幕末維新大坂散歩 第1部     水の都


         

  
 豊かな水に彩られた景観は水の都大坂の表象です。
   しかし、ここでは水の都という意味をもっとグローバルに考えています。たとえば、大坂湾の水はセーヌ川につながっているというようにです。
   「水」は開かれた空間の象徴です。水の都大坂はグローバルな文化が交錯する開かれた空間で世界につながる町でした。
    幕末維新は今ふうにいえば、鎖国下日本がグローパルな流れにさらされた歴史的局面です。水の都の役割が速く、劇的に拡大していく過
   程でもあります。
    水の歴史的役割、そして水の都の役割が拡大していくようすを坂本龍馬の文久3年(1863)の足跡を中心にして振り返ることで、幕末の水の
   都の役割を考えてみることにしました。
                      

                           @  藩をこえた広い視界
         
 

    
     
               

   観念的に世界の事情を知るだけでなく、西洋式軍艦を使用した頻繁な江戸と大坂の航海は、当時の交通事情とは異質のもので、
    地理的時間的に世界が圧縮されて見え、具体的に大きな視界を手に入れることができたでしょう。この意味では坂本龍馬は航海“水”
    が育てた風雲児という見かたもできるでしょう。
     下の表は文久3年“坂本龍馬が勝海舟の門人になったばかりの頃”の航海をまとめたものです。大坂と江戸の頻繁な航海は風雲急
    を告げる情勢を投影したものです。この量質ともに卓越した航海体験を軸にした時、日本列島のようすはそれ以前と以後でかなり違っ
    て見えたに違いありません。見落としてならないのは、この航海が地理的に大坂と関連深いだけでなく、文化精神的にも深いかかわり
    がある可能性です。
     大坂を起点にして、さまざまな活動が展開されていきます。当時の日本で最もあわただしく駆け回っていた男ということができるかもし
    れません。客観的事実としては、大坂が活動の基点になっています。天下の台所の動きがリアルタイムで見えて当然ということになる
    でしょう。  
             

                             坂本龍馬の活動と大坂(文久2年12月〜元治元年1月)

文久2年(1862) 12月17日 江戸⇒大坂⇒兵庫(21着) 順動丸 大坂・京都などへ
文久3年(1863) 1月13日 兵庫⇒大坂⇒下田(15)⇒江戸 順動丸
文久3年(1863) 1月25日 江戸⇒大坂 順動丸
文久3年(1863) 3月 6日 大坂⇒江戸 順動丸 新選組誕生
文久3年(1863) 4月 3日 江戸⇒大坂(9着) 順動丸  京都 福井などへ
文久3年(1863) 4月23日 大坂⇒兵庫 摂海(大坂湾)視察 順動丸 将軍家茂の視察 京都海防
文久3年(1863) 4月25日 大坂⇒兵庫 摂海(大坂湾)視察 順動丸  姉小路公知の視察 京都海防
文久3年(1863) 5月2日 龍馬姉小路邸へ
文久3年(1863) 5月21日 神戸海軍操練所発足
文久3年(1863) 7月下旬 江戸へ
文久3年(1863) 9月 9日 江戸⇒大坂(12着)
文久3年(1863) 10月26日 大坂⇒江戸
文久3年(1863) 12月27日 江戸⇒紀伊由良⇒大坂(1/8着) 翔鶴丸 将軍家茂上洛
元治1年(1864)  2月 大坂⇒兵庫(14着)⇒長崎(23着) 熊本などへ
元治1年(1864)  長崎⇒兵庫⇒大坂(4/13着)
元治1年(1864) 4月 大坂⇒兵庫 神戸海軍操練所運営
元治1年(1864) 6月2日 兵庫⇒大坂⇒江戸(17着) 黒龍丸
元治1年(1864) 6月5日 池田屋事件
元治1年(1864) 7月 江戸⇒兵庫大坂(7/20着) 翔鶴丸 禁門変 神戸在 禁門変7/18
               

        A 神戸海軍操練所と大坂、そして亀山社中

                         龍馬の活動基盤形成にかかわる「航海」と「経済」と大坂
                           

  大坂は京都・神戸・そして世界の動向に深くかかわる要衝としてその役割は急激に拡大したようです。たとえば、神戸海軍操練所の設立にも大坂が深くかかわります。神戸海軍操練所設立のきっかけはつぎのようなものでした。
  14代将軍家茂は文久3年の上洛に際して、京都防衛の視点から軍艦「順動丸」で大坂湾海防視察を行いますが、 その際に勝海舟が海軍操練所設立の必要を訴えたところ将軍の承諾を得たことが出発点になっています。
       
 
 大阪湾海防は京都防衛から重視され、広く人材を募集することで多くの
人材を育てる役割を果たします。たとえば、坂本龍馬の亀山社中の中心
になっているのはここで学んだ人たちです。亀山社中という異色の発想が
生まれた背景に、大坂を軸にした数多くの航海体験とダイナミックな経済
政治の動きの知見が投影されている可能性があります。

 坂本龍馬が生みの親であるもうひとつの傑作に幕末の変革を大きく左
右することになる「船中八策」があります。名称通り長崎から京都に向か
う土佐藩船「夕顔」の航海の中で後藤象二郎に語られ15日長岡謙吉に
よって筆記され後藤に示されました。大政奉還という歴史的出来事につ
ながるだけでなく、明治の「五ケ条の御誓文」のベースにもなっています。
                       


 
 左図は、明治元年3月26日、鳥羽伏見戦の勝利後行われた大坂行幸時に明治天皇が諸藩軍艦を天保山“大坂港”から視察したときの光景です。
 大坂湾と天保山、そして海防視察のイメージをつかんでいただけると思います。
 (聖徳記念絵画館蔵) 
 


              
            

                

    ちょっと休憩@
   歴史には奇妙に関連する出来事がしばしばあるようです。たとえば、文久3年の将軍家茂の上洛はふたつのことを生み出します。
 ひとつは新選組であり、もうひとつは、神戸海軍操練所です。新選組は将軍の警護目的に結成された浪士組を母体にするものであ
 り、神戸海軍操練所は将軍の海防視察時に勝海舟が必要を訴え将軍家茂が承諾したことから始まっています。
   おまけに神戸海軍操練所が閉鎖に追い込まれるきっかけになるのが池田屋事件です。
   歴史にもし・・・はありませんが、神戸海軍操練所がもっと長く神戸で活動を続けていたら、大阪湾と大坂、そして京都をめぐる情
 勢は変っていたかも しれません。
  
     ちょっと休憩A        
   大坂と坂本龍馬のかかわりはどちらかといえば、京都や神戸、その他の影に隠れてしまいがちです。実際にはどうだったのでしょ
  うか。客観的事実としての足跡を見ると、とくに龍馬の世界観が確立していく過程(勝海舟の門人となり、勝に従って幕府軍艦で東
  奔西走し、神戸海軍操練所運営に至る1年半の期間)では大坂が活動の地理的基点であることが鮮明です。そして、地理的である
  ばかりか、それ以上の幅と深さを伴う関わりがある可能性を否定することはできません。

 
 

      
       天保山2004 安治川河口 船は遊覧船サンタマリア             天保山頂(中央部塔)