幕末維新大坂散歩 第5部   新選組 無念の帰還  

                南部藩蔵屋敷 

                    慶応4年1月7日  大坂
           
               鳥羽伏見戦の本質は政治的な敗北でした。
               公武合体路線の瓦解とともに武力倒幕の流れが大きく広がるきっかけになります。
               徳川慶喜の大坂脱出が鳥羽伏見戦争の仕上げになりました。
               残された幕軍にとって大坂からの総退却が残された唯一の選択でした。
           
               天満八軒家で戦闘態勢を維持する新選組。
               退却戦の混乱の中で、大坂到着が遅れている隊士をギリギリまで収容しなくてはなりません。
               吉村貫一郎など行方のしれない隊士が少なくないのです。
               
               最後まで矜持を失わない、無念の帰還が迫ります。                




       T 鳥羽伏見戦争と大坂の史跡

            @ 会津兵の攻撃に自ら火をはなって炎上した薩摩藩蔵屋敷(上屋敷)

               西区土佐堀 現在 三井倉庫
              ※ 薩摩藩は、このほか中屋敷(江戸掘)、下屋敷(売立堀)を所有。
               神戸海軍操練所が廃止された時、土佐脱藩浪士たちが薩摩藩邸にかくまわれていますが、薩摩藩と大坂のかかわりが藩邸
                   の数にあらわれているようです。                   

            A 会津藩士墓地 天王寺一心寺
               新選組と最も深いかかわりのある藩ですが、愚直に幕末を戦い抜きました。
                  

              
              鳥羽伏見戦の負傷者は舟利用で大坂城まで退却。後送された戦死者、その後の死亡は大坂で埋葬。
              
            B 会津軍撤退の道
               熊野街道(大阪市中央区安堂寺町1)

              紀州藩が退却を助けることになり、まずは大坂から紀州まで後退し海路で撤退。
              幕府艦船も紀伊由良に寄港。
              ※見廻組佐々木只三郎も重症の身を紀州まで運ばれましたが、紀州で死亡しています。
                     

            C 大坂城

              乾櫓 
                幕軍総退却後炎上 乾櫓はその後再建されました。
              ※ 大坂城は幕府軍撤退後略奪にあい、また、火災により大部分≪本丸・二の丸・櫓・門など≫が焼失してしまいます。
                  ※ 天守閣は江戸時代≪17世紀半ば≫に焼失、その後再建されませんでしたので幕末にはありませんでした。
 
                
            D 南部藩大坂藩邸 中央区北浜3 
                   
新選組吉村貫一郎終焉の地
                                                  
            E 天満八軒家                
            F 天保山  大阪市港区
               大阪湾2004

              天保2年安治川河口浚渫(大坂港整備)時の土砂で築かれた山ですから、天保山の名称になりました。大坂港の代名詞化。
           
                     2004年天保山                                       文久3年天保山地図

            G 京都見廻組ゆかりの地
                ※近日写真
           

      U 無念の帰還

     
1 天保山

        
 天保2年の安治川河口浚渫の際にでた大量の土砂で築き上げられた山の名前ですが、大坂港の意味でもあります。
            新選組は、天満八軒家から川舟で天保山に向かい、幕府軍艦(順動丸・富士山丸)に乗船して海路を江戸に向かいます。
            富士山丸には負傷者が乗船。
  
          
       
                                                          
          2 南部藩蔵屋敷
       
南部藩蔵屋敷は、北浜過書町に彦根藩蔵屋敷と並んでいました。川伝いに東に行くと天満八軒家、藩邸の南(裏)は
           適塾、栴檀木橋を渡った中之島には福井藩蔵屋敷など、という位置でした。
            南部藩蔵屋敷は新選組隊士吉村貫一郎悲劇の地です。浅田次郎さんの「壬生義士伝」をお読みになれば、いきさ
           つを詳しくお知りになれるでしょう。
               
              
 
                                             土佐堀川にかかる栴檀木橋から見る南部藩邸所在地

           3 富士山艦 

              富士山艦乗船の新選組隊士は負傷者でした。近藤勇、沖田総司、山崎蒸などが乗船していました。山崎蒸について
            は、淀千両松、あるいは八幡・橋本での戦死説もありますが、富士山艦乗船、紀州沖で死亡・水葬という説をとりました。
                 

           4 大坂城炎上
              
              慶応4年1月9日の焔硝蔵に続いて、10日城内から出火した火災は広がり、大坂城のほとんどの築造物が焼失してし
             まいます。 
              玉造口
             玉造口も炎上しましたが、再建されませんでした。
             旧幕府兵による計画的な行動の可能性が濃厚です。1月10日、大坂入りした新政府軍は城外に屯営をおくことになり
            ます。薩摩軍は南御堂、長州軍は川崎東照宮(建国寺)です。
             元和元年6月8日、大坂夏の陣による豊臣家滅亡に際して、大坂城炎上の炎を背景に徳川家康はひたすら京街道を
            伏見まで馬を駆ります。慶応4年1月10日、京街道を進攻する新政府軍を迎えたのは炎上する大坂城でした。
             
             

        ちょっと休憩

          @ 南部藩蔵屋敷、慶応4年1月7日の所在

             仮屋敷として網島(現都島区網島)所在説があり現在調査しています。つまり、仮屋敷に移転した事情を確認したいので
           すが、難しい課題のようで時間がかかるかもしれません。それまでは北浜過書町所在といたします。
            
            ※新選組関連書物のいくつかに網島仮藩邸の記述があり、調査していますが、まだ確認できません。 
                             

                            
            
          交通と観察のポイント

         ● 薩摩藩蔵屋敷(上屋敷) (西区土佐堀3)
            三井倉庫の敷地に石碑がたっています。
            交通 大阪市営地下鉄肥後橋駅歩10分 京阪線淀屋橋駅歩15分
              
         ● 会津藩墓地 一心寺 (天王寺区逢坂2)
            境内に墓地及び鳥羽伏見戦東軍戦死者の招魂碑(旧幕府関係者が明治31年に建立)がたてられています。
            道路を隔てた向かいが大坂夏の陣・真田幸村の戦死地です。つまり、元和元年5月7日、夏の陣最大の激戦地です。

             口縄坂 
            かっての海食崖の名残である急坂の景観が美しい上町台幕末を含めゆっくり歴史の散策を楽しみたい地域です。
                
            交通 大阪市営地下鉄四天王寺夕陽丘歩10分
           
         ● 南部藩大坂藩邸 (大阪市北区北浜3)
            位置、環境などをを確認しておきたい。
            交通 京阪電鉄線 北浜駅・淀屋橋駅すぐ

         ● 天保山 (大阪市港区築港3)
            遊覧船による大阪湾クルージング(天保山出航)、天保山公園など幕末を楽しめます。
            坂本龍馬ゆかりの地でもあります。
            ※ミュージアム
            海遊館≪水族館≫
            サントリーミュージアム天保山 
            交通 大阪市営地下鉄大阪港駅歩