幕末維新大坂散歩 第4部   新選組  消えた活動

幕末の大坂


     文久3年地図 

   
       長州藩蔵屋敷跡碑 


長州藩蔵屋敷近くの堀川(土佐堀川)2004年

      天下の台所 

      幕末の大坂には、130余の蔵屋敷がありました。蔵屋敷はいうまでもなく諸藩の経済的拠点です。
      しかし、幕末には、政治的にも軍事的にも大坂藩邸の重要性が増していきます。
      たとえば、池田屋事件、禁門の変の影響で幕府の神戸海軍操練所が廃止された時に、坂本龍馬など土佐脱藩塾生たちは、
      幕府の追及をかわすため薩摩藩邸に隠れます。藩邸は治外法権地帯であり、また、水運の良い立地は隠密活動には大変
      良い条件でもありました。
      また、風雲急を告げる情勢の中で兵制改革が急がれ、兵站の要としての経済と蔵屋敷の役割は深部において拡大していき
      ます。
         
      
京都の玄関
          
       平安の昔、紀貫之たちは、土佐の国から京の都への帰途、大阪湾から淀川に入り、都に向かいます。大坂は京の玄関で
       した。欧米列強の脅威にさらされ攘夷が急務とされる幕末において、摂海防衛(都の玄関大坂湾防衛)が課題となり、淀川
      右岸山崎と左岸楠葉の関門に攘夷目的の砲台が築かれたのも、大坂の地理的軍事的位置が重要なためでした。
       徳川14代将軍家茂、公卿姉小路公知の摂界海防視察は、このような流れの中で生まれ神戸海軍操練所を誕生させるこ
       とになります。  

       京都を守るためには大坂湾(大坂)で防ぐという発想ですが、これは国内的闘争のレベルにおいても有効な戦略です。
       京都守護職の設置と職掌(職務範囲・権限)はこの戦略のあらわれでしょう。
       21世紀の現在、冠せられた地名は実際の仕事の地理的範囲を意味(大阪府庁の場合、大阪府)していますが、京都守護
       職の場合、京都所司代はいうまでもなく大坂城代などを指揮する権限を持つ大変守備範囲が広い仕事です。
       京都守護職お預かりの新選組の行動範囲が広くなる背景でもあります。
             


      
  幕末の大坂に新選組の足跡を訪ねます

         新選組の大坂における活動の背景として、幕末の大坂のことを考えてみました。
         これを頭においていただいて、さっそく探訪に出かけましょう。
         次のような予定です。
          @ 新選組 in大坂・・・新選組ゆかりの地などのビジュアルでランダムな紹介
          A 新選組の職掌と大坂
          B 消えた活動

          C 探索 町奉行所与力暗殺 
     

  T 新選組 in大坂

      新選組ゆかりの地探訪


    @大坂屯所

          
                   文久3年地図                     万福寺から大宝寺に向かう源聖寺坂        大坂屯所万福寺


         
       隊士宿舎大宝寺                         生国魂神社                       大宝寺から生国魂神社への道
   ※ 寺町の一角、熊野街道、生国魂神社
至近に大坂屯所が設けられていました万福寺から源聖寺坂を登ると上町台で、左に行くと生国魂神社、右に行くと大宝寺です。
        
                                  


