津南の歴史ロマン
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「若き日のために」という本がある、 津南町出身で文学博士石田吉貞氏の顕彰記念誌である。この本の中で大変興味深い話が出ていたので ここで少し紹介しようと思います。(文は昭和59年11月2日津南町役場において講演会のテープ を文章化したもので以下は本より抜粋)


立石と谷内の集落、このどこかに七堂伽藍の寺が
あった と伝えられている。
津南および秋山の歴史

谷内、赤沢の地には今から1千年ばかり前に京都から非常に 身分の高い皇族、貴族達が来て、およそ300年間住み続けました。そして谷内の地に七堂伽藍のお寺が ありました。

その証拠は谷内の藤木家にある古文書に「七堂伽藍を備えた寺があり、その名を龍池山 泉秀院という。」 (七堂伽藍とは金堂、塔、講堂、経堂、鐘楼、僧房、食堂を備えた大きな寺のこと。龍池山とは龍ヶ窪、 泉秀院とはとはきれいな泉の湧くところの意味)
この寺はずっと長く続いたのですが、後世、上杉氏のころ永生の乱で焼かれてしまいました。本尊様は 、しばらく藤木家に安置されましたが、その後天正のころ大井平に移して禅宗に改宗されました。 今の善福寺がそれだ、と書いてあります。そういう寺があったことからしても、此処に貴族が居た ことははっきりしています。また枝村に立石という部落がありますが、京都ではお墓のことを 「立石」と言います。これも泉秀院と関係があると思います。
次に谷内の地内に御所という地名が あることです。「御所」とは天皇に関係のある人のいる所だけに付ける名であります。更に藤木という 苗字は藤原氏から来ているものと考えられます。

今度は谷内を離れて県営牧場あたりに妙法院という寺がありました、叡山派の天台宗で京都にも妙法院 があります。中世になると仏教はがらりと変わります、(1186年)浄土宗、禅宗、日蓮宗と なってくるわけですがこちらの寺は天台宗、真言宗ですから、赤沢に来た人は平安朝の貴族だと 言うことが判ります。それで平安朝の貴族が、どうして赤沢あたりまで来て住んだのか・・・。 これは大変な疑問ですね。

そこで考えられるのは、保元の乱(1156年)です。京都で起こった戦乱は皇族、貴族、武士達が ゴチャゴチャになって戦いました。血族同士の争いですから、負けたほうは処刑される、だから 京都には居られない。しかも高位の人ほど危ないので、ずっと東国の方へ来て上州(群馬県)の 新田氏を頼った者が多かったわけです。新田氏も引き受けたけれども上州へ匿うわけにもいかない、 そこで選ばれたのが赤沢平であります。

マウントパークから赤沢平の眺め、
回りの絶壁が天然の要塞のよう
になっている。
赤沢平という所は、その回りがまるで石垣を築いたように切り立っており、聞くところによると 太平洋戦争で本土決戦となった場合、その拠点地候補にあがったといわれといわれています。 それほどの険祖なので、新田氏がここに平安貴族を匿うことにしたのも当然でしょう。
ところで、この地は新田氏の居る上州からも近いのです。ずっと昔から、上州の草津から秋山郷の 切明まで、いわゆる「草津街道」がありました。この切明から中津川を少し下って、崖道を左に上 がればそこはもう赤沢平です。

上州は縄文土器のあるところでは日本でも有数の地ですが、その時代からすでに往来があったでしょう 。赤沢平にも縄文土器の出る有名な「沖野原遺跡」があります。そんな関係の土地ですから、新田氏は ここに上げて匿った。しかも、天皇、摂政、関白というような身分の人たちもおられるから、本当に 張り切って最大の待遇をしたと思うのです。七堂伽藍の建物を供えたお寺、御所を造営し谷内から 上には貴族の邸宅を建て、そして草津街道を通じてあらゆる物資を運んで来たでしょう。

さて京都はと見ると、保元の乱以後ごちゃごちゃの世が続きます。まずすぐ後に平治の乱が起こる。 次いで源平の争いがやってくる。飢饉で米がなくなる。地震が起きる。とにかく人間の住めない ような状態でした。

