックス奏者やトランペット奏者と並んで、彼は右手にマイクを持ちながら今まさに朗読しているところである。壁の天井に近いところにLPレコードのジャケットが並んでいて、ステージに近い客席の聴衆の顔は十分に識別できる。会場の雰囲気は大きなホールではなくジャズ・クラブ(おそらく「ブラック・ホーク」ではないかと思われる)といったところである。
 また他の写真としては、冒頭で言及したフレッド・W・マクダラー(編)『ケルアックと仲間たち』にもパッチェンの朗読のものが載っていて、これは、五九年の三月十四日のリヴィング・シアターでのチャーリー・ミンガスとのパフォーマンスである。
 一九五二年にサンフランシスコに落ち着いたパッチェンは、進行中のサンフランシスコ・ポエトリー・ルネッサンスに関係し、レクスロスやローレンス・ファリンゲティとの交流が生じることになったので、詩とジャズの実践的方法論に関してはレクスロスの考えに親しく接する機会があったと考えられる。前述の「黄色の手袋をつけた若者による二人の男性の殺害」を聴くと、本番に向けて、そのフォーマットで念入りなリハーサルが繰り返されたのだろうと想像してしまう。それによって、おそらくステージでのパフォーマンスは、知性に導かれた感情、あるいは、感情に支えられた知性の力で、聴衆の心を強く魅了したことだろう。
 さて、レクスロスもパッチェンも、詩とジャズの組み合わせを共演としてパフォーマンス化したわけであるが、彼らに続いたビート・ジェネレーションの詩人・作家たちにとってジャズはどのような意義を持っていたのだろうか。