   A大坂の治安機関 

         
                西町奉行所                                  東町奉行所
        

      ※幕末には大坂の治安対策で大変複雑な状況が生まれていきます。新選組も必然的にこれに巻き込まれることになります。



   B大坂定宿 八軒家京屋

        水陸交通の要衝
      ※ 江戸引き上げの最後の夜を過ごした地でもある


   Cゆかりの現場

     新町       
      
        新町 大阪屋(書籍取次)       新町街路2004 

      
※ 新町のほとんどは先の戦災で焼失。大阪屋のレンガ造りのビルが戦前の面影をとどめています。


     京街道  ロマンチック分岐点 都島区  
     

      ※ 慶応4年1月6日 潰走の軍のしんがりとしての職責を果たし、やれやれの思いでたどる大坂城への道。

    蜆橋
     北区曽根崎新地1 
      
      
大坂相撲力士とのトラブルの発端現場。当時の川はなく、御堂筋に面した滋賀銀行の建物に蜆橋跡の表示があります。
        

    
  ぜんざい屋事件
      大阪市中央区瓦屋町1

       慶応元年1月、谷万太郎などが土佐脱藩浪士「大利鼎吉」などが潜むぜんざい屋を襲撃した現場。道路際に石碑がたっていますが、石碑はこの事件
      で死亡した大利鼎吉の顕彰碑です。
       ぜんざい屋の屋号は石蔵屋で京都浪士「本多大内蔵」が経営していました。
       第一次長州征伐の時期で大坂城に14代将軍家茂が在城するという緊迫した情勢下で起こった事件です。 


            
     
   U 新選組の職掌と大坂

     @ 変革期のエネルギー

       大塩の乱が幕を開け、黒船来航が引き金をひくことになった変革の時代、各地で草莽のエネルギーが引き出されていきます。
      長州藩では封建身分をこえた兵士の軍隊である奇兵隊などの諸隊が生まれ、幕府においてもフランス式軍事訓練の部隊が組
      織されていきますが、武士階級以外の身分の兵士が主流でした。
       変革の時代は、新しい社会誕生に至る騒乱の時代でもありました。草莽のエネルギーに依拠するという点では、軍事面ばか
      りでなく、治安対策も同様でした。既存治安機関では対応が困難になり、新しい動きが見られるようになります。新選組はその
      ひとつです。
       大坂においても、大坂城代指揮下の東西町奉行所200人ほどの人員で、騒乱の時代を乗り切ることは不可能でした。幕府は
      大坂を4等分して、紀州藩などの諸藩に市中警備を命じます。しかし、実際の日常的業務で大きな役割を果たすことになるのは
      大坂の博徒でした。文久から慶応に至る騒乱の時代の大坂の治安は、京都同様、非常時のシステムに変身します。
      
     A 広域的統括司令部の誕生と大坂
    

       新選組の上部機関、京都守護職は、既存諸機関である京都所司代、大坂城代などを指揮する権限を持つ、広域的統括的機
      関です。先にも述べましたが、京都を守るためには、大坂などを視野に入れて、広域的に対応する必要が強くなっているからで
      す。
       新選組は、京都守護職所属の広域警察隊とでもいうべき役割です。大坂も日常的業務の対象地域のひとつです。ただし、大
      坂独自の治安組織が生まれるなど、大坂自体が新しい治安システムの胎動期でもあり、実際の活動においては、複雑な状況
      が生じていた可能性があります。たとえば、浪士対策は、本来町奉行所の管轄ですが、これに諸藩警備隊が加わり、さらに新
      選組が加わるという重層的で複雑なものになっています。


   V 消えた活動
      

     新選組と大坂の関係はどこか副次的性格を帯びた印象です。

       記録された事件などの政治性の乏しさがおそらくその理由です。たとえば、大坂相撲力士との喧嘩騒動、町奉行所与力暗殺、
     新町など遊郭での活躍、鴻池・平野屋など豪商からの資金調達などであり、攘夷浪士取り締まりなどでの活躍は京都と比較に
     ならない少なさです。
       新選組の大坂での活動は、このように副次的なものに終始したのでしょうか。
       大坂が京都の副次的存在というものではありませんから、大坂の事情、役割が投影された大坂における活動があったのでは
     ないか、という問題を考えてみることにしました。天下の台所、そして京都の関門という大坂の位置はいうまでもなく、軽視される
     べきものではないからです。
 
    
@ 複雑な治安組織

      大坂の治安組織は攘夷浪士等による無法な資金調達、強盗の横行に対して、町奉行所のほかに諸藩による市中警備が始ま
     り、これに新選組が加わるというものになっています。同じ目的の組織の乱立が好ましくないのは当然です。
        