京貴族がこの地に来て谷内に七堂伽藍がすぐに建ったとは思われない。10人ぐらい来たとしても そんな大きな寺は要らないわけです。まあ、百人、二百人となると寺院の必要を感じるようになる。 あの頃の貴族は、非常に神の力、仏の力にすがりたいという気持ちが強かったのです。ことに 赤沢平あたりに来ていても、いつ京都から追っ手の軍勢が来るかわからないという不安があります。 そこでお寺も必要となってくる。私は、最終的には、貴族方は家の数で五、六百軒、人の数で 三千人くらい、もしくはそれ以上になったと思います。その人たちが谷内から上、岡、相吉、城原、 中子に住んでいました。赤沢は別なのです、赤沢地内は武士の住まいに当てられていたのです。

更に北朝の勢力に対抗して、赤沢の本城をを中心に砦として今井城、小下里城、赤沢南城、宮野原城、 小池城、穴藤城などを築きます。どんどん規模が広がるわけで、赤沢平だけでは間に合わなくなって くる。そこで陣場下、正面ヶ原まで、第2階級くらいの武家屋敷を造りました。中子から正面ヶ原 までの建築工事で、いかに新田氏が勢力があったときの仕事とはいえ、これは非常な熱意がなくては 出来ないことです。

現地で間に合わない物資は上州から馬の背に乗せ草津街道を通り、切明から 秋山を経て、石坂あたりから赤沢平に来たものと思います。たくさんの馬がやってくると、どうしても 中継所みたいな所が必要となってくる。そこが奥赤沢といわれ今の大赤沢にあたると思います。 さて次は妙法院の方ですが、あのそばには大谷内という所があります。これは大赤沢をたとえて言えば 谷内へ物資を運ぶ中継所ではないか、そう考えると筋が立つのであります。

津南町でも一番歴史のある赤沢集落
赤沢平には五、六百件の貴族が居た。その中には非常に地位の高い人もいたに相違ない。そうゆう人たちは 京都におった時には一体どうして生活をしていたのかと申しますと、みんな荘園というのを持っていた のであります。主人の困っているときは、昔からの主従関係のよしみで相当の物資が集まり、平和な 生活が続いたものと思います。

しかし世の中がうるさくなり、一大事となって赤沢平の平和も滅び去る時期がやって来ます。 それは南朝方の後醍醐天皇が鎌倉に幕府を置く北条氏を倒そうと、上州の新田義貞に倒幕を命じて 来るわけです。しかし天下を実際に率いているのは北条氏、これに向かって「打ってしまえ!」 と言うのですから無謀といえば無謀な話です。しかし、新田義貞はそれを拝命し受諾しているのです。 つまり自分の所に預かっているのは南朝方の天子や身分の高い貴族方だから断るわけには行かない。 そこで意を決して倒幕の軍を起こすわけです。その軍の中には越後妻有の荘の武士たち大井田、中条 、烏山、羽川、田中等新田氏関連の氏族も加わります。

義貞は集まった倒幕の軍勢を率いて鎌倉に 進みます。これは本当にのるか反るかの戦いでした。しかし作戦がうまくいって、最後は敵の 虚を突いて江ノ島から攻め込み、この時味方の指揮を鼓舞するため、稲村ヶ崎で竜神に黄金造りの 太刀を献じ、潮の満干に合わせた有名な話もありますが、とにかく鎌倉に攻め入って、直ちに火を 放ちます。風が幸いして鎌倉の町は枯れ葉に火をつけた如く一挙に燃えてしまい、北条氏もあっけなく 滅びてしまいます。

義貞はたちまち天下の英雄となって、召されて京へ上がり、凱旋将軍として非常にもてました。しかし そこへ足利尊氏がライバルとして現れます。同じ源氏の流れではありますが、両者は以前から ことごとに敵対関係にあった。その尊氏が京にあって、御醍醐天皇に謀反の旗を挙げ義貞と争う ようになります。しだいに義貞の方が戦いに敗れ京都から逃げ出します。北国を回って越後のほうへ 帰ろうとしたのですが、越前の国の藤島で戦死してしまうのです。