 ビート・ジェネレーションの作家、詩人たちにとって、ジャズは演奏行為として迫ってくるだけのものではなく、さらに彼らの内面に深い影響を与えたものでもあったようである。ここで、彼らの作品の内的構造や手法、創作に向かう際のビジョンや姿勢などにジャズが及ぼした影響の可能性あるいは事実について考えてみたい。というのは、この点について考えるきっかけとなる興味深い論考を偶然に読む機会に恵まれたからである。
 インターネット上で公開されている学術的オンライン雑誌に、マーク・ノフェリによる「ジャズとビート・ジェネレーションー文学における音楽のモデル」という論文が掲載されていた。この論文はジャズとビート・ジェネレーションとの関係について論じた長大なもので、ジャック・ケルアックとアレン・ギンズバーグに焦点を合わせて、各々の初期の代表作『オン・ザ・ロード』(一九五七)と「吠える」(一九五六)にジャズがどのように関係しているかということについて考察している。
 この論文が掲載されたのは『ジャズとアメリカ文化ーオン・ライン学際誌』で、これはテキサス大学のアメリカ研究学科が発行しているインターネット上の電脳雑誌である。一九九五年の春に創刊号が出て、その後、九七年の春に第二号が、秋に第三号が発行されている。テキサス大の発行とはいうものの、執筆者に関しては特に限定されておらず、寄稿された原稿の掲載は編集者の判断にまかされているようである。ノフェリの論文は、その第三号に掲載されたもので、執筆者の紹介記事によれば、ノフェリはどの大学にも所属していない研究者で、掲載論文はボストン・カレッジでの修士論文を基にして書かれたものだという。
 このような雑誌があるということは、ビート関係の情報交換の場として非常に活発な動きを示しているビート・Lというメイリング・リストに、この論文の著者であるノフェリ自身が紹介のメールを載せていたので知ることができた。早速、このオン・ライン雑誌にアクセスして一読してみたわけだが、これがなかなか示唆に富む好論文なので、注目すべき論点を紹介しながら、検討してみたい。
 ノフェリによれば、初めはウィリアム・カーロス・ウィリアムズ風の短い詩行の律動的な詩を書いていたギンズバーグも、文体においても主題においてもトマス・ウルフを範としていたケルアックも、自分の作品に音楽のモデルとしてジャズを用いることによって自分の声を発見したという。ノフェリは、この論文で、ジャズをモデルとして選ぶように促した彼らの成長過程、ジャズをモデルにして文学を書くのに用いた手法、ジャズや演奏家たちが主題や芸術性の点で特にどのように作品に影響を与えたのかということなどを明らかにし、またそれとともに、ジャズと彼らの詩・散文との結びつきの正当性を証明しようと考えている。
 ケルアックに関して、ノフェリは、まず『エバーグリーン・レビュー』2巻5号(一九五八年夏)に掲載されたケルアックの「自然発生的散文の本質」という文章論を取り上げ、ジャズの演奏と文章を書く行為が類似していると考えたケルアックの見方を検討する。ケルアックは、優れたジャズ・ミュージシャンがステージで音の構造や和声を意識せずに即興演奏を繰り広げるイメージを、文章を書き綴る原理に重ね合わせようとしたのであるが、ノフェリは、このケルアックの見方がジャズ・ファンとしての少々単純すぎるものであると考え、即興演奏の前提として多くの準備、修正、思考などが存在していることを彼が理解していなかったと指摘している。この指摘は、前のところで紹介した「詩とジャズ」で展開されていたレクスロスのリハーサルの重要性の主張に重なるものである。 しかし、ノフェリによれば、ジャズを散文のモデルにして『オン・ザ・ロード』を書いたことは、ケルアックの作家としての経歴において決定的な瞬間となったのであり、その自発性のモデルとしてジャズを用いることにした彼の決断が、さらにギンズバーグに「吠える」を書くにあたって深い影響を与えたのである。
 ノフェリはそこからジャズ・ミュージシャンの発言と彼の作品を比較対照しながら詳細に検討を加えていく。
 ニューヨークのコロンビア大学でケルアックとギンズバーグとウィリアム・バロウズが出会った一九四四年は、チャーリー・クリスチャン、ケニー・クラーク、チャーリー・パーカー、デイジー・ガレスピーらによってビ・バップが新しいスタイルとして認識されるようになった時期である。しかし、この時期から、ケルアックが処女作『ザ・タウン・アンド・ザ・シティ』(一九五〇)を発表するまで、ジャズの影響は彼の文章に及んでいないのである。前にも触れたように、この処女作ではアメリカの作家、トマス・ウルフの過度の修辞的言い回しによる伝統的な形式や文体がケルアックのモデルであった。ノフェリは、そのような彼がジャズの表現形式に関心を持つに至ったきっかけを明らかにする。 『ザ・タウン・アンド・ザ・シティ』を読んだ作家のジョン・クレロン・ホームズが彼に手紙を書いて、伝統的形式を捨てるように忠告し、ベニー・グッドマンの一九三八年のカーネギー・ホール・コンサートのレコードに言及して、ベニー・グッドマンの演奏がケルアックの散文において模倣すべきモデルなのだと示唆したという。
 そして『オン・ザ・ロード』に取りかかっていた一九五一年に、ケルアックは集中してジャズを聴き、ジャズマンの最高の自発性という理想像のなかに自分の声を発見したと思われる。その年の十月九日付のニール・キャサディ宛の手紙で、ケルアックは「やっとついに発見した自分のスタイル」と書き、「それで今後は俺のことをリー・コーニッツと呼んでくれ」と言ってその手紙を結んでいる。また、それから数カ月経った翌年の五二年三月十二日付けのホームズ宛の手紙で、「君に知らせるが、ついに、俺はテナー・マンになった、アルト・マンになった、失礼、アルト・マンというのはニールが俺をそう呼ぶんで…」と書いている。
 かくして、ケルアックにとって「書く」ことは「ブローする(吹き鳴らす)」ことになったわけであるが、彼の文体はこれまで日本においてどのように考えられていたのだろう。『オン・ザ・ロード』の邦訳『路上』には、訳者の福田実氏の「訳者ノート」が巻末に付せられているが、そこには文体に関する指摘は特にない。小説『地下街の人びと』は、レクスロスが「詩とジャズ」を発表し、パッチェンがザ・チェンバー・ジャズ・セクステットとともに詩を朗読したLPが出た五八年に出版されているので、この時期の状況の全体像により接近できるように思われるが、最近出版された邦訳では、訳者の真崎義博氏の「訳者あとがき」にこの小説の文体に関する言及がある。真崎氏は次のように指摘している。