    A 中島登

       新選組という組織の戦闘力が目立つために、新選組の情報活動の充実指向が目立ちません。しかし、情報活動が重視されて
     いたことがいくつかの事例から明らかです。たとえば、生き残り隊士のひとりに中島登がいます。関東における情報収集活動を任
     務としていました。関東における情報活動が新選組の活動にどう生かされるのか興味深い問題です。また、
第1次長州征伐時、
     近藤勇など新選組関係者も視察に出かけていますが、監察の山崎蒸と吉村貫一郎は近藤たちの帰還したあとも残って諜報活動
     に従事しています。日常活動圏をはるかに離れた情報活動の目的はどこにあったのでしょうか。時局を分析して生きる道を展望す
     るために独自の情報収集を必要としたのかもしれません。注意したいのは、日常圏内をこえた情報活動の重視から、日常活動に
     直結した情報活動の濃密であることの可能性です。
      しかし、情報活動は、その性格からして、活動内容は秘匿されその成果は別の活動として顕在化することになります。つまり、
     消えた活動になります。中島登がどのような情報を集めて、それがどのように利用されたのか。あるいは、長州などで山崎蒸たち
     はどのような情報を集めて、それが京都における新選組の活動にどう反映したのか。結果はあるとしてもその内実は不明です。

    
B 消えた活動

      新選組の大坂における活動は、受ける印象よりもはるかに深いのではないでしょうか。
      戦線後背地におけるあまり日常性を感じない活動という見える活動の背後に、しのぎを削る情報活動がかくされているのかもし
     れません。活動性が表面化するのは京都ということになっているのかもしれません。制服の資金が大坂で、市中見回りなどで派
     手に目立つのは京都というようにです。

       

   W 探索 町奉行所与力暗殺

   
 天神橋 2004年 

     @ 新選組による暗殺説の遅い登場 

       元治元年5月20日、天神橋で西町奉行所与力内山彦次郎が暗殺されました。
       幕末迷宮入り事件のひとつです。
       明治27年になって西本願寺の寺侍であった西村某の「壬生浪士始末記」で新選組による暗殺説がはじめて登場します。同書
      では暗殺の動機を前年の大坂相撲力士との
喧嘩騒動の際、内山彦次郎の対応が新選組を軽んじたものであることを根に持っ
      たものであると記述されています。
したがって、暗殺動機の矮小、冷徹な組織的実行という陰惨な殺し屋集団新選組のイメージ
      が強調されることになりました。
        しかし、ふたつの理由から西村の取り上げる新選組説の根拠が成り立たないことがはっきりしてしまいました。ひとつは、力士
       との喧嘩騒動において、新選組が届け出をしたのは「東町奉行所」ですが、内山彦次郎は西町奉行所の与力であり事件との接
       点がありません。もうひとつは内山彦次郎は経済事犯専門で喧嘩騒動には経済的要素が全くないという点でも接点を欠いてい
       ます。また、内山彦次郎が東西奉行所の与力の関係改善に取り組んだという経過もあり、東町担当事件に割り込むという逸脱
       行動の目的が不明です。西村による新選組説は破綻しているといえるでしょう。

        しかし、この説が与えた影響は、軽んじることはできません。それどころか多大な影響を与えたということがいえるでしょう。
       時流にのっていたからです。
        新選組の評価に客観性が加わるのは、昭和初めに子母澤寛が新選組三部作を著し、同時期に坂本龍馬に近い土佐の田中
       光顕が「私と近藤とは考えが同じであった」と発言するなどの動きがあり、評価の客観性を促すことになります。しかし、西村説が
       登場してから30余年の時が経過しています。その間関連するいくつかの著作が世に出ています。新選組幹部、永倉新八の「伝
       記」もそのひとつて゜す。
新選組犯行説を裏書きすることになる著作なのですが、唐突に世に出た印象があり伝記作者の創作の
       可能性が指摘されています。次のような理由です。
        @内山暗殺の時期は5月なのですが、秋の事件とされています。
        A元治元年の事件を慶応3年としています。
        B加わった隊士は近藤勇、土方歳三をはじめとして沖田、永倉、原田、井上などの10名という主要幹部を網羅。
        この時期、新選組をとりまく状況は厳しく、4月に見廻組が設置され、また攘夷浪士の上洛も多く、暗殺半月後には池田屋事件
       勃発という緊迫した局面にありました。幹部をあげて大坂暗殺行を行う状況ではありません。
取材記者の検証能力に疑問符がつ
       くところです。記者の創作というよりも、新選組説という時流にのった勇み足の可能性があります。