御大将が戦死してしまったので、部下はどうしようもない、そのことが頻々と赤沢平の方にも響いて 来たことでしょう。赤沢平の貴族や武士たちは大変な事になったと感じるわけですが、そのうち生き 残りの人たちがポツポツ帰って来る。そうしてその人たちを中心に赤沢平の防備を固めるわけです。 そうこうしているうちに、暦応4年(1341年)5月28日、北朝方の市川氏が攻め込んで来た。 志久見川を越えて、赤沢の出城である宮野原城や小池城に攻め込む。両方とも小さな城でしたが、 一度は防いだものの再度来攻して出城を破り、赤沢平に上がってきて、貴族屋敷には目もくれず、 赤沢館に攻め込み、同年6月3日までにこれを焼き払ってしまいます。

「赤沢館址」と刻まれた石碑、
申し分けなさそうに敷地の隅に
建っている。
土台は除雪作業で少し傾いていた。
大日本史料という歴史書によると、それには赤沢の館とありますが、館というのは城じゃない。 殿様のいるところで、足ヶ崎中学校(現在の農協の選果場や予冷庫)のあった場所が堀をめぐらした 広大な屋敷になっていました。そこが焼かれたのです。
それから更に「赤沢南城落つ」とあります。 今井城とか赤沢の下城は堅固に敵に対応していたのだけれども、あまり動かなかったようです。 敵軍はそこに向かわないで、それより南を通ったわけですね。「赤沢南城落つ」これで三百年に 及ぶ新田氏の経営は終わりになるんです。

まあ、大変なことではありますが、義貞は死ぬ、赤沢の館や南城は焼かれ、残った兵士は自分の 国に帰る。しかしその時は谷内から上の方は焼かれなかったですね。七堂伽藍を備えた泉秀院の 焼かれたのは、藤木家の文書を見ますとずっと後正の永正年間(1570年)です。谷内、岡、 相吉、城原、中子などにあった貴族の邸宅などは勿体無いような家でしょう。それを焼いて しまうような馬鹿はない。信州から来た人達がそこへ入れるんだから。

ところで平安朝の京都から来た貴族方はその後どうなったのか・・五、六百軒の家にいた人たちは? その中で妙法院あたりから逃げ下りた一族だと言われている人達だけは宮野原にとどまったようです。 今も宮野原へ上がった入り口近くに「中村」という姓の人たちが居ます。私は妙法院のことを知り たいので前の公民館長の樋口さんとお尋ねしたことがあります。五、六軒くらいの中村姓がありますが 、大変豊かな暮らしぶりでした。
人間の性格とか能力というのは系統を引くものですね。 その本家に上がって掛け物などをいろいろな品物を見せてもらいましたが、みんな平安朝のもので 実にゆかしい感じがしました。系統と申しましたが中村一族には教育に従事する人が多いですね。 つまり平安貴族の残った人たちは、それなりの生き方をすると判り興味を覚えました。

それはそれとして、赤沢平の貴族のことですが、新田氏の滅びたことによって、行くところもない。
結局みんな一緒に秋山の渓谷へなだれ落ちたわけです。


紅葉の秋山郷、後ろの絶壁の上が
赤沢平。
秋山郷の貴族

現在の情報化社会では、世相も、人情も、風俗も急激に変化 しておりますが、昔の人々の生活は少しずつ変化してきても、旧来の様式は長く尾を引いております。
皆さんもご存知の鈴木牧之が「北越雪譜」や「秋山紀行」の中で詳しく述べておりますね。 牧之は塩沢の人で文政十一年(西暦1828〜、赤沢落城より四百八十七年後)の旧暦9月8日より 14日まで、十二峠を越えて秋山郷を探訪しています。 そして、その著書の中で京都貴族伝来の風俗、習慣と思われる事柄をいくつも書いています。 そのことについてまず触れてみます。