 この小説を特徴づけるのは何よりその文体だろう。ケルアックはスタイルの作家だった。ここでは二つの手法が多用されている。ひとつは大学時代に影響を受けたジェームズ・ジョイス(本書中にも『フィネガンズ・ウェイク』への言及がある)の「意識の流れ」の手法だ。これによりレオの内面が照らし出されている。もうひとつはジャズのバップ(本書中にもバップの帝王、チャーリー・パーカーが登場する)のアドリブに倣ったフレージングやブリージングの語法だ。意識的にダッシュを多用した文体によりリズムが生まれ、とかく饒舌になりがちな「意識の流れ」の叙述を抑制している。(同書、一九三〜四頁)

 もう一つ他の例をあげておこう。アメリカ現代詩共同訳詩シリーズの第一巻、『ジャック・ケルアック詩集』(思潮社、一九九一)の訳者の一人、高橋雄一郎氏の「解説」に次のような文体に関する指摘がある。

 しかしケルアックを読む時、我々はさらにもう一つのビートに気付く。それはジャズのビートである。小説も含め彼の作品中にはジャズを聞きに行く場面が多く登場する。ケルアックとジャズとの関係は単なる思い入れをはるかに超えたものであり、彼の思考や文体の中でジャズのビートが息づいているのだ。……スイング時代の秩序だち、一貫したリズムとコード進行から解放されたバップのインプロヴィゼーションはケルアックの散文や詩に自然と溶け込んでいった。(同書、一七二頁)

 ノフェリの考察を検討してきたところから考えると、真崎氏の指摘の方がケルアックの文体の特徴をうまく捉えているように思う。「あとがき」や「解説」のように限られた範囲では、文体の特徴を詳細に分析することはできないので、このように指摘されていることで十分だと言わなければならないだろう。ここで大事なのは、それを問題にしたノフェリがどこまできっちりとその仕事をしているか、ということになるだろう。
 ノフェリは、ポール・バーリナーによる『ジャズの中で考える』(シカゴ大学出版、一九九四)からジャズ・ミュージシャンの発言を引用しながら、それとケルアックの作品の文体とを比較検討する。
 彼が引用しているベーシストのバスター・ウィリアムズのソロ演奏に関する発言を孫引きしよう。

 私はひとつのストーリーを語りたいと思う。その最高の方法はしっかりと準備することだ。これをうまくやるためには、間の使い方がとても重要で、まばらで簡潔にということ、初めに短くて意味深いフレーズを演奏し、そこからソロを創り上げていく。マイルス(デイビス)がそのチャンピオンだ。(バーリナー、二〇一頁)

次いで、ピアニストのケニー・バロンの発言である。

 ソロを駆け足で始めてはいけない。初めに、できるだけ、とても簡単に演奏する、抒情的なアイデアでね。激しさが形づくられるにつれて、もしそうなるとして、アイデアはいくぶん複雑になるかもしれない。もっと長いものになるかもしれない。
 山あり谷ありだよ。曲の中には、和声的に展開するところがあるし、特定の箇所で激しさが増さなければならないというところもある。(バーリナー、二〇一頁)

 バーリナーが注目しているのは、ジャズ・ミュージシャンが、どのように即興演奏をするのかということを述べる際に、ソロ演奏についての言及の枠組みとして物語の文学的モデルを用いていることである。ノフェリは、ケルアックが、自分の散文に音楽性性質を持たせ、自分の散文に、ミュージシャンが即興でするように、感情の激しさを注ぎ込むために、同じやり方を用いている、と主張する。そして、このジャズのテクニックがもっとも明らかに使われているのは、当然なことに、彼が音楽そのものを描写するときであると言う。そして、ノフェリはこの作品の中からピアニストのジョージ・シアリングを聴きにいく場面を引用する。少し長い引用になるが、大事なところなので、同一箇所を福田訳の『路上』(河出文庫、一九八三)から次に引く。