       
      
      A 幕末大坂の治安と混乱
       
        NHKのドラマ「新選組」を楽しんでいましたら、新選組と力士の喧嘩騒動の場面で、内山彦次郎が力士たちに八角棒という
       武器を手渡している場面がありました。いったいなんなんだ・・・と疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう。当時の大坂で、治
       安維持のために力士たちを使っていたからなのです。治安対策上力士たちを使う必要が生じた理由ははっきりしています。攘
       夷浪士とそれに便乗した徒党による「攘夷を名目にした御用金強奪」などが激化していたからなのです。八角棒の手渡しは力
       士たちに治安出動を命じる儀式的場面なのです。つまり、力士たちはこの手続きを経て、公儀御用を果たすために新選組のい
       る北新地の遊郭に向かったということになるのです。 この八角棒の手渡しを内山彦次郎が行っているところに含みがあります。
       つまり内山に命じられた出動ということになるのです。
        しかし、大きな問題点があります。新選組が事件を届けたのが東町奉行所ですから、事件の月の当番奉行所は東町奉行
      所です(ドラマでもそのようになっています)。したがって、西町奉行所所属の内山彦次郎は非番なのです。事件に対して責任を
      負っているのは当然東町奉行所です。内山彦次郎の行動が事実とするならば、幕府のシステムを無視する重大な行為です。
      力士の側が非番の内山を頼ったという場合でも、職権のない内山彦次郎が私的な出動を力士たちに命じて混乱を拡大したこと
      になります。内山彦次郎は責任を逃れることはできないでしょう。しかし、内山彦次郎がこの事件で責任を問われた史実がない
      ことを考慮すると事実無根なのでしょう。だから、この件に内山彦次郎が登場するのは、西村による内山暗殺新選組犯行説が
      登場して新選組の暗殺動機をこの事件にあると描写したことから始まっているようです。
        さて、内山彦次郎の問題はともかく、力士が治安維持の一角を担っている存在として、喧嘩の発端になった蜆橋の事件を考
      えてみましょう。
        芹沢鴨は、身分の低い力士が当然道を譲るべきだと思っています。
        力士は、不逞浪士に道を譲るべきではないと思っています。不逞浪士対策の一翼をになう存在なのですから。
        奇妙な事態が引き起こした不幸な結果という可能性があります。


     
B 誰が暗殺を・・・・? 
       
       幕末の大坂の治安状況の奇妙な事態が引き起こした力士と新選組の喧嘩騒動。
       幕末情勢を反映して、幕府は諸藩に大坂市中警備を命じています。しかし、これも奇妙な事態を引き起こします。担当すること
      になった藩は、博徒に警備を委託するなどの離れ業を見せ、自らの負担を軽減しようと試みます。賭博行為など取り締まりの対
      象になっていた存在が取り締まる側に変るわけですから。
        幕末兵制の変革に際して、草莽のエネルギーの組織が問題になっていますが、幕府のフランス式部隊にも博徒などが加わっ
      ています。大河ドラマ新選組においても清河八郎に率いられて上洛する浪士隊に博徒が含まれていました。こういう状況だった
      のです。
        新選組と力士の喧嘩騒動は、奇妙でおかしい大坂の治安状況が背景にあった可能性を指摘しましたが、内山彦次郎暗殺の
      背景としてこの問題を提起することができるかもしれません。 
        新選組説は、動機、実行時期、実行人員などからみて、冤罪の可能性が濃厚です。
        さて、与力という仕事から一般的にもうらみをかっている可能性は高く、このような事情があるところに、治安状況も含めて社会
      的混乱が拡大して、相対的に奉行所の力が後退する状況を報復の機会とみる動きが生じた可能性があります。たとえば、先に
      取り締まりの対象が取り締まる側に変身するという問題を提起しました。状況の変化が犯行のきっかけになりえた可能性があり
      ます。
              

           
    