(1)秋山郷では、昔から越後からの入り口・清水川原、信州からの入り口・切明と前後の戸を閉じて 、その中にこもって生活している。婚姻は秋山郷内で行い、もし他郷の男と通じた女があれば、 親戚縁者とても相手にしない。
どうしてこんなことになったのかを察しますに、赤沢平から落ちて来た貴族は藤原氏のあとだという ことを知らせたくない。それが知られると足利一党ににすぐつかまる。 新田氏の世話になった、あるいは南朝の系統だと知られると、まあ20騎か30騎入ってきても たちまち滅ぼされてしまう。それを恐れたのではないかと思うのです。

(2)大赤沢に行ったとき「道の左の方森々たる古木の中に一社あり、村人に尋ねれば八幡宮と唱う。 中宮は左甚五郎作のよし申し伝えしとかや。ここにおいて予感疑わしきなり。そもそもこの秋山は 平家の落人と申し伝うに秋山の中央の村に何ぞ源家宗廟を氏神に待つらんや」と牧之は不審がって いますが、新田義貞が鎌倉攻めのとき、妻有からの加勢の兵が鶴岡八幡宮の分影を奉じて赤沢八幡 を祭ったという故事と関係があると思います。

(3)始めのお話で谷内にあった龍池山泉秀院の本尊様は後世天正のころ大井平の善福寺に移されたと 申しましたが、秋山郷15ヶ村のうち寺や庵室、堂というものはなく、清水川原での牧之の問いに 「菩提寺は上妻有大井平の善福寺なれども、引導様(死者を埋葬するときの僧侶)のことは冬・春 は深雪の山路難所故、寺へは無沙汰」と答えています。その代わりに、大赤沢に如来様という家が あり、そこには黒駒太子が乗っている像画いた軸がある。人が死ぬとそれを借りてきて、死骸の上に かざして拝ませる。それで弔いをしたことになるわけです。

(4)小赤沢では、市右衛門と言う人の家に宿っていますが、主人の言うには、「系図とやらは拙本家 、平右衛門と申す家に伝わりたるが、此村によらず秋山中はあきめくらで、その主始め、なにを書き たる事やら知らず、ただ昔より開けて見ることならぬ大切な物とて、里の人が希に願うても見せ申さぬ 。家のてっぺんに結い付けて、とても願うても見せない」と。これも外界と門戸を閉ざして先祖からの 氏素性を隠した遺風とと言えましょう。

(5)また市右衛門の話に「百年前までは、苗字は福原と山田の氏のみ」とありますが、福原の語源は 藤原じゃないかと私は思うのです。秋山郷の話とちょっとそれますが、中子には赤沢と関係のある苗字 がたくさんある。「関沢」「石沢」など、これは赤沢を「せきざわ」とも読めることから来たので しょう。藤原から生まれた藤木、半戸(半藤)などもあります。これは赤沢を貴族を守る武士の地区に した。そうすると今まで赤沢にいた百姓はどこかに移らなければならない。そこで人口過疎の中子に 移った。昔から中子は赤沢の枝郷と言われていますね。しかし赤沢の赤沢と言う名に愛着がある。 そこで関沢、石沢と名乗った。涌井も赤沢に「涌井の池」という所があるところからだと思います。 この例のように秋山でも藤原をわざわざ福原と名乗った、私はそう思うのですね。

(6)また、市右衛門の家に京美人の後裔を思わせるような姉妹の事も書いて「色白くして玉を並べ たる美人なり。菓子を喰いながら顔見合して打笑みたる面差し、愛嬌こぼるるやうなり。かかる 一双の玉を秋山の田夫が妻にせんは琴を薪としてすっぽんを煮るが如し」と言っています。 また、和山でも三十歳ばかりの婦人の美しさを誉めて「破れたるを着ると言えどもその容 勝れ 、鼻ほど良く高く、目細う、蛾に似たる眉墨、顔はいささか日に黒むと見ゆるども鉄水つかぬ歯は雪 よりも白く、若人は一目に春心を動かす風情、あたかも泥中の蓮の如く、雨にほころぶ芍薬に似たり」 と書いてあります。