 ディーンとぼくは、長い気狂いじみた週末の間に、シアリングに会いにバードランドへ行った。十時だというのにその会場は閑散としていて、ぼくらが最初の客だった。シアリングが出てきた。彼は盲人で鍵盤のところまで手をひかれてきた。気品ある容貌の英国人だった。硬い白いカラーをつけ、いくらか肉づきがあり、金髪だった。彼を包む微妙なイギリスの夏の夜の雰囲気が、彼の弾く最初のさざ波をたてるような甘美な曲の中から現れ出た。ベース弾きはうやうやしく彼の方に上体をまげて、ビートをつけた。ドラマーのデンジル・ベストは手首でブラシを動かしているほかは、身じろぎもせずに坐っている。やがてシアリングは体をロックし始めた。微笑が、彼の恍惚とした顔の上に不意に現われた。彼はピアノの椅子の上で、前後に、はじめのうちはゆっくりと体をゆすった。それからビートが高くなった。すると彼は急速に体を揺りうごかしだした。彼の左足が一つのビートごとにジャンプした。首はねじれるように、揺れ始めた。彼は鍵盤に顔を近づけて、髪をかきあげる。櫛を入れてあった髪がばらばらになり、汗が流れ始めた。音楽は景気づいてきた。ベース弾きは弓なりに身を乗りだし、しだいに速く弦を鳴らした。どんどん速くなっていきそうなところで、シアリングは和音を弾き始めた。その和音は大雨を流したように、ピアノから流れでた。まるでその和音を整えるひまがないのではないかと思えるようだった。それは波のようにとどろいた。人々は彼に向かって、「やれ!」と叫んだ。ディーンは汗を流していた。汗は彼の襟を流れ落ちていた。「そこだ!そら!神様!神様のシアリング!そうだ!そうだ!そうだ!」シアリングは彼の後ろにいる気狂い男に気がついた。ディーンの息切れや弥次がすっかり聞えた。姿こそ見えなかったけれど、彼はそれを感じることができたのだ。「その通り!」と、ディーンはいった。「そうだ!」シアリングはほほえんだ。彼は体をロックした。シアリングは汗をたらしながらピアノから立ちあがった。この頃が彼の偉大な一九四九年の時代で、まだクールで商業的なものがまったくなかった時代だ。彼が退場すると、ディーンは主のいないピアノの椅子を指して。「神様の空席だ」といった。……(一八三〜八五頁)

 先に引用した二人のジャズ・ミュージシャンの示唆がケルアックの文章の展開に見事に当てはまっている。淡々とした描写が次第に激しさを増していく、その運びがジャズの原理に導かれた文章として頷くことができる魅力と説得性を確かに持っていると感じられる。シアリングの演奏をイメージの対象として、ケルアックの筆が「自然発生的なバップの韻律法」を吹き鳴らしているのである。
 前に触れたように、ノフェリは、ケルアックが作家としての自分をジャズ・ミュージシャンと同一視して、性急に即興演奏の構造と文章作法を結びつけたことに関しては、リハーサルの前提を考慮に入れていない誤解であると判断しているが、この長い引用の箇所に明確に示されているように、ジャズの語法や技術を散文の中に取り込むことには成功しているのだと認めている。
 ギンズバーグに関するノフェリの分析に触れる余裕がなくなってしまったので、一九五九年に出版されたケルアックの『メキシコ・シティーブルース』の冒頭の注意書きを、思潮社版の『ジャック・ケルアック詩集』から引用して結びとしたい。

俺のことは、
日曜の午後のジャム・セッションで
蜿蜿とブルースを吹きまくる
ジャズ詩人だと思ってほしい。
二四二のコーラスを演奏するけれど、
俺の思考は不規則で、
コーラスからコーラスへと跨ったり、
あるコーラスの途中で始まって
別のコーラスで終わったりするから
御用心。
          (十二頁)



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