幕末維新大坂散歩 第3部  福沢と大村   どこまで先が見えるか




                          スクランブル空間・大坂

                      
                                                  
新羅江(八軒家浜)

         「水の都」大坂には古代からさまざまな人々の往来がありました。たとえば、近世交通の要地八軒家浜は、かって新羅江
        とも呼ばれていましたが、古代朝鮮半島の国家名が冠せられた地名であり、往来が国際的でもあったことを示しています。
         人の往来は、いうまでもなく、さまざまな夢や可能性、エネルギーなどの往来・交錯・集積にほかなりません。
         さまざまな人々とさまざまな夢がぶつかり交じり合うエネルギーに満ち溢れた空間。
         フロンティアですね。私たちはこのような空間をスクランブル空間と呼ぶことにしました。ここでは人の可能性が引き出され
        ていきます。

          スクランブル空間とは・・・
          スクランブル・エッグという言葉をご存知でしょうか。ごちゃごちゃかき混ぜるという意味があります。かき混ぜることで美味
         しい卵焼きが出来上がります。スクランブル空間に私たちは、「多様な要素を混ぜ合わせて総合化することで、広い視界は
         もとより、可能性が引き出され、新しいものが育まれる空間」という意味を与えています。
          大坂はこのような意味でエネルギーと可能性に満ちたフロンティア空間でした。
          近世大坂も、日本の物流・経済の中心でさまざまな文化・情報が行き交い・交錯するスクランブル空間でした。
          たとえば、情報の集積の一例として、井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」の発刊を上げることができるでしょう。

             
      
        

            どしょうまち
    T 道 修 町    
             
             
                  道修町景観2004年                                   道修町の歴史を伝えるミュージアム
                

         大阪市中央区の一角にユニークな町があります。道修町といって薬業関連の商店が江戸時代から軒を並べている
        地域です。江戸時代には和漢薬の原料(薬種)の流通の中心でした。とくに中国や周辺から長崎に輸入された唐薬種はここ
         にすべて入荷され、真偽、量目などがチェックされてから全国に流通していくシステムでした。いまでも、たくさんの製薬会社
         などの社屋が見られます。お米ももちろん重要ですが、大変重要な社会的役割をになってきた地域といえるでしょう。
          蔵屋敷が軒を並べる中之島、堂島、そして交通運輸の要衝八軒家、京街道の起点高麗橋も近い、近世大坂の中枢部に
         ありました。
         天保9年、大塩平八郎の乱の翌年、道修町の近くにユニークな医学・蘭学を教える学塾が産声を上げました。適塾です。
         物流経済と文化・教育の統合されたスクランブルシステムです。
         20数年間全国から来坂した塾生を育て、福沢諭吉、大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介など幕末維新の変革期にユニーク
         な活動を行う人材を多数輩出することになります。
         ここに異色の幕末維新が生まれるのは偶然ではありません。
                        

       U 適 塾 もうひとつの幕末維新
     

         適塾 緒方洪庵像 
  

        さまざまな塾生たちの夢や希望、エネルギーの交錯の場、システムでもある適塾は、物流・経済と文化の交錯する場でもあり
       ました。適塾のようすを伝えるものに福沢諭吉の「福翁自伝」や、手塚治虫の「陽だまりの樹」があります。自由、奔放に学問に
       ふける塾生のようすが描かれています。マンガ家手塚治虫の曽祖父「手塚良庵」も塾生でした。福翁自伝には先輩福沢諭吉が
       手塚良庵を指導する場面が記述されています。
         さて、多くの塾生たちの中で、福沢諭吉と大村益次郎を標題にして、副題として「どこまで先が見えるか」としています。
         時代の転換と新しい社会の建設において、福沢は教育者として、大村は軍人として、独創的で異色の役割を貫いています。
       先が見える視界の広さが独創を可能にした理由のように思われます。華々しさを欠いていますが、時代をつくる着実な仕事がな
       し遂げられています。
                 

 
          


       V 適塾と道修町
        
          明治になって薬剤の流通システムは大きく変ります。道修町の人々は新しいチャレンジを始めます。
          薬学校の開設などユニークな動きがあり、これは後に大阪大学薬学部に発展することになります。
          物流経済と文化教育のスクランブル「適塾と道修町」の流れは明治にも引き継がれていきます。


        
     
       ちょっと休憩

        1 マンガ「陽だまりの樹」 
          手塚良庵と適塾。幕末の大坂の描写が興味深い。何巻もある大作ですがチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
          適塾は、天保9年瓦町に開設し、その後天保14年に北浜過書町に移転しました。
          南部藩蔵屋敷が近くにありました。浅田次郎さんの「壬生義士伝」かかわりの蔵屋敷です。

        
● 交通・案内

      
1 適塾 
          所在 大阪市中央区北浜3−3−8 06−6231−1970
          開館時間 AM.10:00〜PM.4:00 休館 月曜(祝日の場合開館)・国民の祝日の翌日(土・日・祝日の場合開館)・年末年始
          入館料要 
          交通 京阪線・地下鉄線 淀屋橋駅、北浜駅歩5分
        

       
2 くすりの道修町資料館
          所在 大阪市中央区道修町2−1−8 少彦名神社内ビル3・4階 06−6231−6958
          開館時間 AM.10:00〜PM.4:00  休館 日曜・祝祭日・盆休み(8/13〜16)・年末年始(12/28〜1/4)
          無料 
          交通 京阪線・地下鉄線 北浜駅歩2分  京阪線・地下鉄線淀屋橋駅歩7分 


                
        ● その他幕末関連史跡など 
          
        1 南部藩蔵屋敷跡
         
所在 大阪市中央区北浜3
          交通 京阪線淀屋橋駅・北浜駅すぐ 大阪市営地下鉄線淀屋橋・北浜駅すぐ