(7)秋山郷の人々の気風については「此地の人すべて篤実温厚にして、色欲に薄く博打を知らず、 酒屋なければ酒飲む人なし。昔より、ワラ一すじにても盗みしたる人なしと言えり」したがって、 どこの家でも戸に鍵をかけるということなく、「ただ、夜も昼も稼ぎを専らとする所と言うに、予も なおまた、秋山人の身にはつたなき俤なれども、追従、軽薄もなく、里人にお附合わず 蝸牛の角の争いもなく、実に知足の賢者の栖とやいはん」と絶賛しています。

私は以上の事を持ってしても、赤沢平からこの谷に落ちた京貴族の気品や誇りが傳えつたえて、牧之 探訪の時代まで綿々尽きなかったものと思うのであります。

さて、お話は前へ戻りますが、暦応四年(1341年)北朝方の市川倫房などの軍勢に、新田方が 破れた後、赤沢平の約三千人の貴族の末路はどうなったか。赤沢の館も城も敵に火を放たれて、天を 焦がすように燃えています。頼りの武士は居なくなる。結局、いたるところから秋山の谷に下りて 来たものと思います。下りられるところはどんなところからでも、滑ったり転んだりして・・・。 中には母の形見という琴や着物をくるんで奉公人に背負わせたかも知れません。手を引き腰を押し、 泣きながら駆け下りて来た。

冬の見玉から秋山郷を望む、入り口
の清水川原は、まだずっと奥にある。
時はまだ六月、今の八月でまだ寒くはないからいいけれど、そんなに大勢入ったのでは住む家が足 りません。「少しでもいいから入れてください」と願って入ったと思うんです。しかし食べるもの がない。そのうち雪の降る季節になると着るものがない。まあ、いわゆる秋山生活が始まったわけ ですね。これはまあ、あまりにも悲惨で私たちには想像もつかないことでありまして、過酷な自然に さらされて飢えと寒さにこごえ、そして病み、相抱きつつ死んでいく。私は、谷に落ちて後の五十年 もたった秋山生活はもう目も当てられぬものだったと思うのであります。ようやく生き残った子孫が 牧之の時代まで続いたのだと思います。

そこで秋山人の先祖はなんだろう、といろいろな論が出るわけです。まず、どこにもある平家の落人 伝説、或いは秋田のマタギ説、それからアイヌ人ではないか。上州から祖税を逃れにきた人たちでは ないか等々。一番多い平家落人伝説では近くに小松原の地名をとって小松内大臣平重盛の屋敷あととし ていますが、あんな湿地帯に人が住めるわけがない。

前にも述べたように、小赤沢では市右衛門という人の所へ泊まったのですが秋山でも裕福な家だった。 そこで障子を見た。昔の障子とは部屋を隔てる板戸のことを言ったものです。そして、その奥の部屋 には若い夫婦の寝る所と見えて、むしろが下げてある。今ならカーテンでしょうが昔の平安時代なら帷 といった垂れ絹ですね。金襴緞子ならまだしも、帷の代わりに古いむしろをですね、私はちょっと哀れ で涙が出たですね。とにかく平安朝のしきたりというか、香りというか、貴族の誇りをずーっと保って いるのです。赤沢落城以来四百八十余年後多くの人たちがこの谷に下りて衣食なく餓死、凍死したであろ うに、生き残りの人たちはまだその気風を伝えつたえて来たのですね。

私はこうも考えた。あの人たちは食う物もなくて死に絶えていった。もし積極的な人があって「源氏 物語」でもよい「万葉集」でもでもよい。何十部か写本して、これを里に行って売ったなら、秋山に 入った人たちが一ヶ月や二ヶ月生活できるだけの収入は十分得られる、と。ところがそうゆうことを しないのです。というのはこの金を得るために字を書くという職人みたいな仕事を京都からの貴族は 賤しんだんですね。なにか秋山の人には誇りがある。自分達の昔のことを忘れない。そうゆう思想の 背景がある。これが貴族の末路となるわけですね。

