幕末維新大坂散歩 プロローグ 大坂・京橋
京橋北詰「摂津名所図会より」 ←進むと京橋に至る 大阪城「京橋口
@ 街道の景観と大坂城
ロマンチック分岐点
旅人にとって景観は大変重要です。 京橋を出て京へ向かう旅人にとって、大坂とのわかれは大坂城とのわかれでしたでしょう。 京橋を出てしばらくは大坂城を至近(右手)に見ながら進む道で城を背にして歩むまでにはしばらく時間がありました。防衛上の観点から街道の南(城側)に家を建てることができなかったという事情もこれを深めました。 この道程があるから、大坂への思いをふっきり、大坂城に背を向けて歩み出さねばならない地点があるわけで、大変面白い景観です。 分岐点は、たぶん、現在の京阪モール・新京橋・京橋中央商店街あたりです。 さまざまな人々の思いが交錯したであろうユニークな街道地点です。 大坂を去る場合も訪ねる場合も京街道のこの景観が人々に深い印象を残したであろうことが推察されます。 JR線・京阪線「京橋駅」周辺 新京橋商店街 |
野田橋近くから見る大阪城2004年現在 撮影地点
分岐点を過ぎれば、大坂城のふところです。街道の左手は大坂城。
京橋から見た寝屋川
京街道の城側に建物を建てることができなかったため、北側のみの町並みとなり片町と呼称されました。
現在も片町はありますが、京阪線京橋駅(片町口)に片町の名残がみられました。
A 慶応4年1月
新選組最後の矜持・八軒家
慶応4年1月2日、旧幕軍は京都に向けて進撃を開始しました。しかし、敗退を重ね、裏切りが加わり、京街道を
大坂城への敗走が始まります。
淀川に沈む夕陽
退却する旧幕軍兵士たちが大坂城に無事到着の感を抱いたのは、また、この分岐点であったでしょう。
負傷兵は淀川を船で下り、八軒家浜に上陸しました。新選組の負傷者山崎蒸なども含まれています。
新選組は終始最前線で戦い、6日の橋本・楠葉戦においても最前線橋本宿及び八幡山に布陣し、敗走に際しては逆にしんがりを努めることになりました。歴戦の部隊の矜持であり、したたかさでもありましたでしょう。
大坂に着いた新選組は、八軒家に布陣し、翌日7日になって大坂城に入ります。しかし、6日夜将軍慶喜が密かに大坂城を脱出し、軍艦開陽丸で江戸に引き上げたことから、城内は混乱を極めていました。6日にははやくも出火(放火説がある)があり、敵の侵攻とかん違いした負傷者が自殺するなど統率秩序の喪失をうかがわせます。新選組は、再び城を出て八軒家に布陣します。指揮統率のとれた部隊であることを示すものでしょう。
八軒家は淀川水運の要衝、熊野街道の起点、そして天保山(大坂港)と大坂(城)を結ぶ要地でした。将軍の存在しない大坂城ではなく、八軒家を掌握した新選組の行動は秀逸です。城の外に布陣することで、治安対策も含む効果を上げることができたと推察できます。旧幕軍は総退却となりますが、新選組関係者が幕府艦船(順動丸・富士山丸)に乗船して江戸に引き上げることができたのは、最後まで統率と指揮能力を喪失しない部隊であったからでしょう。
順動丸は1月9日、富士山丸は10日に江戸に向かいます。富士山丸には近藤芳助、山崎蒸などの負傷者と近藤勇、沖田総司が乗船していました。紀州沖で山崎蒸が死亡し水葬を行い、1月15日に江戸に到着します。
八軒家は京阪において新選組が最後に示した矜持の地といえるでしょう。
負傷兵が上陸し、新選組が最後に示した矜持の地である八軒家 大坂八軒家“部分” 「淀川両岸一覧」松川半山画 船着場階段
奇兵隊入隊の呼びかけ「その出身を論ぜず、老幼を問わず、一片殉国の志ありと思わん者は来り投ぜよ」に呼応して多くの人々が加わります。以来、長州奇兵隊は、禁門の変、幕府軍の長州侵攻との戦い、そして鳥羽伏見戦争から戊辰戦争と倒幕軍最強の部隊として幕末を戦い抜きました。新選組の好敵手でもありました。淀千両松の激戦においても、奇兵隊の活躍が新政府軍の優勢のきっかけになります。
さて、大坂・京橋と奇兵隊のかかわりとはいったいなんでしょうか。
藤田伝三郎と大阪
初期の奇兵隊に藤田伝三郎という隊士がいました。萩の商人の息子で高杉晋作の呼びかけに呼応して奇兵隊に参加します。禁門の変(蛤御門の戦い)に参加・負傷という軍歴を残します。
禁門の変で敗れた長州軍はたくさんの兵士を失いますが、藤田伝三郎は幕府軍の追撃をかわし、生き残ったひとりです。その後、負傷のため軍を離れました。維新後、関西財界で活躍。
また、収集した美術品を公開するために網島に藤田美術館を設立するなど大阪文化の発展にかかわることになります。
立場は近藤勇など新選組とは異なりますが、草莽の心意気を示した人物のひとりです。
藤田邸跡公園
藤田美術館
ちょっと休憩
@ 軍艦 順動丸
新選組が乗船した幕府軍艦「順動丸」は、勝海舟の門人になった坂本龍馬が最もしばしば乗船して江戸と大坂を往来した軍艦です。 この体験が龍馬のダイナミックな発想を呼び起こしたと思われるのですが、永倉新八など新選組の乗船は時勢を感じさせますね。
交通と観察(史跡・ミュージアムなど散策スポット)
● 大阪城と京橋
京阪線・大阪市営地下鉄線 天満橋駅徒歩すぐ
● 京阪モール・新京橋商店街・京橋中央商店街
京阪線・JR線 京橋駅すぐ 大阪市営地下鉄鶴見緑地線 大阪城北詰駅すぐ
● 野田橋跡の碑
京橋北詰を出て最初にわたる橋
● 八軒家浜
京阪線・市営地下鉄線 天満橋駅すぐ
古代の渡辺津、歴史的な交通の要衝。江戸時代には京都伏見と大坂を往来した三十石船の船着場であり、
八軒の船宿があったことから八軒家の呼称が生まれたといいます。
京都と大坂、西国をつなぐ要衝であり、浪士監視など新選組とのかかわりが深い所でもありました。
現在は、ビルが立ち並ぶ景観でかっての面影はありませんが、石町の一部に八軒家浜の面影を残す階段が残されています。
● 藤田美術館(大阪市都島区網島町10−32 06−6351−0582)
JR東西線大阪城北詰駅すぐ 京阪線京橋駅歩10分
● 藤田邸跡公園
美術館隣 無料
開園 10時〜16時
● コヤノ美術館(大阪市都島区東野田1 6358-7555)
JR東西線大阪城北詰駅歩2分 JR・京阪線 京橋駅歩10分
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