                                                               公開2004年6月27日
               

        交通と観察のポイント

       1 長州藩蔵屋敷跡

         近接して薩摩藩などの蔵屋敷が立ち並ぶ。禁門の変に際して新選組は長州藩蔵屋敷を捜索。大村益次郎もこの近くに 居住し適塾に通っていました。
         
  交通 京阪線淀屋橋駅歩10分、大阪市営地下鉄肥後橋駅歩6分 

       2 大坂東町奉行所跡 

         西町奉行所とともに大坂の治安維持にあたった。江戸の南北奉行所と同様月毎の交替で仕事に従事。現在、国の合同庁舎が建てられています。大
            坂城至近。八軒家もほんの近くです。大坂相撲との喧嘩騒動の際、新選組はここに届けでました。 

         
  交通 京阪線天満橋駅、大阪市営地下鉄線天満橋駅 歩5分

       3 大坂西町奉行所跡

         東横堀沿いにあり、北に進むと天神橋。大阪商工会議所、マイドーム大阪のところです。
           
交通 京阪線天満橋、大阪市営地下鉄線天満橋、谷町4丁目 徒歩 

       4 大坂屯所万福寺、大宝寺

         戦後の建物。城下町につきものの寺町の中にあり、魅力的な景観で散策が楽しい。寺町はいうまでもなく、防衛を視野に入れた都市計画から生まれ
            ています。散策の際にそのあたりも観察すると良いでしょう。 近くに生国魂神社があり、一角に桜田門外の変に呼応して大坂挙兵を計画した水戸浪士
            の顕彰碑が建てられています。
近日 写真で紹介。
          交通 大阪市営地下鉄線谷町6丁目駅徒歩10分

       5 石蔵屋跡

        
松屋町筋に面して石碑がたっています。
            
交通 大阪市営地下鉄線松屋町駅すぐ 
        

       6 天満八軒家京屋   

         古代からの交通の要衝。船宿のひとつ京屋は新選組の定宿でした。幕府諸機関が近く、なにしろ交通の便利が良いのです。船宿ですから、北新地や
            新町に舟で手軽に出かけることができたでしょう。大河ドラマ新選組で新町で遊ぶ場面がしばしばでてきますが、舟で大川、横堀という具合にほとんど
            歩かずに新町に行くことができました。芹沢鴨たちも大坂相撲の力士との喧嘩騒動の直前まで舟遊びをしていました。斉藤一の腹痛のため、やむなく
            鍋島河岸で上陸して北新地に徒歩で向かうのですが、舟遊びの後でそのまま舟で北新地まで直行という当初の目算ではなかったでしょうか。 

         
  交通 京阪線天満橋駅、大阪市営地下鉄線天満橋駅 すぐ

       7 天神橋
         
         名前の通り「天満の天神さん」に至る橋。八軒家から下流ひとつめの橋です。西町奉行所を出て北上すると天神橋です。与力役宅は天神橋を渡っ
           た淀川右岸、現在の大阪造幣局の所にありました。

            
交通 京阪線天満橋駅、大阪市営地下鉄線天満橋駅 歩5分 

       8 京街道・ロマンチック分岐点 
          
         大坂城(大坂)との「出会い」と「分かれ」の分岐点。新選組にとって、慶応4年1月6日の退却が最後の通過になりました。歴史の分岐点でもありました。 
             現在は京阪線、JR線、大阪市営地下鉄線の交錯するターミナル。京街道にはいくつかの商店街が形成されています。

         
   交通 京阪線、JR線、地下鉄線 京橋駅歩すぐ        

       9 新町          

         大河ドラマ新選組では、近藤勇と深雪太夫との出会いがドラマチックに描かれています。舞台になった新町は先の戦災で焼失してしまいました。芸妓
            さんたちの華やかな舞台であったレンガ造りの建物のみが面影をとどめています。近くには
有名な四ツ橋、心斎橋がありますように、水の都らしいす
            てきな空間であったと想像されますが、近藤たちは、先にも記しましたが、徒歩ではなく、八軒家京屋から舟で新町にきています。
            交通 大阪市営地下鉄四ツ橋駅、心斎橋駅 歩5分