京都貴族の生活を、二つの面に分けることが出来ると思います。

一つは理想美の追求ですね。 和歌をつくり、音楽を奏し、花の美しさ月の美しさを賞でる。恋の美しさにひたる。そしてそのために 競いあう。これが代表的な思想で、赤沢平での生活もこれであったでしょう。

二つ目は、滅びこそ美しいという生活態度です。名門に生まれながら出家して幽玄境地を生んだ西行 「山家集等」同じく仏門に入って「新古今集」「小倉百人一首」その他数々の著作を残した藤原定家 、江戸時代の中期にはその流れをくんで「わび」「しおり」「さび」の実践者・俳人松雄芭蕉が、末期 には大愚といって「任運」を唱えた良寛和尚が現れています。いずれも、滅びこそ自然であり心理で ある。このなかにこそ永遠がある、という考え方です。秋山の谷に落ちた貴族はこの滅びの思想に素直 に従ったのです。

良寛はこの滅びの美を最後に完成した人でありましょう。こういう詩を詠ってあります。「袋中三升の 米、炉辺一の薪、夜雨草庵の内、両足を縁に伸し・・・」つまり袋の中には米は三升しかないが草庵 に寝て、目覚めれば一晩中木の枝を焚いて古人の詩を読む・・・これなどは秋山の生活に非常に似て いるではないですか。

秋山人の生活を、ボロを着て人の口にとうてい入らないものまで食べ、裸足で猿のように走る。まるで けだもののようだ。なんだかその元が判らない。だからアイヌの子孫だとか、秋田マタギが定住したの だと言う人がいますが、これほど秋山渓谷に住む人を侮辱した話はない。鈴木牧之の書いた「北越雪譜 」や「秋山紀行」にうそはない。村々を歴訪して真実そのものを書いています。その書物の行間ににじみ 出ている秋山の人たちの心の中に入ってみると、私は平安朝の貴族そのものの心に触れるのです。

つまり滅びこそは真である。滅びこそは永遠である。という思想。飢餓に襲われ相抱いて死に絶えてゆ く村人が、人のものはワラ一すじも盗むものがなかったという、そのなんとも言えない素直さ、これを 私は本当に貴いと思うのであります。

さてこの辺で私の話を締めくくらせてもらいますが、まことに申しにくいことではありますが、ここで 津南の皆様に厳重に抗議申し上げたい。

赤沢の元の芦ヶ崎中学校の跡地はどうなっているか、という ことです。妻有荘防衛の最先端として、新田一族の本処であった。「館の内」(立ノ内)はどうしま した。土手を崩し、堀を埋め、すっかり痕跡を無くしているではありませんか。
農業は大事、農協設備 も必要、私もこの地に生を受けた一人としてそれはよく判っています。しかし、土地は別の場所にいく らでもあるでしょう。過去があっての今日なのに「歴史なんてどうでもよい」そうした考えをもってい る人が居るに違いない。恐ろしいのはそれを黙っている津南精神の中にある「ゆるみ」であります。

老人が変なことを申しまして済みませんが、保養基地も出来ている今日です。館の中は大聖寺も含めて 一大公園を作り、そこに名彫刻家の成した「もののふ」(武士)という銅像でも建てたらどうですか。 山は青く水は清き、この土地の他の名所・旧跡もこれに加えたら人はどんどん入ってくる。その人 たちに人間精神の真髄に触れてもらいたい。自分たち一門に懸けられた寄託に報いるため、一族挙げて 滅びていった。「もののふ」の赤心を知ってもらいたいです。

秋山郷もおそらく今より有名になるで しょう。昔日、文化の最先端の思想をもった三千人もの貴族が惨酷な権勢と不幸な環境に虐げられながら 、少しもそれに反抗せず、素直に滅びていった美しい人間の生きざまが多くの人の関心をひいて、 観光地としても大きく伸びるでしょう。津南町が皆さんの努力によって全ての面でますます栄えて 行きますように、そのためには美しい自然を汚すことなく、美しい歴史を守り伝えてゆくことが 現代に生きる町民の義務だと思います。

どうも失礼いたしました。


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